高原列車の盗難騒ぎ
神崎 創
前編
しばらく続いていた車窓の草原は、やがて鬱そうとした森林に変わっていった。
右を向いても左を向いても、見えるのは無数の木の幹ばかり。背が高くしかも密度の濃い森林に日の光は遮られてしまって、車内は薄暗い。
「――ねぇウィノ、これじゃつまんないわね。もうずっと、こんな感じなのかしら?」
ちょっと不愉快そうに、ミアが言った。
彼女は明るく広々とした草原の風景を楽しんでいたから、それが見えなくなったのが不満らしい。
向かい側に座っているウィノは
「この森だって、結構珍しいんだぜ? ずっと昔からあったらしくて、一年を通じて落葉しない常緑樹林帯としてはこっちの地方ではもっとも大きいんだ。だから、この鉄道をひくときだって、伐採に反対する人たちがたくさんいたんだ。……結局、鉄道局はこうして鉄道を造って、今俺達が乗ってしまっている訳なんだけど」
と、物憂げに説明した。ひどく眠たかったのである。
しかしミアが聞きたかったのはそういう説明ではなく、
「森はどうでもいいのよ。この鉄道の売りって、サントス高地一帯に広がる素晴らしい自然の景色だって、いうことだったじゃない? これなら、材木業者と森林保護団体が喜ぶだけの景色だわ。それとも、この先に、もっといい景色があるのかしら?」
「……あるって書いてあるぜ、このチラシには。――車窓に広がるグラン・フレア渓谷と終着・サントス高原駅展望台からの眺めは、都会の暮らしに疲れた心身を癒してくれること間違いありません」
ウィノはチラシに書いてある売り文句の文章を棒読みすると、そのまま隣の座席にそれを放り出した。
あからさまに面倒くさげなその様子を見て、ミアは怒った顔をした。
「もうっ! ウィノったら、どうしてそうなのよ! そんなに来るのが嫌だった訳? 一度行こうって、約束したじゃない」
「したよ。したけどさ、何も今日でなくてもいいだろ……」
倦怠感を通り越して辛そうなウィノ。
明け方まで学校のレポートを書いていた彼は、休日の今日はゆっくりとベッドに潜り込んでいるつもりだった。が、眠りに落ちたとも思えない頃、突如バタバタとミアが乗り込んできたのである。
「ウィノ! ウィノ! 今日ならいいわ、お天気いいし! サントス高原列車、乗りに行こう!」
彼女はそう言って容赦なく毛布を引っ剥がした。
意識が半分あっちの世界に飛んで朦朧としているウィノは、ミアが何を言っているのかわからない。
半ば呆然としながら
「……あ、ミア、おはよう。俺は今日は寝て――」
「何言ってるのよ! 今日行かなかったら、絶対に損しちゃうじゃない! さ、着替えた着替えた」
ミアは無理矢理に腕をつかんで引き摺り起こし、勝手に衣装棚から服を出し始めた。
ベッドの上に座ってぼさぼさの頭をバリバリと掻くウィノの機嫌は当然最悪である。
「おいおい、勘弁してくれよ。俺はさっきまで、クランバール国史のレポート書いてたんだぜ? ミアが苦手だっていうから、引き受けてやったんだぞ? 少しは俺の苦労も――」
彼の全力の苦情も虚しく、ミアははいはいと空返事をして
「わかってるわよ。ウィノには感謝してる! だから今日は、お昼くらい奢るから! パパに少しお小遣いを貰ってきたのよ」
「昼メシは要らない。睡眠時間をくれ……」
精も根も尽きたように再びベッドに倒れこもうとした彼は、今度はベッドから引き摺り降ろされた。
「痛ってぇ! 頼むから、今日は寝かせてくれよ、もう……」
哀願してもミアは許してくれない。
「早く着替えて! クランバール中央駅を七時発なんだから!」
「……ウィノ。折角ミアちゃんが誘ってくれてるんだから、行っておいで。若いうちは一晩や二晩寝なくたって、死にやしないわよ」
いつの間にか部屋の入り口に立っていた姉のアリスが、ミアに加勢するように言った。
放っておくとウィノは何でも面倒くさがるので、姉は何でも口うるさく言うようになっている。彼女は今年二十歳でウィノの三つ上である。両親がいないから、彼女としてはこの弟に対して母親代わりのような気持ちでいるのであった。
アリスにとって幸いであったのは、ウィノが十五歳で公設学校高等部に入ったときにミアというガールフレンドが出来たことである。勝気でてきぱきしている彼女は、何かというと機関車のようにウィノを引っ張って行動し、そのために彼は自宅でぐずぐずすることを半ば許されなくなっていた。多少の寂しさやら複雑な思いはあったが、そのうちミアはまるで我が家のようにやってくるようになり、今ではアリスと親類のような間柄になっている。
性格がほとんど正反対とはいえ、二人は丁度、大小の歯車がかみ合うように何かと上手くいっているようであった。
聞けば、ミアの父親はクランバール警察の警部なのであった。彼女のてきぱきとした性格は、どうもそのあたりに関係があるらしい。ある時、ミアはこの姉弟を晩餐に招待し、二人は彼女の父親であるというフロドに会った。多少いかめしい感じのする人物ではあったが、話せば気さくな性格であり、それ以来両親のいないアリスとウィノを何かと気にかけてくれるようになった。
そんな訳で、ミアがウィノの部屋まで堂々と乗り込んでくるのは、日常茶飯事になりつつある。
「……ほら、みなさい。お姉さんだって、ああ言っているでしょ?」
「……」
