――夢幻―― 7 ニヒルに嗤う丹花の唇





 青緑色のマグカップの中で、顆粒をお湯で溶いただけのコーヒーが不規則に揺れた。


 夕間暮れ、榎本は応接用のソファに浅く腰掛け、テーブルに置いた自身のスマートフォンを睨み付けていた。

 緊張の波が襲ってくる。焦りと苛立ちにきつく口を結び、右足には無意識に貧乏揺すりが起きていた。その振動のせいで卓上のコーヒーが波を打つ。


 ため息が出た。栄子との通話を終えてから、こうして頭を抱え続けている。小一時間はとうに過ぎ、日は没し、室内の明かりを灯させなければ、さすがに薄暗くなってきている。

 栄子に言われた言葉が何度も脳内を廻っていた。洋介くんに連絡なさい、きちんと話をして、いいわね――そう早口に捲し立てられ、返事をする間もなく通話が切れたのだ。言い逃れの一つもできていないし、今さら拒絶もできない。


 電話しなければ――と変な風に強迫的な衝動に駆られていた。酷い拒絶した手前、なかなか行動に移せずにいる。


 手を駒根いている間に背後で電話が鳴り、わっと声を上げて驚いた。

 着信音を鳴り響かせているのは、事務所の固定電話だった。もしやと思い榎本は、傍らに置いていた洋介にもらった名刺を手に取り、未だ鳴り響く固定電話の元へ向かう。

 電話機のディスプレイには、見知らぬ携帯番号が表示されていた。名刺に目を通し連絡先を探す。会社の電話番号の下に、携帯番号が記載されていた。表示されている番号と同一のものだ。


 うるさく鳴る心臓を落ち着かせようと、深呼吸して受話器を上げる。情けないことに受話器を持つ手は震えていた。受話器を耳にあて、決まり文句の挨拶を口にする。


「はい、榎本探偵事務所です」


 一瞬のノイズの後、榎本さんですか――男にしては割りと高いキーを奏でる中性的なこの声は、記憶に新しい。予想通り神﨑洋介のものだった。

 意外にも、至極明るい声色をしている。洋介の心理はよくわからないが、一応目的を達成したことに、榎本は胸を撫で下ろした。不安から解放された心身から、ふうと力が抜け出るのを感じ、気が緩む。


『本日お邪魔いたしました、神﨑洋介です。僕の失礼な言動で榎本さんのご気分を害してしまい、誠に申し訳ありませんでした――。一言お詫びをしたく連絡した次第です』


「いや、こっちこそ酷い追い返し方をして悪かった。大人気ないと反省しているよ」


『いいえ、そのようなことはありません。僕が榎本さんを怒らせたんですから、追い返されても当然でしょう。自業自得だと理解しています』


「いいんだ。お前は悪くないよ。それに俺も、丁度連絡しようかと考えていたんだ」


 そうなんですか――洋介は心底驚いたと言う風に声を上げ「どんなご用件でしょう」と尋ねてきた。

 榎本は言葉に詰まる。こちらも一言謝ろうと思い電話をしたかったのだが、先に終了しているし、謝ることばかりでその後の考えはなにもなかった。もう用事はない。


「ああ、神﨑――」


 わずかな沈黙に気圧され、なんの考えもなしに洋介を呼んでいた。


 はい、なんでしょう――洋介の素早い返答に、ああのううんのと唸り「お前、飯食ったか」と、悩んだ挙げ句に口から滑りでた間抜けな言葉に、榎本はげんなりと頭を垂れた。こういう時に、自身の会話力の低さを嫌でも自覚しなければならない。


『ピザはお好きですか?』


 唐突に洋介から問われ、咄嗟に好きだと答えた。特別好きでも嫌いでもない。だが『今から伺いますね』と、洋介から弾んだ声が返った。


『僕も好きなんですよ、ピザ』洋介は告げると、挨拶もそこそこに通話を切った。


 いったいなにを言っているんだろうか――榎本はなに一つ理解できていない。

 洋介の楽し気な様子も全く腑に落ちなかった。ピザが好きだからなんだと言うのだ、なぜ事務所へ来る必要がある。狭い空間で、勢いよく弾き出したゴムボールが跳ね回るように、洋介の思考回路の軌道を捕まえることは難しい。言葉がなにを指し、なんの目的を含んでいるのか、全くもって理解しがたい。会話が噛み合わないのは年の差故か。


