第6話
私は、完璧である為に多大な時間を費やしていました。自分という鍍金が剥がれることを、何より恐れていたのです。私は、崇拝されていなければならないのです。地を這う姿など、見られてはならないのです。これは、ある種の呪いでした。「皇桜痴」という偶像は、私の、穢らわしい自尊心が生み出した泥の孤城なのです。
例えば、ひとつの失敗。ひとが笑って、やってしまったと舌を出して、頭を掻くようなちいさな不作でさえも、私は冷や汗をかき、頭を抱え、生涯記憶の端に癌のように私を蝕みます。想像するだけで、わあっと叫び出したくなり、鼻の奥が熱くなり、頭を掻き毟りたくなる衝動に駆られるのです。実際、自身の意志に関係のない失態を犯した日の夜は、とても眠れる状態ではありませんでした。声を押し殺して涙を流し、天に向かって、何度も許しを乞いました。明日の朝には、私の失敗を誰もが忘れていないものかと願った夜は、この指では数え切れません。
大袈裟だろうと、笑ってはいけません。貴方は知らないでしょう。観客は、一度、科白を口籠るだけで、指先が震えるだけで
「こんなものか」
と落胆するのです。私は決して、この舞台から、誰ひとりとして立ち上がらせるわけにはいかないのです。一寸の狂いもあってはなりません。いつだって、ひとつの不手際でも起こせば、崩れてしまうような、危うい立場にいたのです。このちっぽけな、それでいて最大の信条のために、息をしていました。
ですが、私は知識欲が旺盛な子供でしたので、 この時間を苦痛に感じることはありませんでした。高学年の生徒に紛れて行われる夏期講座では優秀な成績を残しており、私に与えられる課題は、夏の間に、同学年の生徒より遥か先に進んでいました。答案用紙に描かれる幾つもの楕円が私の尊厳を保ち、教師自身が、私という舞台に「良」の箔を押しているとすら錯覚していました。
しかし家の者は、私が優秀な成績を持ち帰る事に、関心が無いようでした。というより、私が当然の様に差し出す、三桁の数字が録された再生紙を受け取ることを慣熟したのです。初めは
「よくやった」
と褒めそやした父も、とうとう夏が終わり、二度目の定期試験が行われるころには、内容を見ることもなく折り畳んでいました。
通常の授業が始まると、とうとう私は、教室内で英雄のようになっていました。夏期の間の経験が功を奏したようで、教師は勿論のこと、生徒の中でも私は、特別優秀な存在になっていきました。
私は、慕われ、崇められるような、頭上にいる役を望みましたが、親しみにくい存在になることだけは避けたかったのです。ですから、他者に手を差し伸べることに努めました。(今思えば私の理想は、聖人君主のような、清らかで、誠実な、神様のような人物だったように感じます。実際に私が振る舞っていたそれは、まさに、多くの人間が崇め奉り、空想する主そのものでした)そのお陰か、どうやら私は、教室という小さな部屋の中心に位置するようになりました。それは進級してからも変わらず、相変わらず私は、はりぼての神様でした。
二学年に上がって、直ぐの事でした。季節外れの転入生がやってきたのです。鼻筋が通った、くりくりとした、小動物の様に丸い瞳が印象的な少年だったと記憶しています。
中心人物というものは、何かと都合の良いものですから、教師は私を、彼の付添人に任命しました。
「皇がいいだろう」
という鶴の一声で、彼に付き添って生活を送る事を余儀なくされましたが、それは、私にとっても都合の良いことに過ぎませんでした。蛇が獲物を狩るため、遠くからそろり、そろりと近付くより、共生している隣人に牙を向け、一呑みにする方が、圧倒時に容易だと考えていたがゆえの、短慮でした。彼は蛇ではありませんでした。鋭い爪を持ち、引き裂き、捕食する、鷹だったのです。
宮木というその転入生は、人懐こく、誠実な男でした。疑うことを知らない、清く明るく、陽の光を浴びて生まれたような、暗澹たる私の心の臓を焦がすような人柄に、私は戸惑い、震えました。私が悪意に敏感であり、好意に鈍感なように、彼は悪意に鈍感であり、好意に敏感な人間でした。私の真意は、早々に看破されたのです。
自分は、弱者に手を差し伸べると同時に、故意の失敗を、幾度か見せびらかしていました。ひとつ讃えられた日は、帳尻を合わせるように、ちいさなお道化を演じると決めていたのです。その日は、集会のため、全員で階段を上る際に、最後の一段を浅く踏み込み、全身の力を前に、前にと意識して、膝をつきました。私を囲むように輪が出来て、数秒の沈黙、それから、わっと歓声が踊り場を支配しました。ト書き通りだとはみかみ、差し出された手を取って立ち上がった時に、宮木のかんばせが、ちらりと見えました。怒りも、困惑も、勿論歓喜もない。全くの無だったのです。冷たい目。まるで、異形の生物を見るような目で、私を見据えていました。
その目を、私は識っていました。いつかの初夏の、使用人と同じ目でした。
恐ろしくて堪りませんでした。それまでの私は、まさか、宮木に見破られるなどとは、夢にも思っていなかったのです。疑うことの知らない男だと認識していたというのに、その実、誰よりも疑り深く、私を観察していたのです。
それからというもの、私は宮木の視線が頭から離れず、また、私という虚像が、いつ彼の口から明かされるのか分からず、只管に怯えていました。嘘というものは、他人によって、一切合切を明かされたときが、一等恐ろしいものなのです。
幸いなことに、宮木を手助けしてやるという名目で親交を深めていたので、殆どの時間を共有することに成功しました。彼はどうやら、私の違和感に気が付きながらも、決定打にはならなかったようで、あの日について言及することはありませんでした。私は胸を撫で下ろし、あの失敗が、本当であると擦り込むことに尽力しました。
焦っては、いけません。見せつけるようにしても、いけません。時間をかけて、自然に、時折失態を犯すのです。彼の一挙手一投足を注視していながら、宮木はすっかり、私を信じてしまったようで、良く私に「桜痴は抜けてるから」と厭きれたような、慈しむような目を向けていました。その時点で、既に私が宮木に固執する意味などは無くなっていたのですが、彼は私を大層気に入ったようで、手元に置く事を好みました。(というよりも、彼は転入から殆どの時間を私と過ごしていたために、私以外の生徒との交流を諦めてしまっていたように思います)
私と親しくなった者は、必ずと言っていいほど、両親に媚び諂い、頭を垂れましたが、宮木は珍しく、そのようなものにはとんと関心が無いようでした。どこからか、皇の家は大層立派だという出鱈目を聞いたようですが、その事実が自分に何の関係があるのかと、小首を傾げていたと、風の噂で聞きました。皆はそれを、愚鈍であると嘲笑していたようですが、私はその瞬間から、彼に後光すら見えたのです。聖人君主とは、彼の様なものを指すのでしょう。幼児がそのまま、精神の汚染を受けぬまま成長したような純情でした。
私の心は、彼に傾きつつありました。ほんとうの親友とは、彼と私のような関係を言うのではないかしら。そう錯覚するほどでしたが、臆病な私は、彼に道化の精神を打ち明けることが出来ずにいました。彼が見つめているのは、ほかでもない、舞台上の私なのですから、たとえそれが私であっても、土足で神域に上がる事は許されないと考えていたのです。いえ、これは、回想の末に生まれた弁明に他なりません。私は、自身の心の内を明かす事を恐れていたにすぎません。今更引き返すことは出来ないと、一人怯え、停滞を選んでいたのです。結局、彼が私の道化を引き出すことは、終ぞありませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます