31 昆虫さながら
日が落ちるのをあなたは待った。見晴らしのいい草地で腹這いになって、見つからないように身動きのひとつもとらず、夜の足音を待ちのぞんだ。戦地で息を殺して、死をすぐ背後に感じながらやりすごすのと比べると、まったくもって気楽だった。
おだやかな風が草木をなでて、鈴虫がなき、あたりはにぎやかな音にあふれていた。やがてすっかりと日も暮れて月明りに満ちると、あなたは静かに立ちあがり、村にむかって歩きだした。はやる気持ちをおさえきれずに、じょじょに小走りになっていった。
村のはずれに建つ生家の戸口に立ったとき、あなたはしばらくぶりに、生きる活力のようなものが胸の底からわいてくるのを感じた。もしかしたら、また生きなおせるかもしれない。そんなあわい期待までこみあげてきた。
古びた木製の引き戸をあけて土間に滑りこみ、血と泥がついたゲートルをはずし、ブーツの紐をゆるめて脱いだ。暗く静まりかえった居間をとおりぬけると、奥の部屋でイカミラが眠っていた。
あなたは立ちつくして彼女を見おろし、深い寝息に耳を澄ませてから、片方の膝を床についてしゃがみ、イカミラの肩をゆすった。彼女はすぐに目を覚ました。起こしたからだをかたくこわばらせて、うしろにのけぞって、あなたから距離をとった。
「どうして!」イカミラは目を丸くして、口元を両手でおおった。
「むかえにきた」とあなたは低い声で言った。「いっしょに逃げよう」
あなたは汚れた手でイカミラの両肩を強くつかんだ。彼女はあなたを見た。部屋にさす月の光に照らされたあなたの目は、本能がくだす指令にたんたんと従う昆虫さながら、ひややかで無機質だった。
「生きていよかったわ、ほんとうに。ほとんどみんな、死んでしまったって聞いたのよ」とイカミラは落ちついて言った。「でも逃げるって、いったいどこに?」
「時間がない」と言ってあなたは手にいっそう力をこめ、彼女を持ちあげて立たせた。「早く着替えて荷物をまとめてくれ」
「あなたは勝手よ、いつも」とイカミラは小声で刺すように言った。「自分から村をでていって、いきなり帰ってきて、あまつさえ、いますぐに逃げようだなんて、身勝手にもほどがあるわよ。それにわたし——」
イカミラが言いおえるまえに、あなたは手の甲を鋭くふりぬいて彼女の頬を打った。乾いた音がして、彼女は倒れこんだ。
「早くしろ」
彼女は熱をおびた頬に手をあてて、自分を見おろすあなたの暗い目をのぞきこんだ。短く息を吐き、観念して首をふってから立ちあがり、寝巻を脱ぎ捨てて着替え、いくつかの衣類や日持ちしそうな食料品を、おおきな布の鞄につめこんだ。
あなたは家のなかをぐるりとまわって、ほかに持っていくべきものがないかと考えた。だけど、どれだけ注意深く目をこらしても、なにひとつとして思いうかばなかった。でていったときからまるで変化がない家を見わたして、変わってしまったあなた(元からの傾向が際立って現出しただけのことに思えるが)をふたたび実感したのだった。
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