第10話 “畜群の強襲《ヘルデ・スタンピード》”
二日ぶりに登校した。
下駄箱から嫌な予感はしていた。
教室へ入ると、クラスメイトたちの視線が一斉に振り向いた。
腹の底が沈み込むようだった。
扉の前で立ち止まる。
「今日は来たのか」
背後で声がした。
担任の
「指揮者、おまえに決まったぞ」
わざとらしく元気を演じたような声がチユに語りかけた。
黒い真ん丸な、あの虫の目がこちらをじっと見ている。
「入るのか、入らんのかはっきりしろ」
抑揚のない声が言った。
指揮者に決まった──。
それ以外の説明はなかった。
「どうした、席わすれたか?」
嫌な同級生たちのように、なじるわけでもなく、ただ乾いている。
いつもそうだ。
廃れた商店街にすら、人のぬくもりの痕跡を感じるものだが、この教員には温度を感じたことがない。
温かいも冷たいもない。
ぬくもりを持って接するかどうかは、教員側が選んでいる。
選んで贔屓している。
その
チユの座席は、前の扉から一番近い席の後ろだった。
教室の右端、一番前から二つ目だ。
クラスの生徒たちと目が合った。
何人と合ったのかは数えていない。
目が合うとそらしたり、虫みたいな虚無の黒眼でじっと見つめ返してくる。
指揮者を決めることは、事前に知らされていた。
それはチユもわかっていた。休んだ自分が悪いのだ。
ただし、この教室の生徒数は二九人。確率は29分の1。
本当に、指揮者はくじで選ばれたのだろうか。
休んでいたからばれないと思って、くじ引きもせずに、誰かが提案して押し付けたんじゃないだろうか。
チユはふと、そう思った。
そうに違いない。グルだ、こいつら。
わたしに押し付けやがった……。
教員も生徒も、全員グルだ。
「指揮者」
「今日、放課後残れよ。指揮の練習するから」
気力が奪われれる。
「今日、用事が……」
「すぐ終わる」
クラスメイトが何人か、にやついている。
気持ち悪いやつらだ。
わたしを
放課後、副担任の音楽教員と教室で、チユは指揮の練習をさせられた。
チャイムはすでに鳴り終わっている。
言われて指揮の練習をするチユの姿を、鞄を背負いながら帰り際のクラスメイトたちが見ている。
口元がにやけている。
「なんか、振りかた変くない?」
いろいろな声が聞こえた。
やりたくないという気持ちが現れているチユの表情を、観察しながらひそひそ感想を述べあっている。
無関心な者の顔。
無言であろうと、声は同じように聞こえた。
口から音を発しているかどうかは、チユには関係なかった。表情も音を発する。
でもそれらはいつしか虫の羽音になり、一つの塊として聞こえた。
下足箱へ帰っていく虫たちのせせら笑いが、廊下で遠ざかってゆく。
〇
それから一カ月が過ぎた。
コンサートホールで行われるような大規模な行事ではない。
他校と競い合うわけでもない。
合唱コンクールは、
保護者に見せるためのものでしかない。
体育館のアリーナで全校生徒たちが体育座りしている。
後ろに用意された長椅子には、保護者など参列者のすがたがあった。
教員は壁際に立っている。
長椅子などは、前日に生徒と教員によって準備された。
チユのクラス──三年五組の出番は、三年生の番がはじまってからすぐのことだった。
前の出番のクラスが捌け、三年五組──二九人の生徒たちがステージへ移動してゆく。
前列と後列に分かれ、ステージ中央に生徒たちは並んだ。
長椅子で高低差がつけられている。
卒業写真のようだ。
ステージ左端のピアノに、女子生徒が着いた。
チユがステージ中央の一番前に立つ。ひとり、アリーナへ振り返りお辞儀をした。
やらされているだけだ。
やる気などない。
アリーナの生徒や教員や、参列者が静まり返っている様を含め、体育館全体の雰囲気が妙に仰々しい。それが馬鹿馬鹿しくて、ほくそ笑みがこぼれそうになる。
このまま我慢せず心の底から馬鹿にして笑えれば、どんなに気持ちがいいだろうか。
内心は、惰性を通り越した無であった。
アリーナの全校生徒や、教員、保護者、参列者の顔など見えていない。
自分がいまどこにいるかもわからないような、そんな感覚だった。
祖母が亡くなった日のことをチユは思い出していた。
葬式を経たそのあとの数日間の、地に足がついていないような浮足だった感覚に近い。
現実でないようなあの感覚だ。
クラスメイトの方へ体を向けた。
ピアノ担当の女子生徒と目を合わせる。
指揮者の真似事をするみたいに、チユは腕をさっと上げた。
ピアノ担当が鍵盤に両手を置いた。
ステージ上のクラスメイトが、チユの姿を見てにやにやした。
しんと静まり返った形だけの体育館に、へらへらとした笑い声がかすかに響く。
そのにやつきを、へらへらを、下級生から上級生、参列者にいたるまでが目撃しているかと思うと、チユは凌辱されている気分になった。
これじゃあ、晒しものだ。
心が死んでゆく気がした。心の底の暗闇に、自分の、人間本来の大事な反応や感情が落ちてゆく。
アリーナのわからぬ生徒たちは、そのへらへらに疑問をうかべた。
チユが蓋魔だと知っている同級生たちなどは、そのへらへらに釣られ、にやにやした。
その嗤いの意味を、反応で理解した。
ああ、これは嗤ってもいい嗤いだ。この空間ではそれが認められているんだ。なぜならあいつは蓋魔だから、と瞬時に理解した。
よってアリーナから嗤い声がした。
