第21話 約束
イトーヌの小さな声を聞いたタケルの心は、冷たく凍り付くようだった。イトーヌの決意が、タケルの未来と引き換えだという無慈悲な事実を、かすかに理解してしまう。
「イトーヌ……!」
タケルは、不安げに友達の小さな体に駆け寄り、白い毛並みを強く掴んだ。
「だめだ! そんなこと、絶対にしちゃだめだ! イトーヌ! 死んじゃうんだぞ! もう、一緒にご飯を食べたり、温かいベッドで眠ったり……一緒に遊んだり、ドキドキするような冒険に行ったり……もう、二度とできなくなっちゃうんだぞ!」
小さな目に涙を浮かべ、声を震わせながら、タケルは必死にイトーヌを思いとどまらせようとした。友達と過ごした温かい日々が、激しくタケルの脳裏を駆け巡る。いつもそばにいてくれた、かけがえのない大切な友達。イトーヌを失うなんて、タケルには考えられなかった。
イトーヌは、タケルの必死な様子を見て、大きな目に今にも溢れそうな涙をいっぱいに浮かべた。小さな体もかすかに震えている。
タケルとの温かい思い出は、彼の小さな心を満たしたが、同時に、これから訪れる別れの悲しみが胸を締め付けた。
それでも、大好きなタケルを助けるためだ。タケルの未来を守るためなら、自分の存在など、比べ物にならないほど軽いものだ。
長く思い悩む必要などなかった。彼の決意は、鋼のように固く、もう微塵も揺るがない。
イトーヌは、タケルの温かい手に自分の小さな前足を重ね、優しい目でじっとタケルを見つめた。そして、初めてタケルに会った時から、今までの温かい思い出を、か細い声を震わせながら語り始めた。
「タケルのお父さんが、ゲームセンターのクレーンゲームの中から、ぼくを救い出してくれたあの日……まぶしい光の中で、タケルと初めて目が合った時の、あの温かい気持ち……ぼくは、ずっと忘れないんぬ」
イトーヌの小さな声は、ところどころかすかに震えながらも、温かい思い出を辿っていく。
「夜はいつも、タケルの温かいお布団の中に入れてもらって、そばで眠ったんぬ。タケルがかすかな寝言を言うのを聞くのが、ぼくは大好きだったんぬ。朝、温かい光の中で目が覚めると、いつもタケルの寝顔がそばにあって、穏やかな気持ちになったんぬ。
タケルが外に遊びに行く時、いつもリュックサックの隙間に、こっそりぼくを入れてくれたんぬ。温かい陽の光の下で、タケルが笑うのを見るのが、ぼくの一番の楽しみだったんぬ。時には、少し揺れて、少し酔っちゃったけど……それも、楽しい思い出なんぬ。
お父さんと一緒に行った水族館の、キラキラ光るお魚さんたち。大きなサーカスの、ドキドキする音楽と色鮮やかな光。色んな所に、ぼくも一緒に連れて行ってくれたんぬ。タケルは、いつもぼくを一人ぼっちにしなかったんぬ。
スナちゃんやライやシパラ……たくさんの、温かい仲間たちとも出会わせてくれたんぬ。タケルは知らなかったと思うけど、みんなで一緒にお話したり、温かい場所で日向ぼっこしたり……ぼくには、たくさんの友達ができたんぬ。タケル達人間に見られないようにしてたから、タケルは知らないんぬよね?」
そう言ってイトーヌは「うふふ」と笑った。
「タケルのおかげで、イトーヌは、本当に、幸せいっぱいんぬ……」
懐かしい思い出が勢いよく溢れ出し、イトーヌの大きな瞳から、ついに涙が零れ落ち始めた。小さな顔は濡れているけれど、その表情は、驚くほど穏やかな笑顔で満たされていた。タケルと過ごした温かい時間への、深い感謝の気持ちだった。
タケルは、イトーヌの思い出の言葉を、そっと溢れる涙を拭いもせずに、ただ静かに聞き入っていた。イトーヌの声が、タケルの小さな胸に悲しみと、温かい感謝の気持ちをこみ上げて呼び起こし、もう、タケルの目からも涙が溢れて止まらなくなっていた。
「でもね……」
イトーヌは、涙でそっと濡れた目で、タケルをまっすぐに見つめながら、かすかに声を震わせた。
「今は、少し心配なことがあるんぬ」
タケルはイトーヌの「心配」という言葉にドキッとする。
「大好きなタケルが……お父さんも、お母さんも、そしてぼくもいなくなって……一人で、また泣いちゃわないかなって……光の差し込まない、淋しい部屋に、また一人で閉じこもっちゃうんじゃないかなって……」
そう言って、イトーヌは澄んだ大きな瞳で、タケルの目をじっと見つめてきた。その不安げで優しい視線に、タケルの胸は締め付けられた。
「ねぇ、タケル……約束をして欲しいんぬ」
イトーヌは、真剣な瞳でタケルを見る。
「泣いても、いいんぬ。涙が溢れても、無理に止めなくていいんぬ。でも……タケルには、元気でいて欲しいんぬ。温かいご飯をたくさん食べて、温かい布団でゆっくり眠って、温かい光の下で友達といっぱい遊んで、ずっと幸せでいて欲しいんぬ」
イトーヌは変わらずタケルの方を向きながら、少し躊躇うような表情を浮かべる。
「ぼくは……確かに、タケルの側にはいられないけど……ずっと、タケルのことを、近くで見守っているから……だから、笑顔で、前を向いて歩いて欲しいんぬ」
イトーヌはそう言い終えると、タケルが口を開くのをじっと待った。
イトーヌの真剣な願いを聞いたタケルは、どう答えるべきか、言葉を探していた。イトーヌが心配しているのは、父親を失った後に逆戻りしてしまい、あのどうにか息をしているだけの抜け殻のような自分になってしまうのではないかということだ。薄暗い部屋で、ただ時間の流れに身を任せていた、あの悲しい日々。あの頃は、イトーヌがそばにいてくれたからこそ、辛うじて心は壊れずに済んだのだ。もし、イトーヌまでいなくなってしまったら……想像するだけで、タケルの心は激しく締め付けられ、冷たい恐怖が全身をゆっくりと這い上がってくる。
返す言葉が見つからないまま、タケルはゆっくりと顔を上げ、イトーヌの純粋な目を真っ直ぐに見つめた。イトーヌも、タケルの目をじっと見つめ返している。その瞳の奥には、揺るぎないタケルへの信頼と、かすかな不安の光が宿っているように見えた。
(イトーヌを、がっかりさせたくない……)
その時、タケルの心に、強い思いがこみ上げてきた。
「イトーヌ……約束するよ」
タケルは、溢れる涙を拭うこともせずに、かすかに微笑んでみせた。その笑顔は、強張り、ぎこちないものだったけれど、これ以上イトーヌに心配をかけたくないという、タケルなりの決意の現れだった。
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