そうして引き摺りだされ追い出されるようにして、哀れなウィノはサントス高原鉄道に乗るはめになったのであった。
「だって、今日はこんなにいいお天気になったのよ? 晴れた日に来ないなら、ウィノは雨でも降ってる日がいいって言うの?」
ミアはふくれている。
これは多少彼女のわがままかも知れなかったが、自分が楽しいときにはウィノにも楽しそうにしていて欲しいというところがある。いつもなら彼女の前で嫌そうな態度はとらないウィノであったが、今日に限っては恨めしい以外の何物でもなかった。
列車は客車が一両きりである。それを、小さな蒸気機関車が牽引している。
車内は中央に通路があり、両側に向かい合わせ型の木製ボックス座席が備え付けられている。一つのボックス席は四人がけで、それが全部で八つあるから、定員は三十二名といったところであろう。進行方向に向かって中央の通路の右側が一番から四番、左側が五番から八番となっている。二人が割り当てられたのは一番ボックス席である。
朝が早いためか、他に乗客は数えるほどしかしいない。ゆえに、車内はほとんど静かであった。どこかに座っているらしい老夫婦の声がかすかに聞こえたりするが、物音といえば機関車のガシュガシュという音と車輪とレールが発するガタガタという音だけである。
「……」
規則的な振動が心地よく、もはやミアと会話していられないほど眠くなったウィノはうとうとしかけた。
彼が話もしてくれなくなってしまったため、ミアはぶすっとして頬杖をつき、窓の外を眺めている。
少しの間、そんな気まずい空気が流れていた。
すると、前方の扉が開いて、車掌が客室内に入ってきた。まだ若い、気の優しそうな顔立ちをした車掌である。
彼は制帽をとって一礼すると、乗客に向かって案内を始めた。
「えー、本日はサントス高原鉄道にご乗車くださいまして、ありがとうございます。間もなく、列車はグラン・フレア渓谷の鉄橋にさしかかります。鉄道局が三年の歳月をかけて完成させましたこの鉄橋からの眺めは、大変素晴らしいものでございますので、どうか皆様、ご覧になってください」
鉄道局の造った鉄橋を自慢したいのか渓谷を案内したいのかよくわからないが、とにかくすごいということらしい。
再び一礼して、彼は客室を出て行った。
一番前の右側のボックス席に、ウィノとミアはいる。つまり、車掌は彼等のすぐ傍で案内をしていたから、二人には嫌でも聞こえている。半分居眠りしかけていたウィノは、このために目を覚ましてしまった。
「……三年もかかったって?」
「そうみたい。架けるのがすごく大変で、工事中に足を滑らせて落ちて死んだ作業員が何人かいたんだって。その度にパパとか巡査の人が駆けつけたとかで、大変だったって話を聞いたわ」
「ふーん。そもそも、北クランバールに人は住んでいないからなぁ」
話をしているうちに、突然車窓の景色は一変した。
「……わあ! すっごーい!」
ミアが声を上げた。
渓谷にさしかかったのである。
窓の下が奈落のようになっていて、遥か下の方に川の流れが見える。川の両岸はほとんど垂直に近い、切り立った断崖がどこまでも続いている。渓谷は上流の方で蛇行しており、がけ上の樹海の背後に美しい山脈がなだらかに連なっている。サントス山脈らしい。
景色を楽しめというつもりなのか、列車はゆるゆると速度を落として走っている。
渓谷の幅は百ヘトルほどもあるだろうか。渓谷は東西に続いているから、この鉄橋は南北にかかっていることになる。
普段物事に心を動かすことのないウィノも、これにはすっかり興奮してしまっていた。
「すごいなぁ……。よく、こんなところに鉄橋なんかかけたものだ。驚いたよ」
「ねぇ? 来て、良かったでしょう?」
と、ミアはご機嫌が直って得意げである。
窓の外側の真下を見ていたウィノは、ふと思い立って通路の反対側のボックス席へ移り同じように窓の外側の下を見ていた。
「どうかしたの?」
ミアが尋ねると、ウィノは自分の席に戻ってきて
「この鉄橋、列車が通るだけのスペースしかないんだ。折角の鉄橋だから、人も通れるようになっているのかなぁと思って、見てみたんだけど」
「そういえば、そうね。レールを敷くだけの幅しかないみたい。柵がないから、落ちちゃいそうで怖いわね。鉄道局の保線員の人は大変ね」
やがて列車は鉄橋を渡り終えた。
車窓は再び、森林のそれになった。
「なぁんだ。折角、すごい景色になったと思ったのに。また、これ?」
つまらなそうなミア。
ウィノはサントス高原鉄道のチラシをじっと睨んでいたが
「……もう少ししたら、二回勾配折り返しをするそうだ。そうやって、高原まで登っていくんだって」
「勾配折り返し?」
言葉の意味を知らないミアのために、列車が進行方向を変えて走ることだよ、とウィノは教えてやった。
「どうして、進行方向を変えるの?」
「列車は急な勾配を登ることが出来ないから幾つか段差を設けてジグザグに登っていくように線路を敷くんだ。列車はその場でくるっと回ることができないから、進む方向を変えるんだ」
ミアは頷いて見せたが、興なさげであった。
列車は大きく左にカーブしたかと思うと、やがて速度が落ちてきた。
「なあに? 急に遅くなったわ」
「勾配にさしかかったのさ。平地を走るようにはいかないからね」
