第4話 沈黙のロック

あの夜から、私は“ワインの熟成”だけを見つめるようにして生きていた。

けれど、心の奥底に沈めたはずの“何か”が、じわりと浮かび上がってくる。

まるでセラーの奥に、未処理の瓶が一本だけ取り残されているような、そんな感覚だった。


その夜、私は《Nocturne》のカウンターにいた。

神崎さんは変わらず、静かにグラスを磨いていた。

神崎さんは、このグラスを、綺麗にしたいのか。私には、いつも分からない。でも、いつも通りの時間。

けれど、ルシフェルだけが違った。


あの黒猫は、足元にいなかった。

カウンターの奥から、低く小さな声で鳴いたかと思うと、するりと出口のドアへ歩いていく。

まるで「もう帰れ」とでも言うように。いや――「今夜はここじゃない」と告げているような気がした。


私はグラスに手を伸ばしかけて、それをやめた。

なぜか、今夜は飲んではいけない気がした。

ルシフェルが怖いのかもしれない。でも、ルシフェルなら、私の知らないことを全て知っている気がして済まないのだ。


静かに席を立つ。

いつものように、神崎さんは何も言わず、ただ手元を磨いているだけだった。

けれど――ドアノブに手をかけた、その瞬間だった。


「……梨花さん」


静かな声だった。

それでも、私は息が止まるほど驚いた。

彼が、私の名前を呼んだのは、それが初めてだったからだ。


振り返ると、神崎さんはグラスを置き、少しだけ視線を上げていた。

あの深い瞳に、私の顔が映っていた。


「……もし、蓋を開けるなら」

彼は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。

「覚悟して、飲んだほうがいい」


それは、優しさとも忠告ともつかない声だった。

私はただ、黙ってうなずき、扉を開けた。


夜風が、ほんの少しだけ冷たく感じた。

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