中屋敷の一幕
紀州徳川家の所有する赤坂御用地にある中屋敷は、いわゆる徳田様こと徳川光貞が江戸で住む屋敷である。
大名のもつ屋敷は上屋敷、中屋敷、下屋敷と三種類の屋敷があるが、その中でも大名自身が生活する屋敷を上屋敷、家臣以下が生活するのが中屋敷、下屋敷は江戸城から最も離れた場所で別宅兼倉庫のような扱いをしていた。
はい、ならば何故赤坂中屋敷で徳田様が生活してんねんと大多数が思うだろうが、これには理由がある。紀州徳川家の上屋敷は狭いのだ。
紀州徳川家は一六五七年の明暦の大火で竹原にあった上屋敷が全焼。代替として麹町に邸地を拝領した。そこで建てられたのが麹町上屋敷だ。
この麹町上屋敷がとにかく狭い。どれぐらい狭いかというと、赤坂中屋敷と同じ大きさなのである。故に、徳田様は麴町上屋敷と赤坂中屋敷を交互に使って生活している。上屋敷は一軒しか持てない幕府のルールだからな。
そんな赤坂中屋敷に俺は御邪魔している。今は麴町上屋敷を藩主邸にしているらしいので、身分の低い俺はこちらに来るように事前に教えてもらっていた。
一五〇〇〇坪の赤坂中屋敷にある表長屋へと小者に案内され、俺は長旅の休息を取ることにした。つもりだった。
そう、つもりだった。
噂を聞きつけた巌窟王のファンである藩士たちが訪ねてくること訪ねてくること。一日がかりで彼らの相手をしてしまったわ。ぶっちゃけチャリ漕いでた時よりもきつい。
奉公人の小者が用意してくれた飯も美味しくなかったし、もう既に俺は紀州に帰りたくなっている。
そんな夜に俺の休んでいる部屋にやってきたのが徳田様の使いの者である。年齢は三〇過ぎぐらいだろうか。刀を佩いているので武士なのだろうが、横柄な者が多い武士の中で物腰が柔らかい珍しいタイプだ。
「主より、明朝上屋敷に出向くようにと言付かっております」
「あいわかった。時刻はいかほどに?」
「日のあるうちならばいつでもよろしいとのことです」
たったそれだけの伝言で来てもらってそのまま返すのもしのびないので、俺はガスコンロでコッヘルに湯を沸かし、ティーパックの紅茶を淹れてクッキーと一緒に使いの御仁へ出す。
ガスコンロが着火したときにボッと鳴った音にビビって「め、面妖な」と引きつった声を発したことは忘れないぞ。
「紅茶とクッキーです。冷めないうちにどうぞ」
「紅茶? 茶の一種かね」
「葉の種類は一緒ですが煎茶とは少し違う作りのものです。ささ、どうぞ」
俺の勧めに観念したのか、部屋にあった湯呑に注がれた紅茶を使いの武士は恐る恐る口にする。
「むっ」
「どうです? スッとするでしょう」
「柑橘のような味で爽やかな風味ですな」
アールグレイだからな。徳田様には諸々の面倒ごとを押し付けてくれたお礼としてウヴァを飲ませようと思っています。
……あの匂いのする湿布がないから効果は薄いか?
そんな下らないことを考えていると、彼は遠慮なくクッキーを齧った。一口クッキーなので丸々口に含み、ボリボリと音を立てて噛み砕いていく彼の顔が徐々に笑っていく。
「これは美味い。これも久延殿がお売りになるので?」
「ん? 私が商人だとご存じで」
一応、巌窟王の作者として呼ばれたはずなんだが。
「おかしなことをおっしゃる。江戸で流行っている紀州飯はそのほとんどが久延殿の発案だと聞いておりますよ。
故に藩士たちも久延殿を下に見ずに会話されていたでしょう?」
「確かに……」
正直さっさと帰ってくんねぇかなとしか思ってなかったから覚えてないけど。
それと到着したその日に訪ねてくるんだから自然と下に見てんのは否めないぜ。
「本来ならば早く早くと、かの御仁が久延殿と会いたいとせっついておりましたがな。ちと状況がよくありません」
「ほう、如何様で?」
「……御簾中の容態が芳しくないようですぞ。噂程度しか我々に回ってきませんがな」
御簾中……上様の正室か。将軍である徳川家綱の正室は高巌院。徳田様の正室である天真院の妹だったはず。死因は確か、乳がん……。
「もう、癒えぬのですか」
「手の施しようがないと御典医が零しておったそうで。
子もなく、御簾中まで御隠れになられるかもしれないとなり、幕内にも不安が蔓延しております」
「側室はいらっしゃらないので?」
「養春院は既に御隠れに。側室はお満の方のみとなっております。奥でのほほんと暮らしておるもの共は何をしているやら」
笑顔で毒づく彼に苦笑し、俺は紅茶をもう一杯淹れた。
それにしても、湯浅様からの連絡で多少の医療行為ができると徳田様に知られているだろうが、もし彼女のガンを治せと言われても無理だぞ……
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