魔動船の花嫁 #9

 冷たく落ちる雫が、涙のようにロッシュの頬を伝う。ぼんやりと目を開けると、なにもない。右手を顔の前へ、握っては開きを数回繰り返し、動きを確かめる。いつからだろか、目覚めに右手の動きを確認するようになったのは。

 上半身起こし、辺りを見渡す。とても静かだ。まるで竜舎の朝、竜たちが眠る夜明け前のように。繰り返される日常に、もう一度目を閉じたら戻れるのだろうか。目を閉じてる。まぶたの裏に浮かぶ、泣くように笑うレリアの顔。



 立ち上がり、改めて辺りを見渡す。目を凝らしても、暗くなにも見えない、なにも見えないが。目を閉じ耳を澄ませる。深淵のような闇を、注意深くさぐる。

 微かに届く音。先程までは恐怖と不安の対象でしかなかった、あの音。でも今は、彼女の元へ導いてくれる唯一の希望だ。しっかりと方向を見定めて走り出す。約束したのだ、必ず帰ると。必ず。



 爆発音に導かれ暗闇から抜け出すと、目の前に広がる空と森。深く静かな緑界と、どこまでも澄み渡る空。その境界線が薄っすらと光を帯びている。

 突風が、ロッシュを船から引き剥がそうと吹く。慌てて船体を掴んだ右手に走る鈍い痛み。しかし離せば奈落の底、緑界だ。足元で絶えず上がる黒煙。左右からは、耳元を塞ぐ金属を無理やり引き裂く不快な音。後ろを振り向くが、今来た通路は炎に包まれ、影も形もない。地面を確認するが、真下に広がる太古の森は、かすむほど遠い。白んでいく空を仰ぎ見て、目を閉じて大きく息を吐く。



 ロッシュは目を開け、辺りを見渡す。取り囲む状況は悪化するばかり、だが。眩しい今日が登る空、輝くその光の中を見つめ目を凝らす、いつもの音がした方へと。



 空を覆っていた船が黒く燃え、船尾を下にして空高く徐々に立ち上がり、緑界へ沈んでいく。

 黒煙が立ちのぼる船の周りを飛ぶ、竜と騎士たち。街と砦への被害を最小限になるように、懸命に消火活動を行っている。

 無数に飛ぶ竜、その中から1頭が砦の発着場を目指して、一直線に飛んでくる。駆けるような見事な着地。数人の竜舎番が駆け寄る。

「かまうな!ありったけの水を掛けろ」

 体からもうもうと湯気を上げ、息が荒い二キスがひと鳴きする。その背中から飛び出し、限界ギリギリまで、沈む船に近づこうとする少女。続いて二キスの背中から下りた騎士が、駆け寄る竜舎番たちを片手で制して、少女の隣へ歩み寄る。

 黒煙が広がる空を、唇を噛み締め見つめる。胸元で握った両手。

「ありがとうございました」

 隣に立った騎士、タザンから言われた場違いなお礼の言葉に、レリアが思わずタザンに振り返る。

「正直に話しますと、我々騎士団は貴方を救出に行けずにいた。厄災の鳥、ロックバードが目前まで迫っていたので」

 食い入るように見つめる瞳に浮かぶ、困惑と不安の色。

「でも、それを真っ向から否定する者がいた。ロックバードは来ないと言い切った者が。だが我々はそれを鵜呑みにはできなかった。過去の悲劇がそれをさせなかった。そこで賭けをすることになったんです」

「賭け?」

「ええ。団の揉め事は賭けで決める。古くからある馬鹿げた仕来りですよ。でもそいつはそれに賭けた。頭を下げてまで」

 胸の前で組んだ両手を口元に上げるレリア。溢れそうな想いを堪えるように。

「あいつが人のために頭を下げるなんて。あいつとは古い付き合いになりますが、今まで一度もなかった。あの偏屈で、なんでも知った顔をするあいつが、頭を下げてこう言うんです。貴方は自分と同じだ、ひとりで戦う貴方を、これ以上ひとりには出来ない、と。そう言って皆の前で、何度も、何度も、頭を下げるんです」

