第9話 ふたりの夜
それから、私たちは優ちゃんの部屋でお喋りをしている。
優ちゃんの部屋は全体的に見ると意外とシンプルな印象を受ける。無駄なものがなく、家具なども必要最低限のものしか置かれていないような気がするのだ。
そして何より、本棚にぎっしり詰まった書籍の数々が、この部屋の主の読書家っぷりを物語っているように思えた。
「やぶきさん、コーヒーと紅茶どっちにします?」
「う〜ん、夜だし、紅茶を頂こうかな」
「了解です。ミルクと砂糖は入れますか?」
「うん。ミルクだけで。ありがとう」
優ちゃんが飲み物を用意してくれる間、私は彼女のベッドの上に腰掛けていた。
ベッドからもさっきのシャンプーの香りがする……優ちゃんの香りが……。私はまた落ち着かない気分になる。
「お待たせしました〜」
優ちゃんがトレイを持って戻ってきた。
「ありがと。優ちゃんの家はお父さんもお母さんもお仕事でいないんだよね?」
「はい。二人とも仕事が不規則で忙しく、帰ってくるのも遅いんです。だから、基本的にはあたし一人なんで、自由にさせてもらってます」
「そうなんだ。大変だね」
「まあ、慣れてるんで平気ですけどね」
「そっか……」
私は言葉に詰まる。なんて言ったら良いのか分からなかった。
「大丈夫ですよ。学校に友達もいるし、寂しいとは思いません。それに、やぶきさんがいるじゃないですか」
「そっか……。そうだね」
優ちゃんの言葉を聞いて少し安心した。
「じゃあさ、今度私の家に来ない?」
「えっ?」
「ほら、私一人暮らしだし、たまには家で誰かと遊びたいし、どうかな? 優ちゃんさえ良ければだけど」
私は咄嵯にそんなことを口走っていた。
「ぜひ行きます!」
優ちゃんは身を乗り出して言う。
「そ、そっか。分かった」
私は気圧されながら答える。
「でもあたしたちだと、音楽流しながら読書して、一日終わっちゃいそうですね」
「あー、確かに。そうかも」
私は苦笑いを浮かべる。
それでも、きっと楽しいだろうな。
優ちゃんが淹れてくれたミルクティーも飲み干し、あれだけお喋りしていた私たちにも流石に眠気が訪れてきていた。
優ちゃんの部屋の掛け時計の針は二十三時を過ぎようとしている。
私は重くなってきた瞼で
「今日はありがとう、優ちゃん…」
そっと呟くように言った。
「あの時、優ちゃんが来てくれなかったら…。どうなっていたか……」
私の身体がキュッと小さく縮こまる。
「優ちゃんがいてくれて良かった」
私は涙声になっていた。
「やぶきさん……」
優ちゃんの声も震えている。
「優ちゃん、私……怖いよ」
「やぶきさん…。私も、怖かったです」
そう言うと優ちゃんは自分のベッドの布団に潜り込んだ。
そして布団の中から顔を出し手を伸ばして
「やぶきさん、お布団の中でお話ししましょう?」
吊り目がちな目なのに、優ちゃんの笑顔はとても柔らかくて、優しくて、可愛いくて、愛おしくて、護られてるような、そんな安心をくれる表情だった。
「うん…」
私は素直に優ちゃんのいる布団の中に滑り込んだ。
優ちゃんの体温が伝わってくる。吐息が掛かるくらい、優ちゃんの顔が近い。
私は恥ずかしくなり目を逸らそうとも考えたが、今はその優しい瞳から目を離したくなかった。
優ちゃんはいつも通り優しい声で語りかけてくれる。私の凍りついていた時間が動き始める。
「…あのね、優ちゃん。聴いてくれるかな?」
「はい」
「私ね、今までずっと一人で悩んできたんだ。誰にも相談できずに、自分の中で抱え込んで……」
「やぶきさん……」
私は続ける。
「私が大学生の頃にね、やっぱり優ちゃんみたいに告白されて付き合い始めたことがあって。最初は気のいい明るい人だなと思ってたんだ」
優ちゃんは口を挟もうとせず私の言葉を待つ。
「だけど、彼はどんどん束縛が激しくなっていって、バイトを始めたりすると『辞めろ』とか言ってきたりね。酒癖も悪くて、酔って暴力を振るわれたりしたこともあって…」
私が身を強張らせるのを察したのか
「…やぶきさん、話したくないことなら、無理には」
優ちゃんが心配そうに声を掛けてきた。
私は首を横に振り
「ううん、聞いて欲しい。大丈夫だから」
優ちゃんは心配そうな顔持ちで肯いた。
私は深呼吸をして気持ちを整えてから話を続ける。
「少しの間だったけど、同棲したこともあってね。若かったといいますか、周りが見えてなかったといいますか、私も彼に依存しちゃってたんだと思う。それで、ある日、サークルの友達と呑んで帰ってきて、その時もかなり酔ってて…。私は邪魔かなと思い退室しようとしたんだけど…」
「……もういい」
「彼に、腕を、掴まれてね…? みんなの、見てる前で…っ……うっ、ふぐっ…」
私は優ちゃんの袖にしがみつき、言葉を続けようとするが、嗚咽だけが溢れてきてしまう。
優ちゃんは私を強く抱きしめて、「黙って」と強めの口調で言った。
「あたしはあの車内でのスマホからの会話も聞いてませんし、今やぶきさんが何か言ってたみたいですけど、寝ぼけてたのか全く覚えてないようです。すみません」
優ちゃんは私のことを思ってか、そう嘘ぶく。
「…彼の言う通りにしてれば、多分上手くいくんじゃないかと思い込んでいた私が悪いの……」
優ちゃんのパジャマの袖が私の涙で濡れていく。
「断じて!」
優ちゃんは突然大きな声で
「やぶきさんが悪いなんてことは絶対に、ないです!」
と、鼻息荒く言い放った。
「やぶきさん! いいですか? やぶきさんはあたしにとってとても大事な友達であると同時に、とても尊敬出来る女性で、憧れの存在でもあるんですからね?」
優ちゃんは捲し立てるように早口で言う。
「優ちゃん……」
私は驚いてしまう。
「それにですね、やぶきさんの過去の恋愛事情など、そんなものはどうでもいいんですよ。やぶきさんは過去も今もやぶきさんで…。やぶきさん言いましたよね? 過去の失敗や挫折も経験することで人は成長していくものだと。だから、過去の自分含めて今の自分があるわけで、過去の自分だけ否定するようなことは…」
優ちゃんの目には薄っすらと光るものがあった。
「今のやぶきさんを好きになったあたしに対しても、失礼なことだとは思いませんか!?」
彼女の目から光るものが頬を伝って零れ落ちた。
優ちゃんと私は二人抱き合い、布団の中で声を上げて泣いたのだった。
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