11-3
その夜、昂生たちが借りている宿の食堂で開催された慰労会は、大成功だった。村の皆は大いに飲み、食べ、笑い、昂生に感謝の言葉をかけてくれた。
伊織も、いつも通りだった。村人たちと穏やかに笑い合い、その笑顔で簡単に人々の心を掴んでは、昂生がセコムを発動させると、冷ややかに言葉や態度で突き放す。
元気がないと感じたのは気のせいだったかと、昂生も気分よく宴会を盛り上げ、楽しんだ。
大量の酒樽や大皿の料理が空になり、「明日はゆっくり休んで。水車小屋の修繕も、もう一息だよ。頑張ろう」という昂生の激励で、会はお開きとなった。
昂生は伊織と共に、宿の部屋へと戻った。
伊織の頬は薄く色づき、酔いのせいだろうか、普段の凛とした雰囲気も柔らかく緩んでいる。
昂生は火鉢の火を掻き立てながら、少し遠慮がちに声をかけた。
「明日は休みだし、もうちょっと夜更かししない?……伊織が、疲れてなければ」
断られるかもしれないと思ったけれど、伊織は意外にもすぐに「いいよ」と返してくれた。
部屋にはソファもないため、毛皮のラグの上に隣り合って座った。足元に毛布を掛け、蝋燭と火鉢を側に寄せる。
宴会で余った赤ワインをカップに注ぎ、乾杯した。
「今日の肉、めちゃくちゃ美味かったよな」
ワインを口にし、今夜の宴会を思いながら昂生が言うと、伊織がふっと口元を緩ませる。その微笑みに、昂生の胸は容易く高鳴った。
「お前、すごい勢いでステーキ食べてたよな。大きな肉の塊がどんどん減ってって――っふ、あはは、あれ、面白かった」
伊織が肩を揺らし笑う。無邪気な表情があまりに可愛くて綺麗で、昂生は思わず見とれてしまう。
まだ笑みの余韻を残したまま、伊織が昂生を見た。
「ステーキ、好きなの?」
そう問いかけられ、昂生は懐かしい気持ちになる。
「……ステーキ嫌いな奴なんていないだろ」
十年前。伊織と交わした最初の会話と同じだった。きっと伊織は忘れてしまっただろうけど、昂生は今でも鮮明に覚えている。
「……中学の時から、好きなもの変わってないんだな」
伊織の思いがけない返事に、昂生は息を呑んだ。覚えていてくれた。温かな感情が、胸の奥で膨らんでいく。
「……そうだね。俺、あの頃から、変わってないよ。……いまでも大好き」
昂生は伊織を見つめながら言う。ステーキも、それ以上に、伊織のことがずっと好き。
その想いは十年たっても変わらないどころか、思い出ではない伊織を前に、より一層強くなっている。記憶の中ではなく、目の前で怒ったり呆れたり、笑ったりする伊織。しかもさらに綺麗になってるなんて、反則だ。
昂生は一口ワインを飲み、小さく息を吐きだす。少し背を伸ばして、ずっと胸につかえていた言葉を口にした。
「あの時は……ひどいこと言ってごめん」
ずっと謝りたいと思っていた。伊織を傷つけたあの日のこと。
伊織は昂生の言う「あの時」が分かったように、わずかに目を伏せ、首を振った。
「……いや。あれは、俺が無神経だった。……簡単に旅行代を立て替えるなんて言って、昂生が腹を立てるのも仕方ないと思う」
「腹なんて立ててなかったよ」
「でも……」
「……実はあの頃、母親の借金があったんだけど……」
言い訳みたいに聞こえそうで、言葉が途切れた。けれど、伊織が静かに続きを促すように見つめてくる。その眼差しに背中を押されるように、昂生はあの頃のことを、伊織に話した。
借金取りが、なぜか伊織のことを把握していて、昂生と同じクラスだということまで知っていたこと。自分みたいな人間は、伊織に関わらない方がいいと思って、わざとひどい言葉を投げ掛け、突き放したこと。
「母親が金借りてたの、半分ヤクザみたいな闇金だったから。伊織を巻き込むことになったらって、……不安で」
昂生は蝋燭の明かりに照らされた伊織の横顔を見つめ、頭を下げた。
「それでも、お前にひどいこと言ったし、ひどいことした。本当にごめん」
謝る昂生に、伊織は左右に首を振る。
「……事情も知らないのに、安易に口出した俺が悪いよ」
少しの間をおいて「でも」と伊織が呟いた。
「でも、そんな事情があったんなら、……相談してほしかった。お前が言ってくれれば、助けられたかもしれない」
伊織は眉を寄せ、どこか怒ったような顔で昂生を見つめる。
「違法な金利なら絶対に減額できたはずだし、借金だけじゃなくて、生活支援だって色々受けられた。なのに、なんで黙ってた?なんで、まだ中学生だったのに、...そんな……一人で抱え込んでたんだよ」
