第10話:この場所を借りてみる
その日も、店には誰も来なかった。
昼を過ぎても静かなままで、雨も止んでいたのに、通りを歩く人影はほとんど見えなかった。
けれど、僕はそれを気にしていなかった。むしろ、この空っぽの時間を楽しむようになっていた。
カウンターに座りながら、昨日の帳簿をまた読み返す。名前と珈琲、そして誰かのつぶやきのような一文。
そこには、ひとりひとりの時間が、静かに確かに残っていた。
そのあと、棚の整理をしていたときのことだった。
引き戸の下から、小さな紙袋が出てきた。中には、数枚のポストカードと名刺サイズの手書きメモが入っていた。
《この場所を開けてくれる人がいるなら、どうぞ。自由に、ただし大切に。》
丸くやさしい文字。たぶん、帳簿と同じ筆跡だ。
文面には特に指名も連絡先もなく、ただ“どうぞ”とだけ添えられていた。
「……これは、置いていったんだな」
僕はつぶやいた。残したのでも、放り出したのでもなく、“置いていった”。
店も、珈琲の道具も、猫も、名前のないこの空間も――全部が、誰かの意思でここに残されていた。
それを、偶然拾った僕が、今こうして引き継いでいる。
そのとき、ドアの鈴が鳴った。
振り返ると、昨日の八百屋の女将さんが立っていた。白髪をひとつに束ね、エコバッグを肩にかけている。
「あら、やっぱり開けてたのね。やってるのかやってないのか、看板もないし、ようわからんかったわ」
「すみません、看板がなくて……」
「ま、わたしは猫の顔見りゃ分かるけどね」
彼女はそう言って笑った。なぎはカウンターの上であくびをしている。
「せっかくだから、一杯淹れましょうか」
「お願い。今日みたいな日は、苦めがいいわ」
そうして淹れた珈琲を渡すと、女将さんはカウンターの隅に座り、静かに飲みはじめた。
一口、二口、そしてカップを置いて、こう言った。
「……あの人の珈琲とは、味は違うけど。なんかね、悪くないわよ」
「ありがとうございます」
「それと、できれば――これからも、たまに開けといてちょうだい。通るたびに、あの匂いがすると、安心するのよ」
僕は一瞬、返事に迷った。けれど、自然と頷いていた。
「はい。……もう少し、ここにいようと思っています」
言葉にしたことで、心のどこかにあった迷いがすっと溶けていくのを感じた。
この町に住むわけじゃない。誰かの代わりになるわけでもない。ただ、自分の足でこの場所に立つことを、ようやく選べた気がした。
その日の夕方、僕は一枚の紙にマジックで大きくこう書いて、店のドアに貼った。
《ただいま開店中(仮)》
“仮”という文字を残しておいたのは、少しだけ逃げ道を残しておきたかったから。
でも、書き終えたとき、思っていたよりも気持ちは軽かった。
なぎがいつもの椅子に飛び乗り、窓辺に体を丸める。
その姿を見ながら、僕は店内をぐるりと見渡した。小さなテーブル、少し欠けたカップ、帳簿の残り香。
ここは、僕の場所になりつつある。そんな気がしていた。
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