 言葉は出ず嗚咽もなく、ただただ溢れ出た涙が止めどなく、頬を濡らす。

 どこからともなく上がる声。タザンとレリアが、その声が指す方角を見つめる。立ち上がった船の中央付近、船底が裂け、船が折れ曲がる。同時に、船に群がる竜たちが離れていく。

「待ちましょう。必ず帰る、あいつが言った言葉を信じて、それに……。貴方を助けたいと願い出たのは、ひとりじゃありませんよ」

 断末魔のような音を上げ、緑界へとおちていく黒い船。ただ祈るように、レリアはそれを見つめる。



「センパーイ」

 光の中から声がする。もう一度目を凝らす。小さな点。それがこちらに向かって急速に近づいてくる。

「せんぱ、わ、こら、まっすぐ飛んで」

 ジストに乗ったリズが、危なげな飛行で、こちらを目掛けて飛んでくる。

「先輩。いま、助けますから」

 突然現れた、小さな希望。しかし船付近の上空は、黒煙と炎に包まれ、さらには嵐が置いていった突風が吹き荒れ、容易には近づけない。

 船体へ近づき渦巻く風にあおられて、体勢を崩すリズとジスト。急旋回、急落下。ジストの飛行にもリズは翻弄されている。

「もういい、戻れ。俺はなんとか……」

「イヤです!なんとかなる分けないじゃないですか」

「このままじゃ、お前も巻き込まれるぞ。いいから戻れ」

「イヤだったらイヤです!先に諦めなかったのは先輩じゃないですか!あれは嘘ですか!」

 もうもうと上がる黒煙。ただ黙って、ロッシュはリズを見つめる。

「嘘かって聞いてるんですよ!私は騎士になるんです、絶対に。こんなことに、負けてられないんです!」



「手綱を引けリズ。大丈夫だ、ジストはお前に、必ず応えてくれる」

 ロッシュの声に反応して、力いっぱい手綱を引くリズ。ジストが大きく翼を広げ、渦巻く風を切り裂いて、堂々たる飛行でロッシュへ近づく。

 リスが左手一本で手綱を握り、右手をロッシュへとありったけ伸ばす。ロッシュもそれに答えるように、右手を伸ばす。

「届け。あと少し。届け、とどけー!」

 指と指。あと数センチ。足元から上がる、大爆破の音。



「落ちるぞ!」

 発着場へ次々と帰還する騎士と竜。それに駆け寄る竜舎番。発着所の隅に不時着した脱出用の小型艇からは、アムル船長と船員たちが現れる。

 轟音ごうおんと共に緑界に沈みゆく船。折れ曲がった一部が、防壁に僅かに擦れ破片を撒き散らしていく。あまりにも凄まじいその光景に、その場に居た誰もが目を離せず息を飲む。ひとり目を閉じ顔を伏せるレリアは、両手を胸の前に組み、祈るように願う。



