32 行商人が憲兵に
月夜にまぎれて、あなたたちは村を発った。ときおりうしろをふりかえるイカミラの手を、あなたは強く引いて、前へ前へと進んだ。
数日をかけて、まっすぐ北に歩きつづけてから、逃亡した戦場を迂回して進路を南へ変えて、港町を目指した。港町まで行けば、きっとどこへでも逃げおおせるだろうと、たかをくくっていた。しかし、途中に立ちよった行商人でにぎわう町の食堂で、不吉な噂をあなたは耳にした。
「港の手まえの町で、脱走兵がつぎつぎに処刑されているらしいぞ」と、恰幅のいい行商人が召し使いに言った。行商人はいかにも上等な衣を身にまとい、口髭をたくわえていた。
顔に染みついた、媚びへつらうような自虐的な笑みをうかべて、召し使いは言った。「そいつは惨いですね」
「ほんとうか?」と、あなたは隣で話すふたりの会話にわって入った。
「ああ、仲間が言っていたから、間違いない。憲兵が網をはっているらしい」と行商人は言った。「ひょっとして、あんたもその口かい?」
「まさか」とあなたは笑うと、彼らのまえにイカミラを押しだした。「俺はこいつで商売をしているんだ。どうだい? よかったらおふたりも」
行商人と召し使いは顔を見あわせた。イカミラは曖昧に微笑んだ。
「機会があればな」と行商人は言って席から立ちあがった。召し使いもあとにつづいた。彼らは勘定をすませると、店をでていった。
ほどなくして、食事をおえたあなたとイカミラも食堂のそとにでた。すると、制服姿の憲兵が、泥に汚れた肌着姿同然の男を蹴りあげているところにでくわした。
汚い男は地面にうずくまって、両腕で頭をかばった。人々は遠巻きに様子をうかがっていた。あなたは一瞬身をかたくしてから、イカミラの背を押して足早に立ち去ろうとした。
そのとき、さきほど食堂で話しかけた行商人が、訝しがる表情をうかべてあなたを見ている気配に、目ざとく気がついた。行商人が憲兵に近よっていくのを横目で認めると、あなたとイカミラは駆けだした。
あなたは進路を変える必要に迫られた。だが、行くあてなどどこにもなかった。あと数日進むと、もといた戦地の目と鼻のさきに突きあたってしまうというのに、いったいどこへむかえばいいのか、皆目見当もつかなかった。
なんとなくあなたは西へ進んだ。明確な理由はなかったけれども、きた道を引きかえすわけにはいかなかったし、どの方角よりも高い山脈がつらなっていて、深い森がひろがっていた。たったそれだけの理由だった。
道中、あなたたちは無言だった。追手の気配に怯えながら、ただひたすらに突き進んだ。平坦だった道がしだいに傾斜をおびてほそくなってゆき、あたりは鬱蒼と濃い樹木におおわれて、とうとう険しい山道に入った。土の道は黄土色で水気がおおくて、あなたたちの足元はみるみる泥で汚れていった。
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