第2話 絵本がこわい
その絵本は、通っていた保育園でも人気があった。だから、先生は何度も私たちに読み聞かせをしてくれた。
『宝石をたべたクロネコさん』というシリーズは、宝石を食べた特別なクロネコさんと、宝石を食べていない普通のシロネコさんが主人公のお話だ。お料理をしたり、ピクニックをしたりと平和なお話の時もあれば、ちょっと危ない冒険をする時もある。
そして毎巻出てくるシーンが、クロネコさんが宝石を食べる場面なんだけど。
同い年のみんなが、宝石を食べる擬音を先生と一緒に繰り返す中で、私は一人だけいつも青ざめて固まっていた。
私は先生に訴えたことがある、クロネコさんが宝石を食べる絵が、とても怖い、と。
けど先生は、不思議そうな顔をしてこう言っただけだった。
「そう? 先生はクロネコさん、可愛いと思うけどな」
あの絵本は、やや写実的なネコや動物たちの絵が特徴だ。その中で主人公のクロネコさんだけは、毛並みがわからないほどに真っ黒に塗りたくられている。瞳も同じように黒くて、申し訳程度の白目が印象的に浮かんでいる。
それが――宝石を食べる時だけ、クロネコさんは白目を金色に光らせる。顔の半分を真っ赤な口にして。普段は見えないヒゲを針のように尖らせて。
たぶんあの場面はコミカルなものなんだろうと、大学生になってから脳裏に思い返して感じたことがあった。作者は決して、子供たちを怖がらせるためにクロネコさんを描いているわけではない。それは、頭で理解できた瞬間があったんだけど。
けど小さい時に感じた本能的な恐怖は、そう簡単に消せるものではなかった。
「どうしたの、花澄ちゃん?」
先生の声が上から降ってきた。見上げると、金色の双眸が私に話しかけている。
「せ、先生……?」
戸惑いながら後ずさると、先生はさらに笑みを深めて近づいてきた。口元に、どんどん猫のヒゲが生えてきている。
「怖くないよ。ほら、こっちにおいで?」
私は逃げ出した。誰もいない保育園の廊下を進み、静まり返ったお遊戯室に転がり込む。
そこに、見たことない男の子が立っていた。
その男の子の瞳は漆黒で、でも白目が金色に輝いている。
彼の右目から、涙のような血のような、粘性のあるものが流れ出る。
口を開いた彼は、こう言った。
「―――――」
◇
二十も半ばを過ぎたいい大人が、過去のささいなトラウマに基づいた悪夢を見て、そのせいで近所の図書館にしばらく行けなくなった――なんて、どんな笑い話だろう。
二週間ぶりのそこは、いつものように構えていて、いつものように私を出迎えてくれた。
普段は全然確認しない掲示板に、大きく『お知らせ』と描かれた張り紙があるのが目に入った。
――――
お知らせ
ここ最近、本館の図書資料が意図的に破損される件が相次いでいます。
利用者の皆様におかれましては、不審者を発見した場合、ただちに近くにいる職員へ連絡くださるようお願いいたします。
図書館と図書館の資料は市民の皆様の公共財産です。
発見次第、厳正なる処置をとらせていただきます。
○月×日 △△市立図書館 館長
――――
しばらくそこでぼんやりしていた私は、勉強しに来たという目的を突然思い出し、慌てて足を動かしたら。
「物騒ですよね」
後ろから低い声がして、反射的に振り返ってしまった。
大学生くらいの男の子だった。黒縁の眼鏡をかけていて、髪質のせいなのか、短髪なのに毛先があちこち自由に跳ねている。
私はさっと視線を巡らせた。近くに人はいない。どうやら、男の子は私に話しかけたらしい。無言で、こちらの反応を待っている。
妙な圧力を感じた私は、「そうですね」と小さく言ってしまった。それから逃げるように自習室へ行ったけれど、男の子も後追いする子猫のようについてくる。
視界に入れないようにしながら、テキストを広げて座った。男の子は、私の席の隣に腰かけ、足を組んでこちらを見ている。
文字を目で必死に追いかけていたら、ため息が聞こえた。
「あの、あなたにちょっとだけ話があるんですけど」
私は舌打ちしたくなった。面倒な人には関わりたくない。ナンパならまだしも、妙な宗教の勧誘とかだったらどうしよう、と、飛躍していく妄想を抑え、突き放すように言う。
「ここは図書館です。あんまり話はしないほうがいいかと」
「たぶん大丈夫です。ここは自習室だし、幸いにも俺とあなた二人だけなので」
改めて周囲を確認すると、確かに誰の姿もない。いざという時、出入り口へ逃げれる体勢だけは整えておこう。
男の子は私の警戒心に気づいてるだろうに、淡々と話し始めた。
「余計なお世話かもしれませんが、しばらく身の回りに気をつけたほうがいいと思います。この図書館に足を踏み入れないなら話は別ですが、たぶんあなたの様子だと、これからも時々ここに来るでしょうから」
無職であることを揶揄しているわけではないと思うのに、被害者感情のような怒りが突然、水たまりのように心にわき出る。
「本当に余計なお世話。それだけ言いたいなら、もういいですか?」
「そうですね、あとは……」
思い余って私が軽く睨んでしまうと、男の子は困ったように唇に笑みを浮かべた。
「俺の名前は、
椅子を元の状態に戻した彼は、ふいにぐっと体をかがめ、顔を近づけてきて。
悲鳴を上げかけると同時に、ずいぶんと整った顔の子だな、という感想が頭をかすめる。
「気をつけてくださいね、お姉さん――この図書館の本も、最近誰かが傷つけてるみたいですから。巻き込まれないように」
自習室のドアが、ゆっくりしまる音が響いた。
私はノートを開いたまま、しばらく手を動かす気になれなかった。
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