確かに、さっきまでは森林の足元しか見えていなかったが、次第に登っていっているため、やがて眼下に樹海を見下ろせるようになった。二人は右側に座っているから、車窓は南の景色を映し出している。どこまでも続いていく緑の海は、こうして見るとなかなか壮観である。遠くで幾羽もの鳥達が飛び立っていくのが見えた。
「わあ……今まで根元ばっかり見てたから面白くなかったけど、上から見てみるとすごいじゃない。こんな場所がクランバールにもあったのね」
と、進行方向の左を向いていたウィノは
「……あっちもすごいよ。確かに、気が休まるかも知れない」
左側、つまり北の方角にはなだらかな緑の斜面がずっと上に向かって続いていた。列車はゆっくりとこの斜面に対して横向きに登って行きつつある。
ややしばらくして列車は停止した。
「あら? 止まったわ」
「ここで進む方向を変えるのさ。――車掌さんが走って行った。分岐器を切り替えるんだな」
少ししてガクンと衝撃があり、列車が逆向きに走り始めた。今度は機関車が客車を押しているような格好である。
大分高い地点まで登ってきているらしく、二人がいる座席の窓の外にはずっと下り斜面が続いている。
「はは、すごいところに線路を敷いたものだな。脱線したらどこまでも転がっていくぜ」
「もう、そういうこと言わないの。いい景色なんだから。ほら、あそこ! さっきの渓谷じゃない?」
ミアが指した先、ずっと向こうの樹海の真っ只中に、線を入れたようにして樹木がなくなっている部分がある。確かに彼女が言う通り、渓谷に違いなかった。
それから二十分も走ったであろうか、再び列車は停止した。
二回目の勾配折り返しだろうと思っていると、車掌がやって来た。
「ただいまより、機関車に石炭の補充をいたします。十分程停車いたしますが、よろしければ列車から降りて景色をお楽しみください。ステップを置いておきますので、足元に十分ご注意のうえ、列車から降りていただきますようにお願いいたします」
それを聞いたミアは、もう立ち上がっている。
「いこ、ウィノ! 降りていいんだって!」
「はいはい。降ります降ります」
彼はポケットから懐中時計を取り出して見た。九時を十分ばかり回っている。クランバール中央駅を出てから約二時間程度乗ってきたということになる。停車駅もなく硬い木製の座席に座りっぱなしだったから、いい加減に尻が痛くなってきたところであった。
ミアが早速客室を出て行き、ウィノも立ち上がった。
「あーあ……」
ぐいっと背伸びをしていると、二つ向こう側のボックス席で、初老の男女が立ち上がるのが見えた。
どうやら夫婦らしい。男性の方はウィノと同じ向きに座っていたらしく顔は見えなかったが、対面に座っていた女性の方は、やや勝気な面立ちで、げんに今も
「ほら、早く降りて見に行きましょ! 四千シラも払ってるんだから、見るもの見ておかないと損でしょ!」
と、夫らしい男性を急き立てている。
「ああ、わかったよ」
反対に、夫の方はのんびりした返事をしている。
見れば、身なりはそれなりに立派なもので、高そうな服を身につけている。
そのやりとりを聞いていたウィノは
(あんなに金持ちそうなのに、たかが四千シラをケチるなよな……)
内心、苦笑した。
そして彼も客室を出ようとすると、一番奥のボックス席から中年の女性が二人、こちらへやってきた。こちらはごく普通の感じである。ウィノがお先にどうぞ、と言って譲ると彼女らはそれぞれ、会釈して通り過ぎて行った。
そしてそれに続いてウィノも右側の乗降口から列車を降りた。ステップの傍には車掌が立っていて
「足元に注意してください」
と声をかけてくれた。
「ああ、ありがとうございます」
降りると、その先に見事な景色が広がっている。
列車から先は五ヘトル程度の幅しかなく、そこから先は遥か下の方へ向かって斜面が続いている。足を滑らせれば、どこまでも転がり落ちていってただでは済まないであろう。
青く澄んだ空に、日差しが心地良い。
先に降りたミアは、ぎりぎりのところに立ってじっと景色を眺めていた。
ウィノは背後から
「気をつけろよ。落ちないように」
と、声をかけた。
「うん。大丈夫よ」
背中で返事をするミア。
ふと、彼は興を起こして機関車の傍へ寄って行った。
機関車は約五ヘトルほどの大きさで、煙突からもうもうと煙を上げている。
運転室では、機関士が後部に積んである予備の石炭を、せっせと運転室に運び入れていた。山道を登っていくからには、それなりの石炭が必要であるらしい。
その様子をじっと見ていると、
「――ちょっと、車掌さん! 何分まで停まっているの? 何分?」
さっきの老婦人のやかましい声が聞こえた。列車から降りてきたらしい。
「九時二十分までです、奥様」
「二十分? 二十分ね? 置いていかないで頂戴よ!」
続いて夫の方も降りてきた。彼は、車掌にぺこぺこと頭を下げている。
ウィノは念のため、もう一度時計を見た。
九時十三分。
好奇心旺盛なミアは放っておくと時間を忘れるので、声をかけてやらねばならない。
そうして彼は、そのまま機関士が働くのを眺めていた。
ふと、
「……帰り道も、こうやって給炭するんですか?」
傍に立っている車掌に尋ねた。
近くで見ると彼より四つ五つくらい上らしい車掌は
