第5話

 暗澹たる暗雲が晴れ、じりじりとした熱が、皮膚を焼くようでした。青々とした緑の合間に、いくつもの深紅が散見し始めた頃、丁度中学校は長期休みに入りました。

 読者諸君には勘付いている方もいるでしょうが、自分の村には子供が喜ぶような娯楽などありませんでした。私は元来、何かしら用事を見つけ、動き回っていないと落ち着かない性分で、学校に通う前は使用人と四六時中勉強に励み、書庫の本に手を掛け、それに飽きれば、近所の、雲祥寺という寺に顔を出していました。そこはどの時間帯に行っても、どこか寂しく、特に夏の終わり、夕刻近くだと、蜩の聲がその寂寞を一層強く感じさせました。百舌と蜩の合唱は、私の奥底に仕舞い込んだ漠然とした不安を、悪戯に煽りました。

 今ではどうか分かりませんが、金木という町は自然に重きを置いていたと記憶しています。どの季節も視界に彩がありました。春頃になると、鉄道沿いには桜並木を列車が掻い潜り、桜花を散らしました。かなり立派な樹木が何十本も並び立ち、花開いた桜の花と、いまだ目覚めたくないと瑞々しい青を携えたままの葉桜は、列車の中からも良く見えました。夏になると、自分の家の庭は勿論の事、近所の家も紫陽花を咲かせていました。

 幼少期に過ごした夏の金木で、鮮明に記憶に残っているのは、五所川原の水子供養の神社です。まだ、小学校にも通っていなかった頃。道化の仮面も不安定で、ひとり歩いているときなどはすっかり気が抜けていました。家の中はどこにいても蒸し暑く、暇を持て余していても何とも言えない焦燥感が襲ってくるので、使用人の目を盗んで、少し歩いてみようと外に出たのです。出発は、既に夕方を過ぎた頃だったと思います。夕陽が眩しくて、暑くて、麻で作られた子供用の着物が汗を吸って不快でした。

 歩き慣れた道をぼんやり步くことにも飽いて、道も分からないというのに、自分の感性に従って歩を進めていました。田舎の性でしょうか、矢張りただ歩いていても、同年代の子供よりも年寄りに出会うことが多く、ちいさな少年の冒険は多くの人間に目撃されていました。都会のように、自動販売機やコンビニエンスストアなどは数えるほどしかない場所なので、主婦の買い物や、子供の小腹を満たすための絶好の場は、町の小さな商店でした。その店主の老婆は人が良く、白髪を後ろに束ね、いつも柔和な笑みを浮かべながら客人が来るまで奥の居間で涼んでいました。その日は珍しく店先のベンチに座っていて、額に滲む汗をハンカチで拭いながら、歩いて来た私に気が付き、ゆったりと、緩慢な所作で小首を傾げ私を見据えました。

「皇さんのところの。どうしたの」

「散歩に出てきたんです」

「そうかい。暑いでしょう、突然暑くなったからね。ほうら、一本どうぞ」

 この店主は気前が良く、物語に出て来るような善人でした。きっと、私が何度も試した雲祥寺の後生車も、この人が回せば、一度できちんと止まり、からんと音を立てるようなことは無いのでしょう。差し出されたラムネの栓を抜いて貰い、頭を下げて、再び歩き出しました。どの道をどう歩いたかは、良く覚えていません。出会った人に軽く会釈をしたことは何となく、霧のかかった記憶の中で覚えているのですが、どのような会話を交わしたかも覚えていません。

 気が付くと目の前は、鬱蒼とした空気が充満した寺でした。私はそこがどのような場所かも分からず、境内に足を踏み入れようと、鳥居をくぐりました。田舎の町の神社や寺にはよくある事ですが、参拝者は愚か、宮司も見当たりません。奥の講堂から微かに聞こえる御経が、辛うじて人の存在を証明していました。私の意識を奪ったのは、子供用の玩具で飾られた講堂などではなく、脇道に刺された風車の数々でした。幼い私は、水子供養などに全く理解がなかったので、安易にそれに近付き、風で回る羽根をただ眺めていました。決して持ち帰ろうなどとも、触れてみようとも考えていなかったのです。

 浅学で短慮な私でも、それが、いけないことだという事は、ぼんやりと分かっていました。美しい色彩に気を取られたに過ぎないのですが、それが、今まさに手を伸ばしそうに見えたのでしょう。突然背後から

「おい」

 と、酷く低い、怒気を帯びた声で怒鳴られました。

心臓が早鐘を打ち、背筋が凍るようでした。恐る恐る振り向くと、宮司のようで、眉間に皴を寄せ、まるで獣でも見るような目で、私を見下ろしていました。

「触っちゃいかん」

 子供らしい子供であれば、ここで反論したのでしょうか。私は、この神域を荒らすつもりは毛頭無かったのだ。しかし、私は口を噤みました。眉を下げて、俯きがちに地面に向けて視線を落とし肩を竦ませると、宮司は大きな溜息を吐いて手招きをしました。私がすっかり反省して、怯えて縮こまった子供に見えたのでしょう。すっかり夜の帳が下りて、真面な外灯のない境内は深淵のように暗闇に包まれていました。本堂に招かれ、住所を伝えると、宮司はなにやら焦った様子で電話をかけ始めました。どうやら父と宮司は親交があったようで、数分後には自分の家の車が到着しました。宮司は、私が風車に不敬を働いたことを父に明かしませんでした。実際、あれ以降父からこの冒険を咎められたことはありません。家の者は、私をただの迷子と判断したようで、帰宅して一言二言小言を言われたのみで、酷いお咎めはありませんでしたが、あの、宮司の冷たい声が耳から離れませんでした。当時の私からすれば、訳も分からず怒鳴られたに過ぎず、私を委縮させるに充分な出来事で、それ以降私は一人での冒険をすっかり止してしまいました。

 中学校に入って初めての長期休暇は、殆どを勉学に捧げたと記憶しています。どうやら自分は、世間が認める「できる」部類のようでした。学校の面々は、私が苦労無く「正」を手に入れていると信じて疑っていませんでしたが、それは全くの出鱈目なのです。

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