猫が好きなの?
レイムはノアを家に置いてくれると言った。
けれど魔法使いの弟子にするつもりは、やっぱりないらしい。
毎日レイムの隣で仕事を任されるのを待っていた。けれどレイムはいつまでたってもノアに何も言ってくれない。
何かをしろと言われたのは、初日に手紙を書けと言われただけだった。その手紙だって内容はほとんどレイムが言ったのをそのまま文字にしただけだった。書かないと置いてやらないと言われたから。
しばらく勤め先でお世話になります。終わったら帰ります。心配は要りません。
終わったら帰ると書いたけどノアは帰るつもりなんてなかった。
少なくとも魔法使いになって自分の姿を自由にコントロール出来る術を身につけるまでは人間の社会では生活出来ない。
不思議なことに森の中に住み始めてから、ノアはすこぶる調子がよかった。
獣人とバレやしないかとビクビクしなくてもいいし、突然訪れる発情期で仕事に穴をあける心配もない。
けれどそれは同時に「何もしていない」ことを意味していた。これではいけないと思い家の中をうろうろして仕事を探してみた。けれど仕事は何も見つからない。広い家の中を見て回って、結局レイムが仕事をしている一階に戻ってくるその繰り返しだった。
――今日の家の探検は終わりか?
ソファーのところに帰ってくると毎回レイムに苦笑混じりに言われる。まるで飼い猫とご主人様だ。
これが、この三日の出来事だった。
嘘か本当か時々来るらしい薬屋のお客は、まだ一度も来ていない。だからお客へのお茶出しもなかった。
このままではあと四日後に追い出されてしまう。
「お前……」
「俺の名前、ノア。お前じゃない」
「お前か貴様で十分だろ。あと四日の付き合いだ」
「やっぱり、あと四日したら追い出す気なんだ」
「どうせ、遅かれ早かれ貴様は出ていく」
「そんなことない。レイムさんの弟子にしてくれるまで、ここにいるよ」
「弟子にしてくれるまで、ね」
そう鼻で笑われた。なんだか紫の瞳が少し不機嫌に見えた。
ノアはソファーから立ち上がり、レイムが仕事をしているカウンターの前に立った。たくさん並べられている薬瓶や炉の隙間からレイムと顔を合わせる。
呼び方は気になったけど、三度の食事以外で初めて呼ばれたのが嬉しかった。
「ね、呼んだってことは仕事だよね。何でも言って。手伝うから! じっとしているの、もう飽きたし」
「頭、耳が出てるぞ」
「え、あ……」
ノアは自分の頭の上に手を置いた。三角のふわふわの猫耳がある。
つい油断してしまった。
レイムに呼ばれて飛び上がるくらい嬉しくて、耳と尻尾が勝手に出てしまった。
森に来るまでは人と会うとき細心の注意を払っていた。ちょっとやそっとのことでは感情を揺らさないようにしていた。めったになかったけど、我慢できないくらい嬉しいときは一人になるようにしていた。
人間の姿で頭に耳がある状態は、本当に久しぶりだった。
「その……嬉しくて、つい、耳が出ちゃった」
「獣人は分かりやすいな、別に楽しいことなんて何もないだろう」
「ごめんなさい。耳、す、すぐ戻すから」
ノアは、慌ててそう言って目を閉じる。元の姿に戻るため最近の悲しかったことを一生懸命思い出そうした。魔法が使えたら、もっと自由だと思った。でも今の自分に出来るのは感情を調整することだけだ。
完全な猫になりたかったら、うんと悲しいことを。
元に戻りたかったら、嬉しいことを。獣人に与えられた使い物にならない魔法だと思う。
「やめろ」
起伏のない声がぽつりと頭の上から落ちてきた。
「え?」
ぽんと頭の上に大きな手が置かれた。髪と耳を一緒くたに鷲掴みされる。
「貴様、いま何をしようとしていた」
「何って。魔法使えないなら早く元に戻すには、うんと悲しいこと考えないと」
「悲しいこと?」
一晩中暗い森を彷徨ったこと。学校で誰も友達になってくれなかったこと。
仕事の同僚から気持ち悪いと拒絶されたこと。悲しいことなんて両手両足じゃ足りないくらいにたくさんある。
「でも悲し過ぎたら完全に獣化しちゃうし、そしたら、また少し楽しいこと考えて……まぁ、これが上手く出来たためしなくて、それで――」
「貴様は本当に馬鹿なんだな」
ノアの言葉をレイムが途中で遮った。
「馬鹿ってなんだよ。レイムさんは魔法が使えるからじゃん。耳、嫌なら魔法で消してくれたらいいよ」
出来るだけ暗くならないように口の端を上げて言った。すると、頭の上の手がさらに重くなる。
「な、なに、重い!」
そのまま獣の耳を親指で弄ばれた。大人になってから、こんなふうに誰かに猫の耳を触られたことがない。こういうとき、どういう顔をしていればいいのか分からなくて目が泳いでしまう。
小さいとき、同じことをされた。
銀色の長い髪をした優しい魔法使い。あのときは嬉しいと無邪気に喜べた。けれど今は、なんだが変な気持ちになってくる。
触られているわけじゃないのに、お腹の奥が、むずむずして落ち着かない。
「ッ、くすぐったい、よ」
レイムの手を掴んで顔を上げると、息を吐くように笑われた。
「別に戻さなくていい。獣の耳と人間の耳二つあって面白いから指摘してやっただけだ」
「面白いって」
「それが、お前なんだろう、人の話がよく聞こえて便利じゃないか」
「便利って」
「もっと、利点に目を向けたらどうだ」
