第3話 熟成の始まり

 あの夜から、私は「Nocturne」に通い続けていた。

 神崎さんは何も聞かなかった。

 瓶の中身が何かを、誰もが気にするはずなのに、口に出すことはなかった。

 けれど彼はそれを受け取り、奥のセラーの扉を開け、静かに中に運び入れた。


 「いい温度で、いい時間をかけて、いい“ワイン”にしておくよ」


 その言葉だけで、私は満たされていた。

 圭吾が、少しずつワインになっていく。

 それは愛の成熟であり、私の罪が醸されていく過程でもあった。全て熟されればいいのだ。

 愛も、罪も、全て熟していいワインになればいい。この罪は無くならないが、愛は残る。


 けれど、不思議なことがひとつあった。


 ルシフェルが、あの夜以来、私の傍から離れなくなった。


 カウンターに座れば、必ず足元にいる。

 神崎さんがグラスを置くときには、ルシフェルも一緒にその動作を見ていた。

 まるで“見届けている”かのように。

 いや、監視していると言った方が正しいかもしれない。

 黄色い目をきらりと光らせ、じっと、見つめるのだ。少し不気味だ。


 ある晩、私は神崎さんに聞いた。


 「……あの猫、ずっと私を見てますよね。嫌われてるのかな」


 「いいや」

 神崎さんは、いつものように、赤のワインを注ぎながら、目を合わせずに答えた。


 「きっと、君に何かを伝えたがってるんだよ。

 あいつはね、誰よりも真実を知ってる。

俺や、君の知らないこと。もしかしたら、世界が知らないことでさえ、あいつは知っているのさ。」


 そのとき、背筋がひやりとした。

 ワインを口に含んでも、喉がうまく動かない。全てが凍りつくようだった。

 

 真実?


 じゃあ私は、まだ知らないことがあるというの?


 圭吾が浮気していた。

 私はそれに気づき、圭吾に裏切られて、殺した。

 そう――そのはずだった。


 でも、なにかが引っかかっていた。


 圭吾のスマホはロックがかかったまま。

 メールの通知は見えたけれど、本文までは読めなかった。

 「ごめん、明日話すね」――そんな一文だけが残っていた。


 それが、“あの日の夜”だった。


 もしかして、彼は…?


 私は震える手でグラスを置いた。

 そのとき、足元のルシフェルが一声、小さく鳴いた。


 「にゃあ」


 それはまるで、肯定するような声だった。


 私はその目を見返すことができなかった。


 神崎さんの後ろ姿が、ぼやけて見えた。

 あの人は、今、何を考えてるんだろう。

 何を思い、ワインを作っているのだろう。


 そして、なぜあのワインを、あんなにも丁寧に扱ってくれるんだろう。




 ………熟成は、進んでいる。

 私の愛も、罪も、そして――疑念も。

 

 すべては、グラスの中で沈んでいく。ドス黒い赤に染まりながら。

 答えは……


 あるのだろうか。

 私は、ワインを口に含んだ。うまく飲み込めないまま。

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