あの図書館にクロネコさんはいる
永杜光理
第1話 無職の日々
普通の社会人なら今頃仕事をしているだろう時間帯に、私はのんびりと車を走らせていた。仕事を辞めてもう半年。何とか自力で生活を回す気力が戻ってきて、三ヶ月。無職ゆえのお気楽さと焦りのマリアージュを毎日骨の髄まで味わう私は、いつしか図書館へ時々通うようになった。
といっても、本や雑誌を借りたり読んだりするわけじゃない。取得しようと思った資格の勉強を、独り暮らしのアパートでやり続けるのは気が滅入るからだ。
こんなことしている間にも、じりじり目減りしていく残高を増やすために労働するべきなんだろうけども、糸が切れたマリオネットみたいになった私は、社会という大海原へ泳ぎにいくのを躊躇しているのだった。
自動ドアをくぐり、高く吹き抜けたエントランスを歩く。柔らかな陽光は高くにあつらえた明かりとりの窓を貫いてコンクリートの床を温かく照らし、そこを走る子供たちが影絵のようだ。
複数のお母さんの「走っちゃダメ」「静かにしなさい」という言葉を背中で受けながら、数年前に新築された図書館の要所へと足を踏み入れた。
一番最初に来たときは、まさに圧倒された。外観の壁も、白地に黒の水玉模様とちょっと個性的なんだけど、中はすり鉢状の劇場に似たつくりになっていて、本棚が半円を描き設置されている。人類が築き上げた知識の集積の螺旋、をイメージしているらしい。私は新聞を購読していないからわからないけど、未だに開館当時の切り抜き記事が壁にたくさん貼ってあるので、相当な話題になったのだろう。
事実、ここの図書館はカレンダー上の休日になると、テーマパークか、と突っ込みたくなるくらいに人が押し寄せるのだ。曜日感覚の失せた無職の私は、その人口密度に辟易してアパートへ退散したことが一度あった。
今日は平日なので、そこまで人が多いわけではない。何十冊もの本を棚へ黙々と戻しているスタッフさんへ、心の中でお疲れ様と言いつつ、自習室へ到着した。
お気に入りの、窓に面した端の席。見下ろした先には図書館の敷地の芝生と、規則正しく並ぶ建物と、遠くには標高の低い山脈が幽霊のように頭を出している。
資格のテキストとノートを広げ、息を吐いてペンをとる。人気の少ない部屋に、自分のペンが走る音だけが響くのは、ちょっと心地いい。
どれくらい時間が経ったかわからないけど、顔をあげて首を回す。ついでに上半身をひねってストレッチすると、いつの間にいたのか、数人が使える大きな机で、学生っぽい女の子が一人座っていた。熱心に鉛筆を走らせている音から、この子は絵を描いているのかな、と何となく思った。
一度鉛筆を置いたその子が、閉じてあった絵本の表紙をめくった。開いたページをじっくり見つめ、また鉛筆を手に取って続きを描き始める。
私は体をひねって、正面を向いた。視線が自然と下に行く。手のひらに汗をかいているのが、両膝を通して伝わってきた。
不意に目に飛び込んできた些細な情報は、しばらく私を凍りつかせるほどの威力を持っていた。
◇
「たまには料理できるようになったんだね?」
台所のシンクに置いたスマホから響く声に、私は夕食を準備しつつ答えた。残り物のコンソメスープをコンロにかけ、冷凍食品のブロッコリーを解凍する。同じく冷凍の白米は、具無しチャーハンにしちゃおうかな。
「うん、おかげさまで何とか」
「あー、よかったよぉ。一回私がそっちに行った方がいいのかな、とか心配しちゃったけど、でも花澄が元気になってくれてとにかくよかった」
電話の向こうから心底ホッとした声が聞こえてきて、無性に可笑しくなってしまった。
真理子は高校の時から続いている友達で、私が県外の大学に行ってからも時々連絡を取っていた。でも私が人間関係やパワハラ上司に悩んで会社を退職した後、全ての社会的生活を送ることを放棄していた時期は、ろくに電話することも出来なかったのだ。
ある時見かねたお母さんが、引きずるように医者に連れていってくれたおかげで、泥のように過ごす期間は短くて済んだ。早めに仕事を辞めて、早めに医者にかかったのが良い判断でしたね、と精神科のお医者さんは褒めてくれた。今でも念のため、頓服薬は持ち歩いているけれど。
「この間とは別人みたいだよね。今は何の資格の勉強してるんだっけ?」
「役に立つかわからないけど、ファイナンシャルプランナーの三級と漢字検定の準一級。コスパとか何も考えないで、やろうかなって思ったことを勉強してるだけなんだけど」
へー、と真理子は感心してるのか呆れてるのか、わからない相槌を返した。
「再就職先で活きるかどうかは置いといて、行動出来てるってだけでいいじゃん。無理しないで頑張ってね」
「うん、ありがと……あのね」
「何?」
「真理子って、絵本好きだっけ?」
向こうで、瞬きする間があった。
「絵本? 小説じゃなくて? 有名な海外の絵本作家の作品なら、実家に大量にあるけど。それがどうかした?」
「……ううん、何でもない。ご飯冷めちゃうし、今日はこの辺でいいかな?」
「わかった。じゃあ、またね」
通話が切れた後の、得も言われぬ寂しさが夜の部屋に漂う。私はチャーハンをさっさと作り、変わり映えのない味付けされた栄養たちを口の中へと放り込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます