第92話 騎士たる者
——私は、弱くなったのではないか。
ベン爺さんの前で涙を流し、ハンナのぬくもりに心を緩めた。
その結果が、傭兵の気配にも気づけず、暗黒騎士に腕を斬り落とされ、人形に捕まる結末だ。
感情など——私には不要だったのに。
思い出せ。
思い出せ。
母はなぜ消えた。
父はなぜ死んだ。
思い出せ。
思い出せ。
旅で出会い、そして死んでいった者たちの顔を。
守れなかった者たちの顔を。
私が弱かったからだ。
私は——強くあらねばならないというのに。
◇
「——雑念が混じったな、アルテア」
コツン、と木剣がアルテアの額を軽く打った。
「父さま。剣の道に……感情は必要なのでしょうか?」
アルテアは額を押さえながら顔を上げる。
「そんなことを考えていたのか」
「はい。剣を振るうのに“無心”であらねばならないのなら、感情は……いっそ捨て去った方が良いのでは、と」
「なるほどな」
「怒りや悲しみなんて、無駄なだけなのではと思っておりました」
父は静かに木剣を下ろした。
風が吹き抜け、木々の葉がさわさわと鳴る。
「アルテア。お前は今、怒りか悲しみを抱いているのだな」
「…………」
「母のことを、思い出したか」
「ち、違……います」
アルテアは視線を落とし、拳を固く握りしめた。
「感情を捨てたいと思ったか」
小さく頷く。その肩が、わずかに震えていた。
「アルテア。感情を持たぬことと“無心”は、似ているようでまったく違う」
アルテアははっとして顔を上げた。父の瞳には、厳しさと優しさが同居していた。
「剣は命を守るものだ。だが、それを振るう者に“心”がなければ、それはただの鉄の塊だ」
「…………」
「怒り、悲しみ、喜び──それらはお前の心を形づくる大切なものだ。心なくして、どうして守る気持ちが生まれようか。誇りを抱けようか」
父は木剣を握り直し、背筋を伸ばした。
陽光が彼の肩に差し込み、その影が長く伸びる。
「あるいはただの剣士であれば、それでもよいかもしれぬ。だが——我らは“騎士”だ」
「騎士……」
「その胸に何を抱えていようと、その背に誰を背負っていようと、己のすべてをもって誇りを貫く者。その上で、守る者。それが、“騎士”だ」
風が止み、森が静まり返った。
寝室。
金髪の幼い少女がベッドの上で、静かに寝息を立てていた。
窓辺のカーテンがわずかに揺れ、淡い月光が頬を照らしている。
その傍らで、
ぽた、ぽたと雫が手紙を濡らす。
その右手が、そっと少女の髪に触れた。
「……ごめんね、ごめんね、アルテア。家に逆らうことができない私を、どうか許して……」
女性はゆっくりと立ち上がった。
扉の前で一度だけ振り返る。
目に焼きつけるように、眠る少女を見つめ——そして静かに扉を閉めた。
——なぜ、母を恨んでいたのだろう。
「何も言わずに出て行った」と、ただそれだけを聞かされただけなのに。
——父が殺されたあの日。感情があるから父は死んだと思ってしまった。だが父は厳しくも温かい人だった。そんな父を、敬愛していたのではないか。
父との旅。
そして、一人になってからの長い旅路。
旅人としての自分。
騎士としての自分。
——私は、父の教えを忘れていたのかもしれない。
騎士であらねばならない。そう思っていた。
だが、“騎士とは何か”が抜け落ちていた。
涙も、温もりも、もしそれを力に変えられるのなら——。
アルテアはゆっくりと、閉じたまぶたの下で微笑んだ。
「……父さま、母さま。私は——泣いても、笑っても、いいのですか?」
◇
アルテアが目を覚ましたのは、狭い船室の中だった。
両手は後ろで縛られ、椅子に固定されている。
腰には、いつもの鞘がなかった。
金属の軋む音。
甲板を踏む足音が遠くに響き、すぐに波音にかき消された。
小窓から差し込む光が、床板の上でゆらゆらと揺れている。
その外には、海の青が覗いていた。
アルテアは目を細め、息を整えた。
——微かに揺れている。
船の速さは、さほどでもない。
風が弱いのだろう。
帆を鳴らす音がほとんど聞こえない。
代わりに、船体を撫でる波の音が、ゆっくりとした呼吸のように響いていた。
やがて、船室の扉が軋む音を立てて開いた。
部屋の光が通路を浮かび上がらせる。影の中に数人の男たちが立っていた。
その目に、光はなかった。
無言のまま、彼らはアルテアの身体と椅子を固定していた縄をほどく。
縄が床に落ちる音が、やけに大きく響いた。
先頭の男は扉を開け放ったまま、一歩、外へ出る。
潮と鉄の匂いが流れ込んだ。
(……ついてこい、ということか)
アルテアは静かに立ち上がった。
両手は縛られたまま、足枷はない。
扉に立っていた男が無言で先を歩く。
アルテアはその背中に従い、後ろからロープを解いた男の足音がぴたりと付いてくる。
足音が響く。
甲板のきしみが、波の音と同じ間隔で続いた。
通路は薄暗く、湿った木の匂いが鼻を掠めた。
波に合わせて船がゆらりと傾くたび、肩が壁に擦れた。
やがて階段を上りきり、扉の前に立つ。
扉が開かれた瞬間——
眩い光が、アルテアを包んだ。
潮風が頬を打ち、塩の匂いが肺を満たす。
目を細めると、白い波が跳ね、陽光をキラキラと散らしている。
海鳥たちが船首に群がり、鋭い鳴き声を上げて旋回していた。
空は抜けるように青く、ところどころに小さな雲を浮かべていた。
空の色が、海の表面を淡く染めていた。
アルテアは甲板の中央に立っていた。
風が金の髪を揺らし、駆け抜ける。
その正面に、漆黒の鎧と兜を纏った騎士が立っていた。
全身から漏れ出す気配は、まるで闇そのものだった。
その周囲を、目に光のない男たちが取り囲んでいる。
漆黒の兜の奥には赤い光はなかった。
だが、確かに視線を感じた。
そして、その沈黙を割るように——
低く、響く声が耳を打った。
「……答えろ。マーリンは。奴は何処だ?」
その声は波の音よりも静かで、
だが、雷鳴よりも重く響いた。
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