「ご、ごめん……」
矢継ぎ早に言う伊織の勢いに押され、再び昂生が謝ると、彼は悔しそうに唇を噛んだ。
「……俺は、世間知らずのお坊っちゃんだったし、あの時は相談されたとしても、大人に繋いでやるくらいしかできなかっただろうけど」
突然伊織が膝立ちになり、眉をしかめたまま昂生を抱きしめた。思わぬ事態に、昂生は目を見開く。
「でも……こうやって、大丈夫だよって、解決方法は沢山あるよって、抱きしめてやるくらいはできた」
伊織の体温に包まれて、昂生は吐息のような息をこぼした。
「…………それは、言えばよかった。ガチで」
伊織の身体を抱きしめ返して笑う。目の奥が、熱を持ったみたいにじんと痺れた。
あの頃の自分は、きっとこんなふうに「大丈夫だよ」と抱きしめて欲しかったんだなと思う。薄汚れた中古の制服を着て、いつも腹を空かせていた十五歳の少年が、少し救われた気がした。
「……伊織。寒いから、ここにいて」
昂生はそう言って、伊織を自分の足の間に座らせる。後ろから抱えるような体勢でも、伊織抵抗せず、おとなしくそこに収まってくれた。
伊織の背中が昂生の胸に遠慮がちに触れている。腰に腕を回して引き寄せると、しっかりとその身体が寄りかかった。
「寒くない?」
毛布を掛け直し問うと、伊織が大丈夫とうなずく。シャツの襟から、細いうなじが覗いている。蝋燭の火に淡く照らされ、きめ細かな肌がより艶やかに見える。
伊織に触れている部分に神経が集中して、身体の奥からじわじわと欲求が溢れてくる。
――もっと伊織に触りたい、もっと強く抱き締めたい。……プレイしたいって言ってみようかな。
提案しかけて、けれど言葉を飲み込んだ。
伊織とは数日置きに、お座り程度の軽いプレイを行っている。DomとSubにプレイは必要不可欠だけれど、昂生はいつも少し、後ろめたさを感じてしまう。
ダイナミクスの欲求を満たすためというより、伊織に触れられるから、プレイがしたいと思う。自分の欲望を、プレイという建前で隠しているような気がして、罪悪感が募る。
こんな感情も、他のSubに抱いたことはない。やっぱり伊織だけだ。
躊躇っていると、ふと毛布に置かれた伊織の手に目がいった。
その手の甲、横に走る細い傷があるのに気づく。思わず手を取って、「これどうしたの?」と尋ねた。
「なに……ああ、今日の水車小屋の修繕で。手袋、つけてなかったから」
「血出た?消毒した?」
「……消毒はした」
「傷浅いから、痕にはならなそうだけど……手袋つけなきゃダメじゃん」
傷をそっとなぞりながら言うと、伊織が身体を捻って、昂生を振り返った。
「お前は俺のこと、非力な女性か、子供か何かだと思ってる?」
「え、なんで?」
「やけに、……その、優しいから」
小さく呟く伊織に、昂生は腰に回している腕に少し力を込めた。
「女の子だから優しいとか、子供だから大事にするとかじゃないよ。俺は、大事なやつだから、大事にする」
昂生が伊織の目を見つめて告げると、彼は目をそらしうつむいた。その横顔に陰りが見えた気がして、昂生は伊織の顔を覗き込んだ。
「……どうした?」
伊織は何か言おうと口を開いたけれど、再びその唇を閉じてしまう。
「……言えることなら、聞かせてよ。大丈夫、解決方法は沢山ある」
さっきの伊織の言葉を真似て言うと、伊織がふっと息を吐いた。
「……別に……ただ、俺は、……なんでも誠実で、一生懸命とか、そういう……昂生に尊敬されるような人間にはなれないし、それが少し、悲しいというか……いや、すごく悲観してるとかではないけど……」
珍しく歯切れ悪くぶつぶつ呟く伊織に、昂生は「待て待て」とストップをかける。
「なんの話?」
「……お前、言ってただろ。俺は理想が高いとかなんとか……」
「理想……? あ、キッチン作業の時の?」
うなずく伊織に、昂生は「あー……」と呟き、頬をかいた。
「あれ、……伊織のことなんだけど」
「……は?」
伊織が形のいい眉を寄せ、「なに言ってんだこいつは」という顔で昂生を見る。
「……綺麗で、頭が良くて、気が強いけどいつも一生懸命で可愛くて、誠実で尊敬できるっていう、……あれが?」
「……うん。多分、そう言ってたと思う」
伊織の記憶力に感心しながら答えると、伊織は更に怪訝な顔になる。
「……俺は一生懸命でもないし、誠実でもないけど。……可愛くもないし」