「いえ、帰りは下り勾配ですから、ほとんど石炭をくわないんです。急行で使用する機関車は大型で速度も速いので機関助手がいて絶えず給炭するんですが、この高原線は観光列車なので、機関士一人しか乗務しないんです」
そんなことを教えてくれた。
ついでだと思ったウィノは
「サントス高原駅には、駅員さんがいるんですか?」
「この高原線にはサントス高原駅しかないんです。そしてグラン・フレア渓谷からこちら側には全く居住区域がない上にこの列車も毎日運転ではないので、サントス高原駅には駅員が常駐していません。それで、こうして私のように車掌が乗務して、駅員の代わりに改札と案内の業務をしているんです」
若いのに、車掌の説明は懇切丁寧であった。ただでさえ鉄道局の職員は横柄だと言われているのだが、この車掌に限ってはそうでもないらしい。
「なるほど。ありがとうございます」
礼を言って、再びウィノは機関車の方に視線をやった。
実は、公設学校の高等部を卒業したら鉄道局に入ろうかと考えていたのだが、この話はまだミアにはしていない。恐らく彼女と父親のフロドが聞けば、警察にしなさい、と反対されるかも知れなかった。フロドは警部として市民の評判もよく、彼の姿を見ていれば警察も悪い気はしないのだが、場合によっては犯罪者を検挙する時に命を落としてしまうかも知れない。それを考えると、警察はちょっと、という気がしないでもなかった。
やや経って、あの二人連れの中年女性が車掌にお辞儀をして列車に乗り込んで行くのを見た。
時計を見ると、九時十八分である。
辺りをきょろきょろと見回すと、視界にミアの姿がない。
「ミアのやつ、何処に行ったんだ?」
客車でも見に行ったのかと、最後部の方へ走って行ったが、そこにミアは居なかった。線路はそこから十ヘトル程先で途切れており、それより先は背の高い草が生い茂っていてとても入って行けそうな場所ではない。
あるいは、と思い返して今度は先頭側へ向かおうとすると、例の老夫婦が
「もうちょっと、停まってくれてもいいわねぇ。こんなにいい景色なんだから」
などと車掌に軽く苦情を言いながら、列車に乗り込もうとしている。
(おいおい……なんだかんだで、俺達が最後かよ)
機関車の前まで走って行き、その先を見ると、いつの間に行ったのか、二十ヘトル先にある分岐器のところにミアはいた。
ほっとしつつも、
「おーい、ミア! そろそろ、時間だぞ!」
叫ぶと、彼女はウィノを見て
「……ねぇねぇ、ウィノ! これ、どうやって動かすのー!?」
無邪気にそんなことを言っている。
「いいから、戻って来い! 列車が出るんだぞー!」
やっと、ミアは戻ってきた。
「珍しいんだもの。あんなに近くで見るなんて」
「分岐器くらい、クランバール中央駅にだってあるだろ? 置いていかれたらどうするんだ」
「クランバール中央駅にもあるの? 知らなかったわ」
そんなことを言いながら、二人は列車に乗り込んだ。
二人が乗り込むのを見届けた車掌は、ミアがいた位置まで走って行った。分岐器を切り替えるためであるらしい。乗降口から顔を出して、ウィノはその様子を見ている。
座席に戻ると、ミアが
「ねぇねぇ、サントス高原駅に昼食をとれるところってあるのかな?」
と尋ねてきた。
その情報はさっき車掌から仕入れていたから、ウィノは教えてやった。
「無人だって。それであの車掌さんが駅員の代わりをするんだって」
「ええっ? 何にもないの? じゃあ、お腹が空いたら、どうするのよ?」
「……クランバールに戻って、ようやく昼だろ? 今、そんな心配しなくたっていいだろ」
そこへ、車掌がやってきて一礼した。
「えー皆様、景色はお楽しみいただけましたでしょうか? それでは、これより列車は――」
案内を始めた、その時である。
「ない! ないわ! お財布がない!」
突然、悲鳴にも似た女性の声が車内に響きわたった。
はっとしてそちらの方を見たウィノとミア。
車掌も、何事かと固まっている。
一瞬シンとなった車内に、再び声が上がった。
「きちんと、探したのか? それとも、家に忘れてきたんじゃ――」
「あなたも知っているでしょ! 私は家ではこのバッグからお財布を出すことなんかないのよ! きっと、すられたか盗まれたのよ! そうに違いないわ!」
物騒な単語が飛び出してきた。
あの夫婦か、とウィノは悟った。婦人の方が騒いでいるらしい。
「奥様、どうか、なさいましたか?」
車掌が駆け寄っていくと、老婦人は血相を変えて
「私の、お財布がないのよ! 盗まれたのよ、きっと!」
興奮気味に訴えた。
「盗まれた!? ええっと、それで、あの……」
「早く! 早く、警察を呼んで頂戴! ……何をしているのよ!」
うろたえている車掌に、警察を呼ぶように強要している婦人。
が、夫はあくまでも冷静に
「そんなこと言ったって、こんな山奥に警察がいる訳がないだろう? いいから、もう一度鞄の中を探してみろ。もしかしたら、見間違いってことが――」
「まあ! あなたまでそんなことを! ……いいわ! 車掌さんも、よく見なさい!」
言うや否や、彼女はバッグを逆さまにして自分が座っている隣の座席に中身をぶちまけた。
バッグは大きなものではないから入れられるものも知れているが、それでも眼鏡入れやら手帳、筆入れ、ハンカチなどが出てきた。ウィノはそうっとその様子を覗き込んでみたが、どれもそれなりの値段がしそうな、品のいい物ばかりである。