「おい。あれ」

 どこからともなく聞こえた声に、即座に顔を上げるレリア。発着場の皆が、ただ一点を指さして声を上げる。

 今だに音を立て黒煙を上げて沈みゆく船。その上がる黒煙に見え隠れする、反射する光。


 小さく、ほんの小さく見える、黒き竜。その背中にはリズ。それとロッシュの姿。



 歓喜の声が湧き上がる。再び溢れた涙に滲むふたりと1頭。ただ口を押さえたレリアが、泣きじゃくる。



「わ、ばか。力の入れすぎだ。もっと優しく細やかに」

「やってますよ、やってます!あ、もう、言うことを聞きなさい、ジスト」

 歓声いまだ収まらぬ発着場に、いつもの調子で着陸するジストとふたり。勢い余って転げ落ちるロッシュ。

「ッテ。もう少し静かに……」

 起き上がりながらリズに文句を言うロッシュに、飛びつくようにレリアが抱きつく。

「……おかえり……なさい」

 泣きじゃくり途切れる言葉。胸に顔を押し付け泣く顔を、青く優しい瞳が見つめる。

「ああ、ただいま」

 最後の時。断末魔をあげ、船の全てが緑界に沈む。その結末を見つめるロッシュとレリア。暗雲が覆っていた空は、いつの間にか青く晴れ渡っていた。




「38……。39……。40……」

 走る人影。竜舎番の作業着に身を包んだお下げ髪のレリアが、発着場を横切っていく。

「45……。46……。47……」

「やっぱり。まだ、ここだったのね」

「あれ?どうしたのレリア」

 竜舎の外れ。軒下の梁にぶら下がるリズが、逆さになったレリアを見つめる。

「どうしたもなにも。もうすぐ時間よ。早く支度して」

「え!もうそんなじか、わぁ」

 驚き、気を抜いた拍子に梁から滑り落ちるリズ。

「てぇ、てぇ、てぇ……」

「まだ半分だぞ。もう一度最初から」

 脇の柱に持たれかかり腕組したロッシュが、落ちたリズに激を飛ばす。

「ロッシュも、いい加減にして下さい。もう時間です、おしまいです。本当にあなたは、いつも極端なんですよ」

 レリアに詰め寄られ、たしなめられたロッシュが、バツの悪そうな表情で視線を逸らす。その仕草にくすくす笑うレリアとリズ。ロッシュが逸らした視線の先には、新たに到着した船が、空に黒く横たわっている。



「全員敬礼!」

 空に浮く船に渡された舷梯げんてい。そこへと続く道筋に、甲冑をまとった騎士たちが立つ。その傍らにはそれぞれの相棒、竜の姿も。

 竜舎横の宿舎から現れた、白いドレス姿のレリアが、舷梯へと歩いて行く。その先に待つ、ひとりの甲冑が、レリアの前へ進み出て兜を取る。


「レリア様。この度は、砦でのご滞在お疲れ様でした。辺境の地ゆえ、何かとご不便をお掛けしたと思いますが、ご了承ください」

 不在の団長に代わり、副団長になったばかりのルイスが代表で挨拶に立つ。

「いえ。皆様には大変よくして頂き、何不自由なく過ごすことが出来ました。お礼申し上げます」

「勿体ないお言葉。感謝痛み入ります。ただ……レリア様が予てからご希望されていた竜への搭乗。これだけはご希望に沿うことが出来ず、大変申し訳ございません」

「いえ。団の規則なら仕方ありません」

「竜にはお乗せできませんでしたが、レリア様のこれからの旅の無事を願い、我が団、恒例の儀祝を」

 そう言うと片手を上げるルイス。事前の打ち合わせになかった流れに、戸惑いを隠せないレリア。レリアの元に集まる甲冑の男たちが、あっという間にレリアを担ぎ上げ、空高く放り投げる。宙を舞うレリア。さまざまな掛け声と共に、何度も何度も、羽のように空を舞う。


「ごめんねレリア。うちの団はみんな、お祭り好きだから」

 ようやく終わった祝いの儀式。降ろされる笑顔のレリアに手を差し伸べるリズ。

「そうそうお祭りと言えば、もうすぐ収穫祭が始まるんだよ。何日も街が華やかに飾られて、最終日の夜には願いを込めて空にランタンも飛ぶの、何十、何百も。それはそれはきれいなんだって。って言っても、私も初めてで、ノクトさんに聞いただけなんだけどね。そうそう、騎士団のレースもあるんだよ。私はまだ出られないけど……」

 まくし立てるリズの言葉を、うん、うん、と、ただ頷き答えるレリア。

「来年は必ず出る。それで必ず1番になる。誰よりも早く飛んでみせる。レリアが……レリアの元に届くように、どこにいたって分かるように。私はジストと一緒に、一番早く飛ぶ騎士になる、だから……」

