きみのてんごく

ハルサカカスミ

第1話 晩夏

 私が死んだって、いつか誰も泣いてくれやしなくなるのなら、自殺を選びたい。どうしようもなく、今を生きていたくない。私は暗闇の中、手を引かれるようにまっすぐと向かう先は、現実とは程遠い、海の底のような閉鎖空間が広がっている。

 思い出の中の私がこちらを見て笑っている。ものすごく幸せそうな顔をして、笑っている。楽しいことも、恵まれていたことも気づかないあの頃の私は、一過性の幸せを何も知らずに噛み締めているようだった。小学校の頃のバドミントンクラブで、親友の光希みつきとダブルスを組み、経験者相手に惨敗しているのにも関わらず笑顔でいる。卓球部に入部し、光希のスマッシュを打つ姿を横目に見て目を輝かせる私。光希といつか行ったテーマーパークにて、笑顔で絶叫アトラクションに乗る私。俯瞰して全ての姿を見ると、どの顔も生き生きとしている。

「あの頃の方が、私幸せだったなあ」

 そう思うと同時に、思い出の私がこちらを見て顔が歪み出した。奇妙な笑い声が聞こえる。

「そうだよね、そうだよね。あの頃よりも随分と変わっちゃったもんね。不幸ぶるのはどう?」

 たくさんの私らしきものが不協和音を奏でる。

 何か思う間もなく、視界が反転する。誰かに押し倒されたようだった。誰かが私の首を押さえつけていた。はあはあと息が苦しくなる。辺りが見えるようになると、眼前に誰かがいることが分かった。

 ぼやけてきた意識の中に、長いロングヘアが映る。それが光希だということに気づいた。君はどんな顔で私を見下ろしているのだろう。その顔を見ることもないまま、目の前が暗くなった。

 次は、高層ビルの屋上に立っていた。闇夜の中、赤くピカピカと光っているビル群を見渡す。生ぬるい風を身体中に浴びていた。

 屋上から下を除けば、街灯や信号機でさえも豆粒程度に小さく、視界に映る。

 次の瞬間、体がふわっと浮いた。逆さまになった大きなガラス窓が視界に飛び込んできた。そこで、屋上から飛び降りたことに気がついた。


 ビクついて目を覚まして、これが夢だとようやく気づく。一筋の涙が落ちて、枕にひとつ染みを作る。心臓がどくどくと脈打ち、息を吐く音が部屋に響く。

 枕元にあるスマホを確認すると、午前3時だった。このような夢は、今日までにもう何十回も見たことがある。思い出に、首を絞められて殺される夢。もうこの世のあらゆるものすべてに希望が持てない。目の前がどんよりと暗くなって、頭がうまく回らなくなる。耳に届いているのに、処理しきれず流れていく。その繰り返しで、もう私そのものがくたびれてしまった。

 でも今日で終わりだ。なぜなら今日私はようやく私を終わらせるからだ。ロープを買うお金も、勇気もないからスマホの充電ケーブルを代用するが、まあ成功するだろう。

 そして今日は親友の光希と縁を切る日だ。


 遡ること5日前、光希とのチャットアプリを開き、スマホを叩いて連絡する。


「話があるから、電話したい」

 数十分して既読の文字がメッセージの側に付いた。光希から着信がかかってきた。


「急にごめんね」

「ううん、大丈夫だよ。それにしても玲からかけてくるなんて珍しいじゃん。どうしたの?」

 何も知らない光希はいつも通りの優しい口調だった。私は不思議と落ち着いていた。私は、息を吸って例の言葉を、告げる。

「あの、もう関わるのやめよう」

 数秒の沈黙が二人の間に流れる。光希は戸惑っているらしかった。これは想定していた。

「え?なんで、そんな急に」


 光希は拍子抜けしているようだった。そんな光希を突き放すように、私は決めていたセリフを言う。


「何が悪いとかそういうのじゃなくて。私は普通じゃないから。親なんていないし。境遇とか環境が違うから、迷惑ばっかりかけてきた。もう疲れちゃったの。もう迷惑かけたくないの。それに、光希は私なんかがいなくても、むしろ私がいない方がどんなにまっすぐ前を向けると思う? 私足枷になってるんだよ、光希の」