老婦人はバッグを逆さまにして、これでもかとばかりに底をバンバンと叩いて見せ
「どう? ないでしょ? ないわよね! これでも疑うのかしら?」
「は、はあ……。あの、念のため、その、お財布というのは、どのような――」
「決まってるでしょ! セレベノ通り三番地にあるシャネーラのお店で作って貰った、特注のお財布よ! 真ん中のとめ具に、翡翠が散りばめてあるの! わかるでしょ!」
気持ちが高ぶっているのであろう、老婦人は自分で自分が言おうとしていることの整理が出来ないらしい。
ポンポンと矢継ぎ早に言われた車掌は、すっかり戸惑ってしまっているらしく
「あ、あの、セレベノ通りで、その、作られたという……お財布で――」
「ああっ、もう! あなた、それでも車掌なの!? だから、鉄道局は嫌われるのよ! さっさと警察を呼びなさい! 警察よ! 警察!」
「だから、こんなところに警察がいる訳ないだろう! 少しは落ち着いたらどうなんだ!」
婦人の荒れっぷりを恥ずかしく思ったらしい夫が語気強く声を上げた。
が、それで大人しく引っ込むような婦人ではなかった。
「だったら、今すぐクランバールへ引き返しなさい! これは事件なのよ、事件! 何をしているの? 早く、列車を出発させなさい!」
立ち上がって車掌に迫る老婦人。
そのえらい剣幕に、人の良さそうな車掌はたじたじと後退りを始めた。
「さあ、早く!」
そう督促した時である。
「……おい、婆さん。いい加減にしてくれよ」
中年の男性の声がした。
ウィノはさっき気が付いたのだが、彼等の斜め後ろ、前から二番目のボックスに男性がいたのである。彼はどういう訳か、この列車に一人で乗っていたらしい。職人風で身なりはよれよれだったが、目が生き生きとしていて気風が良さそうな感じの男である。
彼はゆっくりと立ち上がり、
「さっきから聞いていれば、手前一人のために列車を戻せだと? 馬鹿な事言ってんじゃねぇ。乗客はあんただけじゃねぇんだ。こっちも金払って乗ってるんだよ。車掌さん、こんな婆さんの言うことなんざ聞くこたぁねぇ。後で街に戻ってから警察に届け出ればいいだろう」
と、車掌を援護するように言った。言葉は汚いが、道理は通っている。
思わぬ助っ人の登場に車掌は一瞬表情を緩めたが、さらに騒ぎは悪化することになった。
「まあ! 人のことを婆さん、婆さんと、よくも! あなたのような、その、低所得者なんかに、婆さん呼ばわりされる言われはないわ! ――そう、そうよ!」
老婦人は思いついたようにポンと手を叩き、ピッと男性を指差した。
「この人よ! この人だわ! さっき、列車から降りなかったのはこの人だけよ! 怪しいじゃない? 車掌さん、この人を調べて!」
言われた職人風の男性は一瞬不思議そうな顔をしたが、次の瞬間には色をなし
「ふざけるなよ、婆あ! 誰が、手前の財布なんかに手ェだすものか! 俺はな、クランバール宮の建築士として国王の宮殿を長年手入れしてきてるんだ! 人様の金に手を出すような真似なんざ、職人の意地が許さねぇ。国王陛下からも、厚いご信頼を頂戴してるんだよ!」
「国王陛下の建築士だか知らないけど、泥棒は泥棒でしょ! やったならやったって、素直に認めなさいよ!」
「何だと、この婆あ!」
両者が近寄ってつかみ合いになりかかった。
そこへ割って入り、必死に止める車掌。
老婦人の夫も、妻を背後から引きとめ
「止めないか! 人様に向かって、何ていうことを言うんだ! ――大体、お前、バッグを車内に置いて出たのか?」
黙って騒ぎを見ていたウィノも、そこが聞きたかった。そんな貴重品が入っているなら、身につけておくのが普通ではないか。
すると、老婦人は
「置いていたわよ。それが、何よ?」
平然と言い放った。
一瞬、夫をはじめ車掌も職人の男も唖然として言葉を失った。ウィノも同様である。
その呆れ返ったような一同の空気を感じとった老婦人は、開き直ったように
「ちょっと景色を見に行っただけじゃない。どうして、いちいちバッグを持って出る必要があるのかしら? 理解できないわ。――それより、置いてあるものは他人の物は持っていいって法律があるのかしら。置いておくなという方がおかしいじゃない。それこそ、泥棒を認めているような考え方としか思えないけど。そこのその人みたいに」
「ふざけるなよ、婆あ!」
老婦人はもう、職人の男が犯人だと決め付けているような言い方しかしない。
犯人扱いされた男性はさすがに激怒し、
「おうおう車掌さん、こうなりゃ、列車を街に戻してくれ! 警察の前で白黒つけようじゃねぇか! ……その代わり婆あ、俺が犯人じゃなかったら、ただじゃおかないからな!」
「え……」
車掌は泣きそうになっている。
はいそうですかと簡単に列車の運転予定を変えられる権限はないのである。
「さあ、車掌さん! 早くしなさい!」
「兄ちゃん、頼むぜ!」
今度は二人から詰め寄られ、若い車掌は顔面蒼白になって立ち往生している。
「――ちょーっと、待ちなさい」
修羅場の最中、そこで急に割って入ったのは、なんとミアであった。
彼女は通路まで進み出ると、腰に手を当てて
「黙って聞いていれば、みんな勝手なことばっかり言って。あたし達だって、乗客なのよ? ここで引き返されたら、せっかく来たのが台無しじゃないのよ!」
