第12話:画家と絵葉書
午前中は、町の人がふらりと立ち寄ることが増えてきた。
昨日の八百屋の女将さんが言ったとおり、ちょっとした口コミで噂が広がっているらしい。
「まだ開いてるの?」「あの猫、元気だった?」そんなふうに、目的も定まらない足音が、ドアの鈴を鳴らす。
午後になって、客の流れが落ち着いてきたころ。
静かに扉が開いて、一人の初老の男性が入ってきた。
黒い帽子に淡いシャツ、肩に小さなスケッチブックを提げている。
目が合うと、軽く会釈して、窓際の席に座った。
「いらっしゃいませ。珈琲、よろしいですか?」
「うん。苦めのを、お願いできますか」
声は落ち着いていて、聞き取りやすい。誠実で、どこか内省的な響きがあった。僕はケニアの豆を選び、丁寧に挽いてドリップを始めた。
お湯を注いでいるあいだ、ふと視線を感じて顔を上げると、男性はじっと僕の手元を見ていた。
その視線にはどこか、観察というより“記録”に近い何かがあった。
「絵を……描かれるんですか?」
カップを出すと、彼は軽く頷いた。
「この町の風景をね。もう、ずいぶん長いこと。最近は絵葉書にして残してるんです」
そう言って、鞄の中から数枚のカードを取り出した。
どれも水彩で描かれていて、やわらかな色合いが町の静けさをそのまま写し取っている。海、坂道、木造の家々。そして――猫。
「……これ、なぎですよね?」
「そう。あの猫は、ずっと昔からこの町にいるよ。あんたが来るより、ずっと前からね」
絵に描かれたなぎは、今より少し若く見えた。目つきはやや鋭く、けれど確かに同じ佇まいをしている。
猫はまるで町の時間を引き受けて、静かに歩き続けているようだった。
「店の絵も、描かれたことありますか?」
「あるよ。葉子さんがいた頃、よく窓から中を描かせてもらった。あの人、僕のこと何も言わずに描かせてくれたから」
「……すごいですね。言葉じゃなくて、絵で残るって」
「絵はね、誰が何を考えて描いたかなんて、残らなくていいんだ。ただ、“あった”ということだけが、残ればいい」
その言葉が、どこか胸にひっかかった。
“あった”。それは、何気ない言葉のようでいて、確かな重みがある。
この店が、ただの古い建物ではなく、誰かの記憶を宿した場所だということ。その証のように、彼の絵は存在している。
「……よかったら、店の中も、また描いてください」
僕がそう言うと、彼は少しだけ目を細めて、静かに頷いた。
「そのうち、ね。あんたがもう少し、ここにいるなら」
それは、遠まわしな“歓迎”のように聞こえた。
彼はゆっくりと珈琲を飲み終え、席を立った。
帰り際、スケッチブックを軽く持ち上げて見せてから、小さく頭を下げて店を出ていった。
ドアの鈴が鳴り終わったあと、カウンターの奥でなぎが伸びをして、僕の方へと歩いてくる。
「君も、昔からここにいるんだよな」
なぎはカウンターに飛び乗り、静かに尻尾を揺らした。
その仕草が、まるで“そうだよ”と頷いているように見えた。
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