「あ、綺麗なのと頭がいいのは認める?」
「……事実は事実だから。無駄な謙遜は意味がない」
当たり前みたいに言う伊織がおかしくて、昂生は声をあげ笑う。
「だったらもう少し、事実を知った方がいいよ。伊織はめちゃくちゃ可愛いし、いつも一生懸命だし、誠実だよ」
昂生の言葉に、伊織の瞳の奥が揺れた。
「……違うよ。俺は、ただ真面目にしかできないだけだ。なんでも完璧にやらないと、許されない世界にいたから。自分の完璧主義を人にも押し付けて、上司にも同僚にも、煙たがられてた」
「伊織が?」
信じられない。伊織がちょっと微笑めば、誰でも簡単に虜にしてしまえそうなのに。
「うん。……効率とか数字とかでしか、物事を考えられなかった。合理的って言えば聞こえはいいけど、人に寄り添えない冷たい奴だ」
伊織が俯き、昂生が握ったままの手に視線を落とす。
「俺と昂生が巻き込まれた事故のあった日も、同僚のミスを強く指摘した。……今なら、もう少し言い方があったなと思えるけど……」
その日のことを思い出すように、伊織は僅かに表情を曇らせて続けた。取引先の部長にウイスキーを贈ることになり、その部長は響を好んでいたのに、同僚は山崎を買ってきてしまったという。
「彼はきっとウイスキーに疎くて、同じ日本のウイスキーなら大丈夫だと思ったんだろう。俺が銘柄の違いを指摘した時の、彼の青ざめた顔が今でも浮かぶ」
暗い表情で呟く伊織に、昂生は軽く頷いた。
「響と山崎じゃ全然違うから。伊織が言ってやって良かったでしょ。でも、酒の種類とか知らない奴も多いよな」
現実世界でバーをやっていた昂生は、シングルモルトとブレンデットの違いはよく理解しているけれど。酒を知らない人にとっては、どちらも「日本のウイスキー」という大雑把な括りでしか認識されないことも多い。
「俺なら一緒に飲み行って、実際に酒の違いを知ってもらうかな。同僚君も勉強になるし、俺はそいつの奢りで飲めるし、win-win」
「……俺は奢らせないけど」
「勉強代だよ」
にやりと笑う昂生に、伊織は小さく肩をすくめる。
「……昂生のその考え方とか行動力が、村の人や騎士団の皆に慕われる理由なんだろうな……俺は、お前に尊敬されるような人間じゃないよ」
昂生は、わざと「はあ?」と大げさに眉を寄せて見せた。
「それこそ、俺だって尊敬してもらえるような奴じゃないよ。お前が今すぐ前言撤回したくなるエピソード、死ぬほどあるけど?」
「……なんで得意気なんだよ」
伊織が表情を少し和らげる。昂生は伊織の顎を優しく弾いて、顔を覗き込んだ。
「難しいことはよく分かんねぇけど、効率とか数字とか、会社経営には必須だろ。それが強くて、何が悪いの?」
「……悪くはないけど」
「じゃあいいじゃん。伊織の武器でしょ。お前が合理的で完璧主義だったおかげで、助けられた奴だって絶対いるよ。その同僚君も、俺も」
「……お前?」
「そう。あと、レオンハルトとか。青くせぇ二人だし?」
昂生が言うと、伊織がどこかばつの悪そうな顔をする。
退団をかけた決闘の後、伊織に啖呵を切られたレオンハルトが「美人が怒ると迫力がすごい。正直少し怖かった」と話していたのを思い出し、昂生は笑った。
「お前がなんて言おうが、俺は伊織を尊敬してるよ。これも、まぎれもない事実――……あれ……?」
昂生はあることに気づく。そもそもの、この話の始まりを思い出した。
「……伊織、俺の理想と自分は違うって思って、悲しくなったってこと?」
「……っ、ち、ちが……」
「いや。違くない。悲しいって言った。……だから、ちょっと元気なかったの?」
「……違うし」
呟いて視線を逸らす伊織は、耳まで赤くなっている。赤ワインのせいだけじゃない。昂生は緩む頬を隠すことなく、腕の力を強くする。
「安心してよ。伊織は俺の理想そのものだから。綺麗で、頭が良くて、気が強いけどいつも一生懸命で――」
「うるさい。違うって言ってるだろ」
伊織が昂生を遮り、逃げるようにワイングラスを傾ける。
きっと伊織は、昂生が人間的な意味での理想を語っていたと考えたのだろう。まさかお妃の流れからの、恋愛のタイプだとは思っていないはずだ。
昂生は、性欲と執着を含んだ種類の気持ちで伊織のことが好きだけれど、伊織は違う。
今でこそ王子と近侍という立場だが、現実世界ではそのカーストは見事に逆転していた。容姿も頭も地位も富も揃っている御曹司様は、さぞ引く手あまたで選びたい放題だっただろう。