その背後で、ウィノは焦っている。
この騒ぎに割り込んでいくなど、火に飛び込むようなものではないか。
若い女性の思わぬ登場に車内は一瞬静まり返ったが、最初に職人風の男が
「おう、姉ちゃん。悪いけど、ここは仕方がねぇ。何たって、この我儘な老いぼれがだな――」
「列車代なら、私が払ってあげるわよ。あの泥棒から財布を取り戻したら。だから、この列車は引き返させるわ。とにかく、今は警察を呼ばないと――」
「いい加減にしろ、婆あ! 手前はどこまで俺を――」
と、また騒ぎが再燃しかけた。
が、ミアは動じた風もなく、はあっと大きく息を一つつくと
「……あたしのパパ、クランバール警察の警部なの。フロド・エレシアって、知ってるでしょ?」
もみ合いしかけていた一同の動きが、ぴたりと止まった。
「駅に着いたら、あたしからパパを呼んであげてもいいんだけど、そうやって騒がれると、ただの喧嘩って言うしかないじゃない? いい大人が、少しは落ち着いたらどうなの?」
若い女性に落ち着いてそう指摘されると、さすがに自分達の喧騒がにわかに滑稽なものに思えてきたらしく、老婦人も職人風の男も黙ってしまった。
それを見たミアは頷き、
「それでいいわ。……じゃ、事柄を整理しておきましょ。あたしが第三者として見た通りをパパに伝えれば、公平になるから。いいかしら?」
異論は出なかった。
もはや、彼女の一人舞台である。警部、フロドという単語は、魔法のように効き目があった。
「じゃあ、そこのおばあ――」
言いかけたのを、ウィノが止めた。
「待った。ここには、今は限られた人間しかいない。――車掌さん、すいませんが機関士さんにも立ち会ってもらった方がいいと思いますが、呼んでこれますか?」
更に彼が登場したことで車掌はどうしたものかといった顔をしていたが、やがて頷くと客室を出て行った。
ミアはちらりとウィノを見て
「……あたし達が、証人、ってことね。面白くなってきたわよ」
「そういうことは言うなよ。まがりなりにも、困っている人がいるんだから」
その一人は自分かもしれないと、ウィノは思った。が、ミアが首を突っ込んでしまった以上、放っておく訳にもいかない。こうなれば、彼女と共に事態を客観的に把握して、フロドに伝えるよりないではないか。
そのうち、車掌が機関士を連れて戻ってきた。
石炭の煤で真っ黒に汚れている機関士は年配の男性で、ちょっと困ったような顔をして
「あんた、警部の娘さんかい? 今、まだサントスに到着していないし、ここから今戻れば、途中で行き合い列車にぶつかってしまうんだわ。だから、その――」
この高原線は単線だから、上り下りの列車がすれ違う場所は限られている。戻りたい時に戻れるということにはならないのである。
それに、勝手なことをすれば、鉄道局からどんな叱責があるかわかったものではない。この機関士はそれを恐れているらしかった。
「戻って欲しくないわよ、あたしも」
そう言ってミアはまず、一同を座らせて
「ここは山奥で、あたしとウィノを含めて九人以外に誰も居ない。これについてはみんないいかしら?」
他の者は、そこここで頷いた。
「で、一人づつ名前を聞かせて貰えるかしら?」
すると、真っ先に老婦人が立ち上がって、
「私が被害者のシャル・カッティーネ。これは夫のモンドですわ」
モンドが立ち上がり、皆に頭を下げた。
シャルはまだ何か言いかけようとしたが、それを遮るように職人風の男が
「クランバール宮建築士のゲル・マークだ。言っとくが、俺の名前は国王陛下もご存知だ」
「……関係ないでしょ。そんなこと」
シャルが小さく毒づいた。
「何だと、この――」
また揉めそうになったのを、ミアは軽く制して
「……これ以上、争うのは止めて。その通りにパパに伝えなきゃならなくなるわ」
それから、一番奥に座っていた二人の中年の女性が名乗った。機関車寄りに座っていた女性はピトラ・ノスカ、その向かいの女性はエーメ・クワッセというらしい。
さっきから騒ぎに巻き込まれていた若い車掌はケネル・イデルトス、そして機関士はロモ・スティバと名乗り、最後にミアとウィノが名乗って全員の名前がわかった。
「で……」
ミアがウィノの顔を見た。
全員の名前を聞くまでは良かったのだが、そこからどうしたらいいか判らなくなったらしい。
それぞれの名前と座席位置を手帳に書き取っていたウィノは、仕方なく立ち上がり、彼女の代わりに話し始めた。
「……座席の位置を確認しておきたいと思います。俺とミアが一番、シャルさんモンドさんが三番、ゲルさんが六番、そしてピトラさんとエーメさんが八番ボックス席と、いうことだったと思いますが?」
皆、頷いた。
ウィノは先ほどからの一連の騒ぎを聞いていて、幾つか疑問点があった。それを確認しておくことはフロドにとっても重要な情報であろうと思い、そこから始めることにした。
「皆さんに、幾つかお聞きしたいことがあります。一つ目に、この列車に乗車してからここに到着するまでの間、ちょっとでも座席を立って動いたりしましたか?」
ゲルとシャル、モンドが首を横に振った。
ピトラとエーメが
「私達は、グラン・フレア渓谷のところで、四番のボックスにちょっとだけ移動しました。あまりに素晴らしい景色だったもので……」
