第13話:猫はどこにでも行く

 朝、店を開けると、そこに“いつもの存在”がいなかった。


 なぎがいない。


 カウンターの上にも、椅子の上にも、その姿はなかった。開店の準備をしていても、どこからともなく現れるのが当たり前になっていたから、いないことに気づくのに少し時間がかかった。


 窓を開けても、いつものように「にゃ」と返してくる声もない。

 まさか、どこかに閉じ込められたんじゃ……と心配が頭をよぎる。


 それでも、焦りはなかった。どこかで「たぶん、大丈夫だろう」と思える根拠のない確信があった。

 なぎは、この町の中にいる。そう思えた。


 午前中の客はゼロ。

 ポットの中で湯が静かに熱を持ち、誰のためでもない珈琲の香りが店内に漂っていた。


 昼すぎ、気晴らしも兼ねて町へ出た。


 路地を歩くと、洗濯物を干していたおばあさんが、僕に気づいて声をかけてきた。


「あら、あの猫、今日はそっち行かなかった?」


「なぎですか? 今朝から見てないんです」


「じゃあ、午前中は神社にいたわよ。お日さまに照らされて、気持ちよさそうに寝てたから」


「神社……」


「たまにいるのよ。日向が好きみたいでね。あと、お参りする人が撫でてくれるから、そこもお気に入り」


 なるほど、なぎは“この店の猫”ではない。

 この町の、もっと広い範囲の“住人”なのだ。


 少し歩くと、今度は魚屋の店先で、氷を並べていたおじさんが声をかけてきた。


「なぎなら、さっき港の倉庫んとこで見たぞ。漁師のじいさんの足元で寝てた」


「そうなんですね。いろんなとこに行くんですね」


「そうよ。あいつは、悲しい人のとこに行くんだよ」


 その言葉に、思わず聞き返してしまった。


「……悲しい人、ですか?」


「うん。変な話かもしれんけどね。あいつが側にいると、ちょっとだけ気持ちが落ち着くっていうか……そう言ってた人が、何人もいたんだ」


 僕は言葉を失って、その場で立ち尽くしてしまった。

 そういえば、最初に店に入ったときも、なぎはそこにいた。

 僕がひとりで、不安を抱えて、どこにも居場所がなかったあの日。

 カウンターの上で、ただじっと僕を見つめていた。


 あれは――そういうことだったのか。


 午後、店に戻ってドアを開けると、どこからともなく「にゃ」という声が聞こえた。

 見ると、カウンターの上でなぎが丸くなっている。まるで最初からそこにいたような顔をして。


「……どこ行ってたんだよ」


 問いかけると、返事代わりに欠伸を一つ。それから、ぺたんと前足を折りたたんで落ち着いた。


 僕はキッチンに立ち、豆を挽いて、新しい珈琲を淹れた。

 いつも通りの手順。でも、どこか違っていた。


 なぎがいないことに気づいた朝と、戻ってきたこの瞬間。

 何も変わっていないようで、たしかに何かが変わっていた。


 猫は、どこにでも行く。

 でも、それは“どこにでも行ける”ということじゃない。

 ちゃんと、そのとき必要な場所を選んでいるのだ。


 そう思えたとき、僕はようやく、なぎという存在を“飼っている”のではなく、“一緒にいる”のだと理解した。

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