第86話 鈴音とのキス

「……」


「……」


鈴音と隼人の間に沈黙が流れる。鈍感でない彼にとって学内で毎日のように一緒に過ごしているのだから流石に好意を寄せられていることには早い段階で気づいていた。それでも万が一振られる可能性があると思い中々踏み切れずにいた。


(本当はもっと相応しい場所で告白するつもりだったけど……今を自分の気持ちを告げないと彼女が離れてしまう、そんな気がする……)


不安な気持ちを押し殺しながら隼人は鈴音の返答を待った。そして更に数秒、いや数十秒経過してからか彼女が此方を振り向く。

口元はキュッと力が入っていることが分かる。そして彼女の目は細められており何度も目を閉じたり開いたりしていた。


そして一度深呼吸してから彼女は口を開いた。


「長瀬君……私も貴方が好きよ」


「な、なら!」


隼人はあまりの嬉さに正座姿から勢いよく立ち上がる。彼の身長は二メートル弱もあるのだから頭を天井へとぶつけてしまう。


「い、いてっ……よ、良かった。なら俺たちは恋人同士――」


「それでも貴方とは付き合えないわ」


「え……」


鈴音も立ち上がり隼人の目を見てハッキリ言う。


「……私は雨宮不動産の社長令嬢よ。一万人を超える従業員の生活を背負う運命にあるのよ。そんな私と貴方は付き合う覚悟はあるのかしら?」


鈴音は、遊びのような恋人としての付き合いは求めていない。それ以上の関係を求めているのだと自身の考えを述べていた。彼女にとっても賭けであった。普通の関係なら恋人から進んで結婚していくものだろう。その過程をスキップしようとしているのだから。


「覚悟……」


(雨宮さんがいない生活なんて考えられない。それにただ好きってだけじゃない。この人のために尽くしたいし努力したい。俺が自分の手で雨宮さんを幸せにしたい……)


「覚悟は出来ている。改めて言う……雨宮さん、俺と結婚して下さい」


「クスッ、言えたじゃない。なら貴方の覚悟を行動で示して貰おうかしら」


「行動……」


「えぇ、結婚には誓いのキスがあるわよね?私と結婚するなら、今ここでキスしなさい」


傍から見れば傲慢な態度と思われるかもしれないが、鈴音という女性にはそれが許される美しすぎる美貌と才覚、そしてオーラがあった。そんな彼女に惹かれてしまった隼人にとって、自分の人生を捧げることなど当然のことだった。


女性にしては170cm超えの高身長である鈴音であるが、190cmを超える隼人にとっては見下ろすような構図となる。彼女の顎にゴツゴツした手で触れる。そしてクイッっと上に向ける。彼女は抵抗など一切せずに、既に目は瞑られていた。


(キスすれば後戻りは出来ない……。でもそれがいい。俺の全てを捧げてこそ、雨宮さんの時間を貰えるのだから)


等価交換という言葉がある。それは価値が等しいもの同士を交換することであるが、鈴音の時間と隼人の時間では価値がまるで違う。少なくても隼人はそう考えていた。


そして隼人は鈴音の顎に手を添えたまま自身の顔を近づける。

彼女の端正な顔が目と鼻の先にあった。ここまで接近したことはない。後数センチで唇に触れるだろうという距離で彼女の口角がやや上がった。


その時、隼人は全てを悟った。


(なるほど……全ては雨宮さんの手の上ってことか。それでも俺は止まらない、いや止められない)


――ちゅっ


重なる唇と唇。柔らかいふにっとした感触が伝わる。ただ触れ合うだけのキスだった。それでも隼人の脳髄に様々な情報が流れ込んでくる。


(な、なんだこれ……か、体が溶けそうなくらいアツい!)


そのまま数秒、十数秒時間は正確には分からないがお互い唇を離した。そして隼人は脳が沸騰するかのような状態になる。それは疲れからくるものではない。彼女に触れた、キスしたという性的欲求からだった。


そして鈴音は折れそうなほどに細い指でスーッと自身の唇を撫でるように触った。

まるで隼人とのキスの余韻を楽しむようであり、それだけでも色気が凄まじかった。今にでも飛びつきたくなりそうな衝動を抑える。


「クスッ、これで契約成立ね」


「そ、そうだな……」


「あら頭が回って無さそうね。立っているのもやっとじゃない。座ったらどうかしら?」


「そ、そうする」


隼人は鈴音の言われた通り大人しく座ると、彼女はキャリーバックから書類の束から一枚取り出した。


「貴方の名前を書いて貰えるかしら?」


「こ、これは……」


朦朧する頭でもハッキリと分かる。


「ふふっ婚姻届よ♪」



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