頷きつつ、
「ありがとうございます。俺も、そこでは五番のボックス席に移動していますので、皆さんにお伝えしておきます」
彼も、正直に申告した。ゲルとモンドが頷いて見せた。ケネルとロモは論ずる必要がない。
次に訊きたい事、これが事件にとっては重要な部分であった。
「この勾配折り返し地点で、降りられた方を確認したいと思いますが――」
最初に降りたのは車掌のケネル、次にミア、エーメ、ピトラ、ウィノ、シャル、モンドという順番である。 手帳に書き込んでいると、横から覗き込んでいたミアが
「あれぇ? ゲルさん、降りなかったんですか?」
と質問した。
ゲルはちょっと嫌な顔をして
「ああ。気持ちよかったんで、ずっと寝ていたんだ。みんな、ぞろぞろと戻ってきた気配で目が覚めたよ。せっかくの景色が、勿体無かったなぁ」
「ほれ、御覧なさい。降りてないのは、この人だけじゃないの」
シャルはあくまでもゲルが犯人だという腹がある。
また争いかけそうになるのをウィノは押し止め、
「確かに、ゲルさん以外の皆さんが降りているのを、俺もケネルさんも確認しています。ただ、これは客観的な事実の把握ですから、これをもってゲルさんが怪しいということにはなりません。シャルさんも、そこは了解してください」
その言葉に、ゲルは嬉しそうに頷いた。むっつりとしているシャル。
続いて、ウィノは念のため乗り込んだ順番も確かめておいた。
ピトラ、エーメ、モンド、シャル、ミア、ウィノ、ケネルの順である。これは車掌のケネルが覚えていた。
ウィノはちょっと考えて、次の質問をした。
「……皆さん、シャルさんがそのバッグを持っていることは、お気づきでしたか?」
「ええ、知っていました」
そう答えたのは車掌のケネルだけで、あとは首を横に振った。彼はクランバール中央駅でシャルとモンドを座席まで案内しており、その時に見たのだと言った。
が、ウィノの確認はそれで終わらない。
「シャルさん、さっき座っていたようにもう一度座っていただけますか? バッグも、置いてあったようにしていただきたいのですが」
彼女は怪訝な顔をしたが、
「……ええ、いいわ」
三番ボックスの後方寄り、窓側に席に座ると、バッグを自分に引き付けるようにして横の空いた座席の上に置いた。
「ありがとうございます。――じゃ、ミア。ちょっと頼む」
「あたし? 何?」
ウィノは、ピトラ、エーメ、ゲルの座っていた位置にそれぞれ彼女を座らせると、そこからシャルのバッグが見えるかどうかを尋ねた。ピトラ、エーメの座っていた位置からは物理的に見えはしないのだが、そこは念のために確認してみたのである。彼の意図することを理解したミアは、各座席に座って伸びたり縮んだりしていたが、いずれも「見えないよ」と答えた。
ボックス席の座席は背もたれが大人の胸の位置ほどに高く、しかも横幅もあるために、立ち上がったり通路側に顔を出したりしない限り、シャルのバッグは視界に入らないのであった。
「わかった、ありがとう。――それでケネルさん、グランバール中央駅で、皆さんが乗ってきた順番と、乗車口は覚えていますか?」
「ええ、確か――」
ケネルは天井を向いて記憶を呼び起こしながら、答えていった。隣で、ウィノが手帳に書き込んでいる。
最初に乗車したのがゲルで、前方の乗車口。次にモンド・シャル夫婦で、後方の乗車口から乗ってきていた。その後はエーメとピトラだが、エーメが後方から乗ってきて、少ししてピトラが前方の乗車口から乗ってきている。
「家で留守をしている夫に頼みごとがあって、電報を打ってきたんです。それで、エーメさんよりちょっと遅れて……」
と、ピトラは説明した。
既に乗っているシャルの横を通った訳だから、バッグは目に入らなかったのかとウィノが問うと
「……座席の位置はわかってましたし、エーメさんの姿が見えたから、自分の席まで真っ直ぐ行ったんです。ですから、その、誰が乗っているとかは……」
大人しそうなピトラは、どもりながら懸命に説明した。
それを聞いていたエーメも
「この列車に乗ってからは、私とピトラさんはずっと一緒にいました。ですから、その、何と言うか――」
確かに、バッグが目に入ったとして、それをどうこうする時間的な余裕は話を聞いている限りなさそうではある。しかし、たった一つの死角として、二人はさっき、モンド・シャル夫妻よりも先に列車に乗り込んでいるのである。唯一車内にいたゲルも、二人が真っ直ぐ座席に戻ったかどうかはわからないと言っている。
ここまで、ウィノの確認は淡々とスムーズに進んでいる。彼があらかじめポイントを考えていたためなのだが、始めてから経過した時間は二十分程度であろうか。
すると、ロモがもじもじとしながら
「……あの、まだ、かかるんだろうか? 列車は、どうしたら――」
ミアが事も無げに
「最悪、サントス高原駅まで行かねばならない事情はあるのかしら? こうなった以上、あたし達も無理矢理行けとは言えないし、引っ返してくるまでの時間、ここに停まっているってのはいけないかしら? どうしても、っていうなら、警察にお願いして、事件解決のために停車させたって、鉄道局に話をしてもらうようにもできるけど?」
「いや、それならいいんだ。何も、天辺まで行かねばならないったら、そういうこともないし――」
