第5話 カイトの想い

 濃霧の中をどれくらい歩き続けただろうか。時間感覚はとうに麻痺し、ただ、生きねばという一心だけで足を動かしていた。空腹が胃を締め付け、霧を含んだ冷たい空気が体温を容赦なく奪っていく。時折、霧の奥から聞こえる獣の唸り声や、ガサリと草木が揺れる音に、心臓が跳ね上がった。武器も持たない今のカイトにとって、魔物との遭遇は即、死を意味する。

 だめだ、もう、限界かもしれない……。

 疲労は極限に達し、足は鉛のように重い。ついに、ぬかるんだ地面に膝をつき、そのまま倒れ込んでしまった。冷たい泥が薄い服を通して肌に染み込み、不快感と寒さが意識を遠のかせる。もはや指一本動かす気力も湧いてこない。このまま、ここで朽ち果てるのだろうか。ゲオルグの嘲笑う顔が脳裏をよぎり、無力感と悔しさが込み上げてくる。

 クソ、こんなところで……。

 朦朧とする意識の中、カイトはふと、自分自身の内側、スキルとして存在する〈収納〉空間に意識を向けた。ゲオルグたちに物資を根こそぎ奪われたはずのその空間。空っぽのはずの、ただの空虚な広がり。だが、なぜだろう。何か、ほんの僅かな、しかし確かな存在感が残っている気がした。

 まさか、何か残っているのか?

 最後の力を振り絞り、カイトは〈収納〉空間を探る。騎士団の物資は確かに全て消えている。ゲオルグに渡されたあの忌まわしい金貨も、もうない。しかし、空間の隅、普段は意識すらしないような場所に、ぽつんと、何か小さなものが存在しているのを感じ取った。それは、騎士団に入るよりもずっと前、まだ孤児院にいた頃に拾った、何の変哲もない古い木の実だった。硬く、乾燥しきっていて、とうの昔に捨てるつもりで〈収納〉に入れっぱなしにしていたものだ。なぜ今さらこんなものが。それに、もう一つ。遠征前に訓練場で配られた、少し傷んでパサパサになったパンの欠片。これも、後で処分しようと思って無意識に〈収納〉に入れていたものだ。

 ゴミ同然のもの。こんなものがあったところで、今の状況が好転するはずもない。それでも、完全に空っぽではなかったという事実が、ほんの少しだけカイトの心を揺さぶった。何かの間違いかもしれない。あるいは、ただの記憶違いか。確かめる気力もなかったが、そのまま意識を手放すよりはましだと思った。

 出してみるか……。

 カイトは僅かに残った力でスキルを発動し、意識の中でその木の実とパンの欠片に触れる。目の前の泥濘んだ地面の上に、それらを『取り出した』。

 軽い音を立てて落ちたそれらを見て、カイトは目を疑った。

 まず、木の実。カイトの記憶にある、硬く乾燥しきった茶色の塊ではなかった。瑞々しい緑色を帯び、表面には艶があり、先端からは小さな、力強い芽が顔を覗かせていた。まるで今まさに発芽するかのようだ。

 そして、パンの欠片。パサパサで、一部はカビが生えかかっていたはずのそれは、ふっくらと柔らかそうで、焼きたてのような香ばしい匂いすら漂わせていた。傷んでいた痕跡はどこにも見当たらない。

 なんだ、これは……?

 理解が追い付かなかった。疲労と空腹が見せる幻覚だろうか。いや、違う。目の前にある木の実とパンは、あまりにもリアルな存在感を放っている。カイトは震える手で、そのパンの欠片を拾い上げた。指先に伝わる、信じられないほどの柔らかさ。恐る恐る口に運んでみると、小麦の優しい甘さが口の中に広がった。間違いなく、これは新鮮で美味しいパンだ。

 でも、どうして。〈収納〉に入れていただけのはずなのに。

 カイトは混乱しながらも、思考を巡らせた。スキルは〈収納〉。ただ物を仕舞うだけの能力。そう教えられ、そう信じてきた。だが、今、目の前で起こった現象は、その常識を覆している。まるで、時間が巻き戻ったか、あるいは、最適な状態に進んだかのように古い木の実が発芽し、傷んだパンが新鮮になった。


 少し考えて思った。

 時間? まさか、俺の〈収納〉スキルは、ただ物を仕舞うだけじゃなくて、中の物の時間を……?

 その考えに至った瞬間、カイトの全身に電撃のような衝撃が突き抜けた。もし、そうだとしたら? もし自分のスキルが、収納したアイテムの時間を操作できるとしたら? それは、単なる『収納』などではない。使い方によっては、とてつもない可能性を秘めた能力なのではないか……。


 そうだ、試してみよう。あの木の実を、もっと時間を進めたらどうなる。

 カイトは再び芽吹いた木の実を手に取り、〈収納〉スキルで再び仕舞い込んだ。そして、強く念じる。「育て」「実れ」と。具体的な時間の指定方法など分からない。今はただ、イメージするしかなかった。数秒後、再び木の実を取り出してみた。

 すると、カイトの手のひらの上に現れたのは、もはや木の実ではなかった。それは手のひらサイズの小さな苗木に成長し、その枝には、熟した赤い果実が一つ、実っていた。

 「……すごい」

 思わず、声が漏れた。これは幻覚ではない。自分のスキルは、本当に物の時間を操れるのかもしれない。いうなれば、〈収納・熟成〉。あるいは、そんな名前がふさわしいのかもしれない。今まで『ハズレスキル』だと、自分自身ですら思い込んでいたこの力が、実はとんでもないチート能力だった可能性。

 その事実は、絶望の淵にいたカイトに、一筋の光を差し込んだ。この能力があれば、生き残れるかもしれない。例えば、森で手に入れた食べられないような草や木の実も、『熟成』させれば栄養価の高い食料に変えられるかもしれない。傷薬の材料になる薬草も、効果を高められるかも……。


 そして、カイトの脳裏に一つの地名が浮かんだ。辺境都市「フロンティア」。王国から追放された者や、訳ありの者たちが流れ着く、自由と実力主義の街だと聞いたことがある。今のカイトにとって、王国に戻る道は閉ざされた。ならば、行くべき場所はそこしかない。この新しい力と共に、辺境で再起を図る。

 カイトは、熟した赤い果実を口に含んだ。甘酸っぱい果汁が喉を潤し、空腹の体に染み渡っていく。生きる希望の味。

 まだ体は弱り切っている。この危険な森を抜け出すのは容易ではないだろう。だが、カイトの目には、先ほどまでの絶望の色は消えていた。代わりに宿るのは、困難に立ち向かう決意と、未知の力への期待だった。

 カイトは、ゆっくりと、しかし力強く立ち上がった。顔を上げ、霧の切れ間から微かに見える空を見据える。

「絶対に、生き延びてやる。そして、新しい場所で、俺の力で……」







【第一章 完 / 二章へ続く】

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