第7話 悪魔の名札
部屋を出たあと、私はもう迷わなかった。
胸の奥に渦巻いていたものが、涙となってすべて流れていったからだ。
代わりに残ったのは、冷たくて、鋭い静けさ。
それは、今の私にとって唯一の指針だった。
私は間違っていた。そのことを教えてくれたのはルシフェル。
全て終わったら、猫のおやつでも買ってあげようかな。
《Nocturne》の前に立ったとき、看板の灯りはすでに消えていた。
けれど、ドアの鍵は開いていた。
私は、無言でその扉を押し、再び、あのバーの空気の中へ足を踏み入れた。
店内は、まるでいつも通りのように、整然としていた。
誰もいないカウンター、片付いたグラス、微かに残るワインの香り。
……違和感が、なさすぎた。
そのとき、カウンターの奥から、ひとつの影が現れた。
「……ルシフェル。」
黒猫は私を見ると、一言も鳴かず、するりと床に降りた。
どうして私より先にNocturneに辿り着いたのかなんてどうでも良かった。
そのまま、ルシフェルは、ゆっくりと店の奥へと歩いていく。
何かを知っている。
いや、すべてを知っていた。
私はその後を追い、セラーの扉の前で立ち止まった。
ルシフェルは、ためらいなくその扉をくぐり、階段の先へと消えていった。
地下へ降りると、空気は一変した。
あの心地良いワインの匂いはしない。
湿った土の匂いと、鉄のような金属臭が混じっていた。
ワインセラーのはずだった。
けれど、そこに並んでいたのは――乱雑に置かれた、大量の瓶。
ラベルも、形も、整っていない。
ひとつひとつに、手書きのレッテルが貼られていた。
「……なに、これ……?」
私は恐る恐る、その瓶を手に取った。
文字が書かれている。
M.YUKARI(2017)
TSUBAKI A(2021)
E.HARUTO(2013)
見覚えのない名前が、次々と現れる。
けれど、それが“何の名前か”は、すぐにわかった。
この場所は、人間をワインにするセラーだ。
この瓶の赤い液体はきっと、私が持ち込んだものと同じだろう。
私は、喉の奥が乾くのを感じながら、さらに奥の棚を見つめた。
そして――見つけた。
LUCIFEL(2025)
私はその場に立ち尽くした。他の瓶より遥かに大きく、沢山の液体がはいっていた。
ルシフェルは、私の足元で、一歩、二歩とふらついた。
そして、瓶の前で小さく鳴いた。
「……にゃ、あ……」
声が、かすれていた。
その小さな身体から、赤いものがにじんでいた。
毛並みに混じる黒と赤。
それは、明らかに――彼の血だった。
「ルシフェル……!」
私が叫ぶと、彼はその場に崩れ落ちた。
でも、微かに動くその尻尾が、まだ私に何かを伝えようとしていた。
このセラーの意味を。
この瓶の正体を。
そして――神崎という男の底知れぬ闇を。
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