「そんなことない。私、玲のおかげで頑張れてるんだよ」


 「またそうやって」


「だから、光希の足枷なんかになってないんだって」


「そうやって何でも持ってるから言えるんだよ。環境も、友人も、両親も全部。私にないものばかり。もう終わりにさせてよ」


 私のこの決心が揺らいでしまうから。でも私がいなくなって悲しむのは、光希だと思うから、光希には私のことを嫌いになってほしい。これから新しく幸せを掴めるようにするために。嫌いになって、早く私を忘れてほしい。

 光希の呼吸が,鼓動が電話越しでも伝わる。

 ついに、光希は口を開いた。


「…わかった。でも、最後に会って話させて」


「もう話したくないし、顔も見たくない」


「でもこうやってずっと付き合ってきたんだから、流石にそれは非常識だと思うんだけど」


「やだよって言ってるじゃん。早く終わらせたいんだって」


 会って、光希の悲しい顔を見てしまったら決心が揺らいでしまう。絶対に、自分の選択が間違いだったと、実感させられてしまう。


「本当に、お願い聞いて欲しい。これで最後だから。もう関わらないから」


 光希の言うことに私はいつも弱い。結果的に折れてしまった。やってしまった。


「もう、わかったよ。あそこの公園に集合ね。いつごろがいい?」


「31日の夜なら空いてる」


「6時でいい?」


「そうしよっか」


 それからすぐにじゃあまた、と言って電話を切った。晩夏の正午は、陽が眩しくて、カーテンを閉めた。閉め切った部屋で一人、夜を待っていた。

 静かな部屋は、普段なら気にならない音が多く聞こえてくる。エアコンの作動音、蝉の声、道路を走る車のエンジンの音、たまに聞こえる自転車のベルの音。そのどれもがもうすぐ終わってしまうけれども、全てどうでもよかった。

 それにしても生きる日数が5日、光希のせいで引き延ばさせられた。31日は8月の最後の日だ。一応その次の日も夏休みで、9月2日から学校が始まるが、9月が始まると夏休み気分ではなんとなくいられなくなってしまう。夏休みは8月までのイメージが染み付いている。

 私の通う高校は、宿題は基本出ないので、遊ぶかバイトに勤しむかだが、今年は大学受験なので私たち高校三年生は勉強をしなければならない。けれど、もう全て辞めてしまった。身辺整理として、部屋のものを少し捨てた。着なくなった洋服、いらなくなった書類、卓球部時代に使っていたラケットとケース。思い出なんか嫌いだ。勝手に美化されて、私を嘲笑うようになるから。

 ベットに寝転んで、天井のシミを数える。だんだんと体が鉛のように重くなって、ベットと同化するような錯覚を覚える。身体に流れる血や、汗やその他多くが全て重りになる。頭痛のせいで、頭の中でガンガンと響く音。微熱のせいで、ぼーっとする視界。

 動けない日は、朝から晩までベットの上でやり過ごす。起き上がるので精一杯で、トイレに行くのにも時間がかかる。スマホは眩しいので触れない。マナーモードにしたスマホは、もうバイブレーションを鳴らすことはないだろう。

 カーテンから漏れ出る柔らかい日差しが、キラキラと埃を反射する。それがいつの間にかなくなって部屋をさらに暗くさせる。時計の秒針が鳴り響く。

 私はこうしてやり過ごすことが大嫌いだった。こんな思いをするのなら、いっそこの身を終わらせてしまう方がマシだと思う。

 ようやく夜になって、身体が動くようになった。まだ部屋の捨てたいものが残っている。脚立を用意し登ると、クローゼットの上、卒業アルバムなどが入っている収納ボックスがあった。中を開けると、小5から書いていた日記があった。

 捨てたい、そう思ってボックスからノートを取り出そうとする。でもうまく取れない。どうやらボックスの中身がぎゅうぎゅうに詰まっていて取れないらしい。

 脚立の上でノートを取り出そうとする。次の瞬間、ノートが引っ張り出せたが、勢い余ってノートを床に落としてしまった。脚立から降りて、見開きになったノートを見る。そこには拙い字で書かれた光希との日常があった。

 私は、最期に光希とのの甘美なひとときを振り返ろうと、震える手でページをめくった。

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