猫の獣人。これがノアだ。けれどノア自身この運命を受け入れたくない。違う生き方があるなら、選べるなら普通の人間として生きたかった。
「俺、獣になるの嫌なんだ。面白くもなんともないし、利点なんて」
「そう。まぁ、お好きにどうぞ。別に手伝って欲しいことなんてない。その辺で好きに遊んでいろ」
「じゃあ、なんで呼んだんだよ」
「なんとなく」
レイムは呼んだだけだと言って仕事に戻った。
「あ、そう。でも、毎日、寝て起きて、部屋の中見て、ソファーに座っているだけって、俺なんでここにいるのか分からないじゃん」
「しばらく置いてやると言っただけだろう。一週間のんびりしていればいい」
レイムとの暮らしは、想像していたより穏やかだった。
これでは家猫の暮らしだと思った。
「あの、レイムさんってさ、もしかして猫が好きなの」
「何故そう思う」
レイムはガラス瓶の液体を小さな炉の上でかき混ぜていた。長い黒髪は仕事中、邪魔じゃないんだろうか。動くたびに揺れる毛先をついつい目で追ってしまう。
(レイムさんの髪の毛、触り心地いいんだよなぁ)
レイムの髪に触れたのは森で一度だけ。
自分も猫になれば体中毛に覆われている。でも自分で自分の毛の良さなんて感じない。お腹の毛はふわふわだけど、自分で毛繕い出来ない背の毛は、きっとごわごわしている。
ノアがレイムの髪に触りたい衝動に駆られるのは、猫の獣性が関係しているのだろうか。
「だって、猫のときは……」
「猫のときはなんだ」
猫のときレイムはノアに優しくしてくれる。家に連れてきてくれたのも、ノアが猫の姿をしていたからだと思った。
森で眠っていたレイムの膝の上に乗って怒られなかったのもノアが猫だったから。
(絶対、猫大好きなんだ)
じっとレイムの顔を探るように見た。
鳩も飼っているし、動物にだけ優しい可能性がある。
「どうした急に黙って。眠いならソファーで寝てればいいだろう」
「昼間っから寝るなんて、そんなの猫だ」
自分でおかしなことを言っていると分かっている。ノアは猫獣人だ。半分は猫。だから獣の姿だって自分の一部だ。それでも後ろめたい気分になる。
罪だと感じた。
「昼間から寝るのが憚られるなら、私が猫に変えてやろうか」
自由気ままな猫なら、好きなときに寝て好きなときに起きられる。レイムはそう続けた。
「お、俺は」
朝、一緒に食事をとって、レイムが仕事で薬を煎じているのを遠くから見る。
昼になっても朝と同じようにじっとソファーに座っているだけ。
もしかしてレイムはノアを完全な猫にするつもりなのだろうか。なんだか背に冷たいものが伝うのを感じた。
子供向けのおとぎ話が、いつの間にか怖い話に変わるみたいな感覚。さっきまで頭の上にあった猫の耳は消えている。
レイムのことが怖いと思った。レイムのそばにいたら猫の自分を受け入れてしまいそう。
「俺は、普通の人間になりたい」
レイムは呆れたように息を吐いた。
「私は、お前をここに置いてやるとは言った。でも弟子にするつもりもないし、小間使いにする気もない」
「じゃあ俺を連れてきた理由って、もしかして」
「観賞用かな」
「か、かんしょうって」
「猫は飼ったことがないしな」
思った通りだった。レイムはノアを猫にするつもりだったらしい。
「手始めに獣のメリットを教えてやった。どうだ? 毎日、猫みたいに過ごした気分は、楽しかっただろう?」
「た、楽しくなんて」
「暖かいベッド、仕事もない。飼い主には無条件に可愛がられて頭を撫でられる。優しくされる。貴様が、元人間の獣人だと言わなければ幸せじゃないか? 私はお前のストレスになるようなことは何もしていない」
ここ数日、穏やかな気持ちで過ごしていたのも事実だった。けれど今の状況を受け入れられない
「猫みたいに寝てるだけしか、俺、役に立たないって言いたいの」
「それが嫌なら出ていけばいい。一週間もしたら出て行きたくなると言っただろう。最初から結末なんて分かっている」
「絶対、嫌だ! 俺、レイムさんの弟子にしてもらって、自由に生きるんだから」
「だから弟子は取らないと何度も言っているだろう」
ばちばちと二人の間で火花が散っている。もちろんノアが一方的に絡んでいるだけだ。ノアはふいとレイムから顔を背けた。
「川、行ってくる。俺にだってできることあるんだからな!」
「――どうぞ。ご自由に」
バタバタ足音を立てて台所まで走る。近くにあるバケツを取ってレイムが仕事をしている部屋まで戻った。目の前をノアが通ってもレイムは我関せずとノアを見ていない。ノアは玄関の扉に手をかける。
「い、行ってくるから。夕飯、魚だからね!」
放っておかれているけど、やっぱり構って欲しくて声をかけた。こんなに喋って構ってくれる人が今までいなかったから。だから簡単に諦めたくない。
玄関で辛抱強くレイムの返事を待っていた。ノアの視線に負けたのか、レイムは薬袋に薬を詰めながら口を開いた。
「バケツだけで魚が釣れるとは知らなかった」
嫌味ったらしい。でも、ちゃんとノアと会話してくれた。
「釣竿、どこ!」
「外の壁に立てかけている」
「分かった。あ、あり、がとう。期待して待ってて!」
「別に、釣果は期待していない」
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