第6話

 その日は朝から雨だった。窓をバタバタと叩く雨音に、いつもより少し早く目を覚ます。

 窓の外を見る。雨の強さもさることながら、時折非常に強く風が吹き、木々や電線を激しく揺らす。

 朝の支度をしつつテレビをつける。


『……一日中雨が降り、所により、突風が吹くでしょう。転倒したり、物が飛ばされたりなど、……』


 気象予報士の言葉になにか胸騒ぎを覚えながら、深緑色の傘を手に家を出た。

 風雨と格闘しつつ会社へ向かい、なんとか業務をこなす。朝から感じていた嫌な予感が頭の隅でチラつき、つまらないミスばかりしてしまう。


 いつものように精神を擦り減らし、ほとんど抜け殻の状態で業務を終えたぼくは、帰りのバスでぼんやりと窓から外を眺めた。

 ……こんなに風も強いと、もしかしたらあの男は公園にいないかもしれないな。

 雨が降ると当然のようにあの男のことを考えている自分に、思わず小さく口元を緩ませる。


 バスを降り、傘を差す。

 しばらく歩いたところで突風が吹き……もともと錆びていた中棒がメキリと嫌な音を立てて折れた。


「……マジか……」


 意味をなさなくなった傘を持って呆然とする。雨は激しくぼくを打ち付ける。

 ただ傘が壊れただけなのに。なんだか泣きたいような気持ちで、もはや遠回りをして公園に寄ることも出来ないぼくは、壊れた傘を持ってびしょ濡れになりながら家へ帰る。遠くでサイレンが聞こえた気がした。


 よく晴れた日が続き、ぼくの心は以前にも増して憂鬱だった。それはあのお気に入りの傘が壊れたからなのか、はたまた雨が降らずあの男と会えないからか。

 ……いや、元々ぼくはこういう人間だったのだ。なにか理由があるわけでもなく、なんとなく憂鬱で、陰気で、明るい風景の中で楽しそうに過ごす人たちに羨ましいような恨めしいような感情を抱く、そんな人間。昔からこうだった、最近では忘れていただけ。


 ぼくがあの詩人の詩に惹かれたのも当然だ。むしろなぜ今まで興味を持たなかったのか。目を酷使したくなくて、本をあまり読んでこなかったのを後悔した。

 あの雨の日にだけ姿を現す男もまた、ぼくと同じように詩を読みながら、憂鬱で暗く孤独な心を慰めてきたのだろうか。


 今夜久しぶりに強い雨が降る、とテレビの中の気象予報士が言う。深緑色の傘を手に取ろうとして、これはもう傘としてなんの意味もなさなくなってしまったことを思い出す。それでもなんとなく捨てられなくて、玄関に置いたままになっていた。

 ……仕方ない。会社に行く途中にコンビニでも寄って、適当な傘を買おう。


 久しぶりに手にした安物のビニール傘は、無機質で、他人行儀で、薄っぺらくて、なんの愛着も湧きそうになかった。

 憂鬱な内面を取り繕って業務をこなす。もはや辛いとか苦しいとかも思わなかった。麻痺してしまった心とは裏腹に、ぼくの体は誰かが操作したように勝手に動き、喋り、他人事のようにそれを後頭部の後ろから眺めているうちに時間が過ぎた。


 予報通り雨が降る。バスを降りて傘を差す。

 彼はビニール傘についてなにか言うだろうか。あのお気に入りの、彼が褒めてくれた深緑色の傘が壊れてしまったことについて、ほんの少しだけ憐れんでくれるだろうか。

 そんな事を考えながら公園に向かうも、彼の姿は無かった。しばらくベンチに座ってひとり雨音を聞いていたけど、彼はついに現れなかった。


 その日以降も、彼の姿を見ることはなかった。


 ぼくは習慣のように雨の夜には遠回りをしてあの公園に寄り、時にはそこでひとり座って雨音を聞いたり、持ってきた詩集を読んで過ごしたりもした。『憂鬱の川辺』がお気に入りの詩になった。

 たまに晴れの日や昼間も足を運んでみたが、当然彼は居ないし、遊んでいる子供すら見かけない。


 だんだんと、あの日々が夢や幻だったのではないかと思えてきた。ぼくは彼のことを何も知らない。名前も、職業も、どこに住んでいるのかも。

 ただ、内気で静かで、意外に話しやすく、妙に細かい知識があり、陰気な詩が好きで、ぼくと詩の話が、天気の話が、何でもない意味のない話が出来たことにホッとした表情を見せる。

 そんなことしか知らなかった。

 それだけで、十分だった。


 もしかしたら彼は……雨の精霊、いや、傘の精霊だったのかもしれない。そんな突飛な考えが浮かんで思わず笑う。馬鹿げていると思いつつも、完全に否定しきれないぐらい、彼は美しく、儚く、ぼくの生活にほんの一瞬入り込み、ぼくの大事な傘と時を同じくして、ぼくの胸に穴を穿うがって消えてしまった。


 季節は巡る。

 紫陽花が咲き、腐り落ち、枯れる。

 異常気象の夏が来て、ぼくの憂鬱さに拍車をかける。ただ死なずに生きることに精一杯で、もはやなんの感情も記憶も残らず夏が過ぎてゆく。

 ほんの僅かな秋が来る。幾分過ごしやすい気候と、変わらず低空飛行のぼくの感情。枯れ落ちる葉、色を失っていく景色に、春に散る桜を見たときと同じような寂しさを覚える。

 彼だったら、秋のこの景色をなんと表現するだろうか。ぼくと同じように寂しさを覚えるのか、それとも素直に紅葉の美しさに感動したりするのだろうか。


 相変わらず雨の夜の回り道は続けていた。もう習慣と化していて、彼が居ないことをいちいち残念に思ったりしなかった。いや、初めから、どうせ今日も居ないと決めつけてすらいた。ただどうしても、まっすぐ家に帰ることは出来ずにいた。傘もあのペラペラのビニール傘のままだ。どうでもいい傘なのに、不思議とどこかに置き忘れたり、誰かに盗られたりはしなかった。




『……強い寒気が流れ込み、例年より早い初雪となるでしょう。外出の際は、服装に注意して……』


「……もう、そんな季節なのか」


 寒がりのぼくはコートを着て、一瞬だけあの壊れてしまった深緑色の傘に視線をやり……雪に備えてペラペラのビニール傘を持って家を出た。

 予報通り、非常に寒い一日だった。普段から飲む温かいブラックコーヒーが、いつもより体に染み渡った。

 仕事を終え、最寄りのバス停で降りると雪が降っていることに気付く。今日もたまたまバスは空いていて、座って詩集を読んでいたので気付いていなかった。


 重みをもった大粒の雪がボタボタと落ちてくる。

 傘を差して、はたと気付く。

 雨の日だけ現れたあの男は、雪の日にはどうなんだろう。彼がもし雨の精霊なら居ないだろうし、傘の精霊なら……居るかもしれない。


 自分の奇矯な考えに思わず「ははっ」と声を出して笑う。馬鹿げている。だがその考えがどうも間違っていないような、確信めいたものに変わってきて、足早にあの公園を目指す。


 薄く雪が積もる公園。

 中程にぼんやりと浮かび上がる東屋。


 ベンチには……俯きがちに座る、男の姿があった。

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