気になる君と、今夜も通りを挟んで

まさ

第1話 雪国にて

 曇天の空から粉雪が舞っている。

 肩の上に乗っかると冷たくて、さあっと水玉に変わる。

『長いトンネルを抜けると雪国であった』

 そんな言葉を残した、かの大文豪も、もしかしてこんな景色を見たのだろうか。


 温かい湯に浸かっていると、今だけ、浮世のもろもろを忘れた気持ちになる。


 営業社員になってから3年ほどが経つけれど、去年は何もいいことが無かった。

 大きな商社に入ったのはよかったけれど、上司に怒鳴られまくって、神経をすり減らして、吐き気がする毎日だった。


 挙句、転勤を命じられた。

 この春には、東京本社から大阪支社への異動、しかも聞いたことがない弱小部署へだ。

 左遷、といってもいいだろう。


 顧客からの引き合いに応えて、必要なものを安く仕入れて高く売るのが、主な仕事だ。

 いつも大きな売りを求める上司と、中小企業相手の小さな取引にも時間を使っていた俺とはソリが合わなかったので、まあ仕方がないか。


「別れましょう」


 付き合っていた彼女は、そんな言葉をくれた。

 遠距離恋愛になるけれど、不安にならないで待っていてくれるかな?

 そんな問いを渡そうとした矢先に。


 後で知ったことだけれど、俺と同じ部署の先輩と付き合うことになったのだという。

 その先輩は上司のお気に入りで、小さな仕入先を徹底的に買い叩いて、大きな顧客だけを優先するような人だった。

 でも売上高はいつもトップクラスで、上司にも会社にも評価されていたんだ。


 捨てられたのかな……俺が勝てる相手でもないし。

 卑屈な気持ちに打ちひしがれた。


 自分への慰め、といったら情けないけれど、俺は今、雪国の温泉郷にいる。

 大丈夫かな、春から……

 そんな不安を抱きながら。


「あ~、気持ちいいなあ」


 たった一人だけの外湯に浸かりながら、雪が降り積む空を眺めた。


 たっぷりと湯に身を浸してから、泊っている温泉旅館の浴衣ゆかたを着た。

 ここは浴衣を着て、外湯巡りができる。

 一度やってみたいなと思っていたことが、やっと実現したんだ。

 本当は一人じゃなくて、だれかと一緒に来たかったのだけどな。


 ―― あ……?

 つい見返してしまった。

 雪道ですれ違いざまに、軽く頭を下げてくれた、その女性を。


 同じ模様の浴衣を羽織っていて、長くて艶のある黒髪が一瞬で目に焼き付いた。

 彼女も、一人なのかな?

 それとも、彼氏かだれかと来ているのかな?

 水晶のように澄んだ瞳に整った目鼻立ち。

 それに、周りの雪景色を映しとったかのような真っ白な素肌。


 一時いっときだけの邂逅だったけれど、それだけでいい気分になった。


 昔ながらの遊技場、えのしそうなお洒落なカフェ、大人の雰囲気が漏れ出るバー、特産品の直売所……

 昔情緒と新しい風とが入り混じる温泉街をのんびりとそぞろ歩いてから、泊っている温泉旅館に戻った。

 古くて歴史のある、落ち着いた佇まいだ。


 畳の上に寝そべって、夕食までの時間を無駄に過ごす。

 贅沢だな、こんなの……このところ、ずっとそんな余裕はなかった。

 そのまま、軽い眠りに落ちた。


 夕食の時間になったので畳敷の広間に向かうと、豪華絢爛な膳が用意されていた。

 紅色に染まった蟹が丸まる一匹、天ぷらに刺身に、それに蟹シャブ用のお鍋。

 その前でどっかりと、胡坐をかいた。


「いらっしゃいませ。飲み物は何にされますか?」


「ああ、じゃあまずビールで」


 仲居さんに酒を頼んでから、さあどれから食べようかと悩んでいると、隣の席に一人が座った。


 女性だな、彼女も一人なのかな……あっ!?