チユが腕を振る。
ピアノが旋律を奏でだす。
指揮の真似事が始まった。
わたしなんていなくても、ピアノは勝手にはじめられる。
それに合わせ、彼らは歌い出せる。
わたしはいらない。
指揮は見せかけ、雰囲気、むかしからそうしてきたから、そんなところだ。
飾り以下の、機能しない何かだ。
それが蓋魔である自分の実状と重なってゆく気がした。
生徒たちが歌い出す。
歌に嘲笑が混ざる。
1人のピアニストと、27人の合唱隊。一人の蓋魔。
それが理解できている者には、この光景は、さぞ滑稽に見えることだろう。
朝から夕方にかけて市民プールで遊泳したあとのように、チユは衰弱していった。
体に力が入らなくなってゆく。
なぜ立てているのかもわからない。
歌と嗤い、ピアノと嗤いが、体育館に響く。前と後ろから挟みこまれる。
ピアノを弾きながら、女子生徒も笑っていた。
にやにや、くすくす、へらへら……。
後頭部を強く、金属バットか何かで殴りつけられたような感覚だ。
気が遠のくような気がした。
耳鳴りがする。
頭の中が真っ白になる。
景色がぐるぐる回っている。
吐きそうだ。
そう思うころには、チユは吐いていた。
ゲロではない、青白く光るものを吐いていた。
整列する27名のクラスメイトたちへ、それは見事に、まっすぐに照射された。
最初、後列の一部の生徒たちの頭を焼き切った。
チユが首を動かすと青白いゲロも動く。
右から左上へ動いたゲロは、生徒たちの頭を斜めに、中途半端に焼き切った。左へ行くほど狙いが中途半端になり、逃れた生徒もいた。
沸騰した鍋からあぶくが零れるように、血と脳汁が生徒の顔面に垂れる。
何事かと隣を見た女子生徒は、一拍二拍の間をもって、過呼吸のような声のあと伸びのある悲鳴を上げた。
半端に頭のえぐれた生徒などは、自分に何が起きたのかわかっていない。鏡も使わず自分の顔を覗き見ようと黒目を額へ向けた。そのあと片目が明後日の方向へ散り、理解してか知らずか、冷や汗をかいていた。
初手から同時に焼き切っていた後ろの壁を、チユはさらに焼き切ってゆく。そこから出火した。
さらに首を動かし、今度は前列の生徒をまた半端に焼き切った。
チユの瞳が、わずかに赤く潤いはじめる。心拍数が上がってゆく。
状況を徐々に理解しはじめていた。
ダメだ、おわった……。
なにやってるの、わたし。なんでこんなことに。
ピアノを担当していた女子生徒が、間違って鍵盤を鳴らした。音に反応してチユは振り向いた。そのままゲロが、ピアノごと女子生徒の身体を斜めから真っ二つに切断した。
ピアノ線がしなって飛び散り、一部ゲロの被害をまぬがれていたクラスメイトの顔面へ叩きつけた。
痛みに顔を抑え、叫び声を上げながらうずくまっている。
ヒステリーを起こし、八つ当たりで叫んでいるようにも見える。
ビブラートのある山羊の奇声が聞こえた。
チユはアリーナへ振り返った。ゲロも動く。
アリーナの前列で体育座りしている生徒、長椅子の保護者たち、参列者へ青白く光るゲロが横切る。横切る過程で、体育館の壁や床も焼き切った。
泣き叫ぶ生徒、避難を促しはじめる教員、長椅子の前で立ち上がるだけの保護者。それらを火の手が囲み始める中、一部の生徒が人間のものではない奇声を上げた。
女子生徒だった。
さっきの声は、山羊の声はあれか、とチユは見た。
生徒の身体がみるみる肥大し、頭を白い毛が覆い始める。二本のねじれた角が生える。両目が外側へ離れてゆく。
女子生徒は、山羊頭の怪物へと変身した。
それに釣られるように、続々と変身してゆくすがたが見えた。
山羊だけではない。牛、豚、ニワトリ、馬、羊など、生徒、保護者、教員、参列者といった、一部のものたちがヘルデへ変身してゆく。
ゲロが細く、収束してゆく。
途切れた。
チユはゲロを吐き終えた。
体育館を見渡した。
足をつかまれた感触があった。
ふり向いて下を見ると、クラスメイトの女子が自分の足をつかんでいた。
「助けて」
涙声が言った。
いつもシブミや他の生徒と一緒になって、蓋魔だなんだと余計なことを言ってくる嫌いな奴だった。
チユの目が据わる。
その場にしゃがんだ。
「あみだくじ、やった?」
チユは訊いた。
クラスメイトの表情が揺れはじめる。
怯えはじめる。
苦笑いへと変わった。
「あ、ああ、あんたが悪いんでしょ。ずるして、休むから」
「だよね」
チユはぼそっと言った。
その説明だけで十分に理解できた。
くじはなかったのだ。
すべて仕組まれていた。
「なかったんだよね、あみだくじなんて、最初から」
「ああ、あ、あったわよ」
「嘘つき」
チユはにやりと微笑みかけ、手を足で払いのけてステージを下りた。
「待っ!」
背後で聞こえた気のした悲鳴が、ドラのような鈍い音と振動にかき消された。
振り返ると、ステージの床にめり込んだ角材から、ドロソースのような赤黒い液体が広がっていた。角材をつかんでいたニワトリのヘルデが、こちらを見ていた。
血の溜まりと肉片、立ち尽くす生徒、角材に叩き潰される保護者、変身する保護者などの間を抜け、チユは逃げた。
体育館の出入り口で立ち止まり、チユは振りかえった。
泣き出しそうになりながら、引き攣った笑みを浮かべた。
「みんな死んじゃえ……」
チユは走り去った。
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