 別れを惜しむ手と手を繋ぎ、レリアは頷く。


「リズ。私、貴方にひとつ、謝らないといけない事があるの」

 突然の告白に、リズの頭に疑問符が浮かぶ。

「貴方が大切にしていたペンダント。無くしたって、探していたわよね」

「うん。まだ見つかってないんだけどね」

「あれ……私が拾ったの」

 自分の失敗を笑って誤魔化したリズの顔が、驚きに変わる。

「でもね。下船する時に船に忘れてしまって、それで……」

「レリアのばか!」

 レリアの両肩をわし掴みして、大声で叫ぶ。その目には怒りがにじみ出ている。その姿を見てレリアはうなだれる。

「そんなことのために戻ったの?あの燃える船に?ばかなの!ばかはがばか!レリアのばか」

 レリアを強く抱きしめる。

「そんなことで、レリアが居なくなるなんて、絶対にいやなんだから……もう、そんなばかな事しないで、もっと自分を大切にして」

 答えるように、レリアもリズを抱きしめる。


「そのペンダントは、これのことか?」

 抱き合うふたりの視線が驚きに変わる。ロッシュの手からぶら下がる光、虹色に光るペンダント。疑問を投げかけるように、ロッシュに視線が集中する。

「船内で見つけたんだ。大切なものなのか?」

 素っ気ない素振りの声に、思わず吹き出すふたり。その意図が分からず、ただ黙って、リズにペンダントを差し出す。ひとしきり笑ったリズが、受け取らず首を横に振る。

「それはレリアに渡して下さい」

「でも、それは……」

「ううん、いいの。そのお守りはレリアに持っていてほしいの。先輩、レリアに渡して下さい」

 おい。と、ロッシュが口にする前に、ふたりから離れるリズ。

「ちゃんと渡して下さいよ」

 そう言い残して駆けていく。


  ロッシュの手からレリアの手の平へ、ペンダントが渡され、レリアがうつむく。

「……私、忘れません」

 胸の前で握りしめるペンダント。ロッシュも静かに耳を傾け、上げかけた手を握る。

「この街で、砦で出会った人たちのこと。この夏の出来事を、決して忘れません」

 握った拳に力が入るロッシュ。青い瞳がレリアを見つめる。消えかけるレリアの声。

「……あなたのことも」




 空に浮かぶ黒い船が、砦からゆっくりと離れていく。まだ夏の暑さが残る午後の日差しを手で遮り、まぶしそうにロッシュは船を見つめ続ける。


「本当によかったんですか?」

 いつの間にか隣に立つリスが、ロッシュへ問いかける。

「なにがだ?」

 船から目を逸らさず答えたロッシュが、視線を感じ横を向くと、ニヤケ顔のリズと目が合う。

「……なんだ」

「さて、なんでしょうね」

 茶化す声と不服な声。夏から秋へ。移り変わる空へと溶けていく。



 空に浮かぶ船。船内の部屋。机に置かれたカップに注がれる熱い紅茶。レリアはそれに目を落とす。

「ポスカ。私は本当に、あの砦に行って良かったんでしょうか」

 落とした視線の先には、カップの水面に映る波打つ自分。差し込んだ日差しがテーブルを照らす。レリアの質問に答えぬまま、日差しを遮るため窓辺に移動したポスカが、手にかけたカーテンの動きを止める。

「姫様」

 そう言って促されるまま、窓辺に近づくレリア。眼下に広がる職人街。

 赤、青、黄、緑や白。様々な色のシーツや服、ありとあらゆる布という布が、街中で振られ広がっていく。まるで、花嫁を祝う花束のように。

「よい街でしたね、レリア様」

「ええ、本当に」

 その光景をいつまでも、レリアは見つめ続けた。




 世界樹。国の中枢から東の砦に向かう一筋の光。

 赤き鱗を光らせ、通常の倍以上のスピードで、空を駆け抜ける竜。その背中には白銀の鎧を身にまとい、兜に施された赤のたてがみをなびかせる騎士の姿。兜の下では、不敵な笑みを浮かべている。

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