 思わず息を飲んだ。

 ちょっと前に道ですれ違った彼女だったんだ。


 じっと見入ってしまったせいか、彼女も俺に気が付いたようで、軽く頭を下げてくれた。

 

 やっぱり綺麗だな、まるで雪の国のお姫様。

 ちょっとした偶然に、心が踊る。


 やっぱり、料理は絶品だなあ。


 蟹の脚はぷりぷりで濃厚な甘みで、三杯酢の酸味とよく合う。

 蟹の甲羅には熱燗を注いで、蟹ミソの味と一緒に堪能する。

 蟹ミソのまったりした味が口の中に広がって、日本酒の風味がふんわりと鼻に抜ける。

 海老や貝、魚の刺身は新鮮だし、天ぷらは外がサクサクで中は豊潤な旨味だ。

 ついつい、酒だって進んでしまう。


 隣の彼女に目をやると、小さい口をもきゅもきゅと動かしながら、ほんのりと頬が赤い。


「あの、よかったら、一杯どうぞ」


 酔ってしまって気持ちが大きくなったのか、日本酒の徳利を彼女に差し出した。

 旅の恥はかき捨て、そんな言葉だってあるじゃないか。

 断られたら、それはそれで笑い話になるかもな。


「あの、いいんですか?」


「ええ。こうやって隣同士になったのも何かの縁ですから。嫌じゃなかったらどうぞ」


「……ありがとうございます。じゃあ頂きます」


 よかった、笑顔で応えてくれた。

 小さなお猪口に酒を入れると、彼女はそれを口に持って行って、コクンと白い喉を鳴らした。


「ふう、美味しい。あ、お注ぎしますね」


「あ、ありがとうございます」


 今度は逆に彼女に注いでもらって、芳醇な味を喉に流した。


「あの、昼に外湯におられましたよね? お一人なんですか?」


 ……覚えていてくれたんだ。

 一瞬、すれ違っただけだったのに。

 お酒のせいじゃなくて、何だか胸のあたりが熱いな。


「ええ、そうです。そちらもですか?」


「はい、そうなんです。四月から新しい会社に変わるので、自分への激励の感じで、ここに来ました」


「そうですか。俺も似たようなものです。四月から、東京から大阪へ転勤になるんです」


「大阪、ですか。偶然ですね、私も四月からは大阪です」


「そうなんですか? それは奇遇ですね!」


 一人きりだと思っていた夕食が、明るい色に染まっていく。

 名前も知らない彼女だけれど、とっても綺麗で、笑った顔が可愛くて。

 意味のない雑談が、まるで命を持った音色のように、俺の鼓膜を揺さぶってくれる。


 生の蟹の脚を鍋に浸すと、ぱっと花が咲いたように膨れ上がる。

 口に含むと濃厚な甘みが広がって、心地いい歯ごたえと一緒に、脳幹をとろけさせてくれる。

 

 いいなあ、来て良かったなあ。

 これでまた、四月から頑張れるかな。


 至福に感じた夕食が終っても、まだ夜は終わらない。

 これから雪見酒だ。


 旅館の温泉に行って、仲居さんに日本酒を注文した。

 粉雪が降り積む露天風呂に浸かりながら、熱燗をちびちびとやる。

 気持ちがぼやけてきて、体がぷかぷかと宙に浮いていきそうだ。

 都会では味わえないゆっくりとした時間に、ひたすら身を委ねる。


 お、サウナもあるじゃないか。

 せっかくなので中に入って、すさまじい熱気の中で腕組みをしてみる。

 ―― ダメだ、飲酒のせいもあって、頭がクラクラだ。

 すぐに外に出て、積もった雪の中にダイビングした。

 体中の熱気を冷たい雪がさっと吸い取ってくれて、滅茶苦茶気持ちがいい。


 風呂が終ると、後はやることがない。

 テレビでも見ようか、持ってきた本でも読もうか……


 せっかくここにいるんだ、もうちょっと楽しもう。

 浴衣の上から上着を羽織って、旅館の外に出た。

 

 夜の景色は、なんだか幻想的だ。

 点々と並ぶ店の灯りがほんのりと、暗闇の中で瞬いている。

 雪は降り続いていて、ゆるゆると地面に舞い降りる。


 夜の空をしばらく見上げてから数歩歩いて、


 ―― あっ!?


「あら、こんばんは。よく会いますね」


「あ、ああ、そうですね……」


 名前も知らない彼女が、肩の上に雪を乗っけて、暗い通りから現れたんだ。


「散歩、ですか?」


「ええ。それとちょっとだけ、外のお店で飲んでいたんです」


 一人で外でか……もしかして、お酒好きなのかな?

 さっきもかなり飲んでいたみたいだけど。


「じゃあ、おやすみなさい」


「あ……お、おやすみなさい……」


 旅館の中に消えていく彼女の背中を見送りながら、俺は言いかけた言葉を、ぐっと飲みこんだ。

 できれば名前くらい……そんなこととか。

 久我山信くがやましん、そんなちっぽけな名前を伝えることもできなかった。


 きっと、もう会えることは無いのだろう。

 短い時間だったけど、一緒に過ごせて楽しかったな。

 ありがとう。


 でもちょっとだけ気になったんだ。

 ふと目にした彼女の横顔が、なんだか儚そうに見えたのが。








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