第9話:猫と、午後の雨

 午後になって、空がゆっくりと灰色に変わってきた。

 風が止まり、港のほうからしっとりと湿った空気が流れてくる。遠くで雷が鳴ったような気がしたが、それが本当に雷だったのか、ただの錯覚だったのかはわからない。


 喫茶店の中は、いつも通りの静けさだった。

 猫のなぎはカウンターの上に座り、窓の外をぼんやりと見ている。僕も、それに倣うようにして、窓際の席に腰を下ろした。


 雨の匂いが、ほんのかすかに店内にまで届いてきた。

 誰もいない。音もない。ただ、世界がゆっくりと滲んでいくような時間だった。


 何かしなければ、とか、時間を有効に使わなければ、とか。

 そういう考えは、この町に来てから少しずつ剥がれ落ちてきた気がする。店を開けているとはいえ、客が来ない時間のほうが圧倒的に多い。それを寂しいとは、不思議と思わなかった。


 キッチンの方に戻り、今日二杯目の珈琲を淹れる。

 選んだ豆はキリマンジャロ。少し酸味が強くて、雨の日にはよく合う気がする。ドリップポットから細く湯を注ぐと、蒸らされた粉がふわりと膨らみ、立ち上る香りが空間を包んだ。


 淹れ終えた珈琲をカウンターに置き、再び窓辺に戻る。

 ガラス越しに、雨粒がぽつ、ぽつと打ちつけられる。やがてそれが数を増し、細かな水の線となって風景を滲ませていく。


 猫のなぎは、僕の隣の椅子に移動していた。

 丸くなって目を閉じている。すっかり、この席は自分のものだと言わんばかりの振る舞いだった。


「雨、嫌いじゃないんだな」


 なぎは返事をするように、尻尾を一度だけ動かした。


 こんなふうに、ただ座って、ただ雨を見ているだけの時間なんて、東京では思いもよらなかった。

 どこかへ向かう途中、何かの合間、次の予定までの“つなぎ”として過ごす時間ばかりだった。そんな空白を、わざわざ味わうなんてこと、いつからできなくなっていたんだろう。


 誰も来ない。誰も喋らない。

 でも、それでもここには“何か”があった。


 雨音と珈琲の湯気と、猫の体温。

 それだけで、心は少しずつほぐれていく。


 カップの底を覗くと、わずかに残った珈琲が淡く揺れていた。

 その揺れが、まるで波のようで、見ているだけで目がすうっと軽くなる。


 遠くで、また雷が鳴った。

 けれど、この店にいる限り、外の世界はどこか他人事のようだった。


 ふと、さっき淹れた珈琲の香りに混じって、微かに花のような匂いがした気がした。きっと、誰かが朝に持ち込んだ花が、まだどこかに生きているのだろう。

 それとも、こういうときにしか嗅ぎ取れない、雨の匂いの奥にある“町の記憶”なのかもしれない。


 なぎが小さく伸びをして、あくびをした。

 僕は笑って、カップを持ち上げる。


「……悪くないな、こういうのも」


 自分に向けたつぶやき。なぎはもう夢の中にいるようで、何も答えなかった。


 雨はまだ降り続いていた。

 けれど、それがずっと続いても、今日はきっとかまわなかった。

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