そんな本物の王子様が、自分を好きになることなんてありえない。昂生だって、それくらいは理解している。
けれど伊織が、昂生の理想と自分は違うと思って落ち込むほど、昂生のことを気にかけてくれている。それだけで嬉しかった。たとえその気持ちが、恋愛感情ではなくても。
それで十分だろと自分に言い聞かせる。
現実はいつだって容赦なく残酷だ。だからこそ、身の丈に合った生き方をしなければ、心も身体も消耗してしまう。
自分の頭で、身体で、能力で、できることをできる範囲で、賢くこなす。大それた願いや希望は抱かない。そうすれば、案外うまく物事は流れていく。
今までの人生で、昂生が学んできた教訓だった。
「よし、今日は朝まで飲もう」
昴生が伊織のカップにワインを注ぐと、伊織は「ほんとにタフだな」と呆れたように、小さく微笑む。その笑顔に、改めて新鮮に、胸が高鳴った。
結局、二人で夜明け近くまで飲み明かし、伊織は昂生に抱き抱えられるような格好のまま寝てしまった。起こさないようにそっとベッドへ運び、昂生もその隣に潜り込む。
いつものように胸に抱いて、静かにおやすみと囁く。額にこっそりキスを落とすと、伊織が微かに笑ったような息を漏らした。
さらに伊織を引き寄せて、あふれる感情を噛み締めるように唇を噛む。
一生の中で、幸せの分量が決まっているのだとしたら、きっと今の自分の幸せ残量は限りなくゼロに近いだろう。
それでもいい。昂生にとって、これ以上の幸せは、どの世界にも存在しない。
一分一秒でも長く、伊織と一緒にいられますように。昂生は祈り、目を閉じた。
その後も順調に水車小屋修理は進み、昂生たちが村に到着して十三日目、ついにその作業が完了した。木材のきしむ音もなくなり、水車は力強く回る。
昂生はエリックと共に最後の点検を終えると、集まっていた村人たちに向き直った。
「全部を直せたわけじゃないけど、一応今回の修理でも、水車は問題なく使えると思う。まだ修繕が必要な部分も、できる限り早く作業させるよ」
「コウセイ王子、本当にありがとうございました。これで村の皆も、安心して冬を迎えることができます」
村長が深々と頭を下げる。村人たちも次々と寄ってきて、昂生に感謝の言葉を口にした。昂生は彼らと冗談を交わしながら、肩を叩き合う。
村人ともだいぶ打ち解けた。城のお偉い方や貴族たちを相手にするより、よっぽど腹を割って接することができる。
人だかりが徐々に解けていく中、エリックが昂生に近づいてきた。
「王子、本当に見事なご活躍でした。お疲れ様です」
「エリックのおかげだよ。色々ありがとう」
「お力になれて良かったです」
エリックは一瞬言葉を選ぶような間を置き、それから遠慮がちに口を開いた。
「話に聞いていた王子と印象が違うので、……正直驚きました」
「思ったより無能じゃなかった?」
昂生が冗談めかして笑うと、エリックも微笑みながら首を振った。
「王子なら、この国を変えることができると信じております。国王選挙、頑張ってください」
「ありがとう」
昂生はエリックと握手を交わし、伊織からクロークを受け取った。
馬車に乗り込み、車窓から村人たちへ手を振る。若い男たちから『コウセイ王子』コールが上がり、それは見送りに来てくれた数十人全員に広がった。
馬車がゆっくりと動き出す。村が遠くなるまで、声は聞こえ続ける。昂生は柄にもなく、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「本当にお疲れ。……素晴らしい仕事でした」
隣に座る伊織の近侍らしいセリフに、昂生も軽い調子で「でしょ?誰も無能王子なんて言えねぇよな」と返す。
「……そうだね。優秀で、特別な王子だよ」
思わぬ伊織からの賞賛の言葉と優しい微笑みに、ドキリと心臓が鳴る。
「……と、特別?国民の?伊織の?」
茶化そうとして、思わず声が上ずった。
昂生の問いに答えず、伊織がただ艶やかな流し目でふっと笑うから、心臓はさらに鳴って苦しくなる。もう「ご褒美は?」なんて軽口も叩けない。シートに背を沈め、無言で伊織の手を握った。
ほどかれないその手は、少し冷たい。なのに、昂生の胸の温度をさらに上げた。
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