ロモは安心したように言った。結局、何かあって列車を止めたということが鉄道局の耳に入るのが怖いだけのようである。
それを聞いたウィノは軽く頷くと
「……では、あと二つばかりお願いがあります。念のためといっては何ですが、皆さんでお互いに、今身につけている物を確認しておきたいと思うんです。何も関わりがないことを証明するためですから、面倒だけども協力して欲しいんです」
それはそうだと言わんばかりに、皆それぞれ上着を取ったり鞄の中を開けて見せたりした。
当然、誰からも財布は出てこなかった。
「ありがとうございました。あとは皆さん、少しの間、そのまま座っていてください」
ウィノは皆を待たせておいて、自分はミアと共に車内の確認を始めた。網棚の上、座席の下、前後方乗降口のあるデッキ、前方車掌室と順番にくまなく見ていった。
「……ないわね。あるとも思えなかったけど」
ミアが言った。ウィノとしても、誰かが車内に隠したなどとは思っていない。が、
「念のためさ。詳しく調べておけばそれだけ、フロド警部にも報告しやすいだろう?」
「……ウィノったら、警察に向いているんじゃない? パパ、きっと賛成してくれるわよ?」
それは困る、と彼は思った。今のところ、警察には入りたくない。
最後に、見ておくべきところがあった。
列車の外回りである。
「えー? それはないんじゃない? 例え、こんな山の中に隠しておいたって、どこの誰が――」
「念のため。それに、その可能性がある人物が二人ばかり、この中にいる」
ポンと手を打つミア。
「あ、そうか。ケネルさんとロモさんは、これからもここに来る可能性があるんだっけ」
二人はケネルに言って外に降ろさせて貰い、列車の下や周辺を見て回った。
十五分ばかりそうした後、再び列車に戻った。
客室に入ると、ゲルが
「何かわかったかい、若い探偵さん」
と、声をかけてきた。
ウィノの捜査ぶりがてきぱきしているせいか、いつの間にか乗客たちは彼のそういう行動を妙とも思わなくなってきたようである。
「いや、財布は見つかりませんでした」
ふと見ると、車掌のケネルがげっそりして二番ボックスの座席に座っている。
「……どうかしたの? 車掌さん」
ミアが話しかけると、ケネルは顔を上げて苦々しく笑って見せた。
「いえ、その……。ちょっと、仲裁に入ったものでして……」
二人が外に出ている間、またシャルとゲルが言い争いを始めた挙げ句、つかみ合いになりかけたらしい。どこまでもシャルはゲルが犯人だと疑っていて、そういうことをくどくどと言ったのだと、ロモが教えてくれた。
確かに、この中で最も状況が不利なのはゲルである。シャルのバッグを見ていないとは言っても、車内に彼一人しかいないという時間が存在している以上、これは動かし難い。しかし、彼の所持品は全員が確認しているのである。あるいは車内も隅々まで調べているが、隠された形跡はない。
ウィノは自分の座席に座ると、手帳を広げて確認した内容を眺め始めた。
別に彼がここで犯人を突き止める必要はない。この通りのことを、クランバールに戻ってフロドに伝えればそれで事は終わるのである。
ちょっとくたびれたように、ミアも座席に戻ってきて
「……何か、わかった?」
「わからない。ただ――」
「ただ、何?」
「この列車の全員の誰も犯人であるという何の証拠もない。これだけは確かなんだ。……でも、一つだけ。そうなると、シャルさんの財布は一体どこにあるんだということになる」
朝はあれだけ元気だったミアも、沈んだように考え込んでしまった。
下を向いて考えていた彼女は、ふと通路の方へ手を伸ばした。
拾い上げたのは、列車の切符であった。
「あら。誰か落としたのかしら。――この列車の切符だわ。三番ボックス席、って」
ミアは立ち上がると、三番ボックス席へ近寄って行った。
「……これ。落ちていましたが」
差し出すと、シャルがニッと笑って
「あらあら、ごめんなさい。あなた、落としちゃ駄目じゃないの。ちゃんと、持っていなきゃ。――さっき、あの人を止めに入った時にもみ合っていて落としたのね」
「いや、申し訳ない。助かりました」
心底済まなそうに礼を言って、モンドは切符を受け取った。
ミアが席に戻りかけると、後ろでシャルとモンドが話し始めた。
「本当、散々ね。財布は盗まれるわ、サントス高原には行きそびれるわ……。あなたが行こうって言ってくれたのに。誰のせいかしら」
シャルがちらとゲルの座席の方へ視線を走らせた。
「もう、そういうことは言うな。街に戻れば、あのお嬢さんのお父さんがきちんと探してくれるさ。サントス高原には、また連れてくるよ。お前の誕生祝いだしな」
車内は静まっているから、そんな老夫婦の会話は皆の耳に入っている。
座席についたミアは
「……旦那さんが奥さんに旅の贈り物だって。なかなか、素敵ね」
と言ってくすくす笑った。
「ふーん……」
手帳に目を落としたまま、それを自分にもやれといっているのかとウィノは思った。
が、その瞬間、彼は一つの仮説を思いついた。
そしてそれは、今まで調べた結果に当てはめても、ぴたりと矛盾なく符合する。
(――これだ! これしか、考えられない!)
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