 事務所のインターフォンが鳴り、ビクリと肩を跳ねさせた。


「こんばんは、神﨑です」


 扉越しにくぐもった洋介の声が聞こえた。


 通話を終えて、まだ十五分程度しか経っていない。いたく早い訪問だ。近くへ来ていたのだろうか――などと思考を巡らせながら、榎本は事務所の玄関扉を開いた。


 二段重ねのピザ箱を抱え、洋介は幼い子供のように無垢な笑顔を浮かべている。


 榎本が招き入れるより速く、お邪魔します、寒かったです――と厚かましく事務所内へ入ってきた。

 洋介とすれ違った瞬間、トマトとチーズとバジル、他にいろいろ混ざった旨そうな匂いが鼻腔をくすぐった。漂ったピザの香りに榎本の胃はくうと収縮し、今まで感じていなかった空腹感が襲ってきて口腔に唾液が溢れた。


「お腹空きましたね」


 そう言って、応接用のテーブルにピザの箱を並べている洋介の姿に、ようやく合点がいった。

 榎本はそうだなと言って、蓋の空いた箱を覗き込む。やはりマルゲリータだ。洋介は、ピザをテイクアウトして事務所へ来るから一緒に食べよう、と言いたかったらしい。

 先日話したときには、人間味のない機械的な男だと印象を受けていたが、案外年相応に幼稚なところがあり、その人間臭さになんとなくほっとした。


「榎本さんの好みを聞き忘れてしまって、僕の好みですが許してくださいね。いっぱい食べるかなと思って、Lサイズを二枚買ってきました。足りないかも知れませんが、懐の事情を察して勘弁してください」


 うん、そうか――榎本の上の空に返答に「取り皿お借りしてもいいですか? あ、勝手に取りますね」と洋介は席を離れ、こっちかな、ここの使っていいですか――と、榎本の返答を待たず、矢継ぎ早に忙しく独り言を続け、皿を二枚握って戻ってきた。


 取り皿をどうぞ――洋介は榎本の手前に皿を置いて「こっちがマルゲリータで、もう一枚はツナコーンとクリームシーフードのハーフです」そう説明しながら、榎本と向かい合いソファに腰かけた。

 間髪入れない洋介の言葉を縫って、ありがとう――榎本はようやく一言礼を言うことができた。


 取り皿を手に、二枚のピザに目を落とす。四十過ぎの晩飯には、見ただけで胸焼けしそうな内容とサイズだ。


「冷めないうちに頂きましょう」


 そう言って洋介は手を合わせた。

 榎本も、そうだな――両手を合わせる。冷めたコーヒーが入ったマグカップが目につき「お前、コーヒーは飲めるか」と、洋介に尋ねれば、好きですよ――軽快な返事があった。


「インスタントで良ければ淹れてくるが、飲み物はお茶とどっちがいい」


「コーヒーがいいです」


 洋介は陽気な感じで返事した。


 榎本は八等切りにされたピザを三切れで、満腹を越して胸焼けしていた。年齢に相応しくないハイカロリーな食事は、今後は控えようと決意して油分を流すようにコーヒーを飲み干す。

 驚いたことに、洋介のピザを口へ運ぶ手は衰えず、残りのピザをペロリと平らげる姿を目にし「お前、華奢なわりに食うな」と、呆気に取られ言葉が漏れた。


「華奢なの気にしているので言わないでください。別に大食いってわけじゃないですよ。好きなものを食べたいときに食べたいだけしか食べませんので」


 洋介は箱を適当に折り畳んでごみ袋に押し込み、汚れた皿は榎本が洗った。


「ずいぶん我が儘な偏食家だな」


 榎本が呟けば「酷いなあ、榎本さん。我が儘だなんて言い掛かりだ。僕は自分に正直なだけですよ」と、洋介は反論した。


「それが我が儘って言うんだろ」

 そう呆れたように言葉を返せば「そ、そうでしょうか。僕って我が儘なのかな」と、意外にも洋介は動揺して見せた。

 榎本は二杯目のコーヒーを洋介に差し出し「そうだと思うよ」半笑いに言って、定位置のソファに腰を下ろす。


「それで――。本当はなにをしにきたんだ」


 二杯目のコーヒーを飲みながら、榎本は険しくした声音で切り出した。


「なにって――」


 苦笑いが返され目を逸らされる。


「とぼけるなよ。ただ単にピザ食って談笑しに来た訳じゃねえんだろ」


「ばれていましたか」


 そう曖昧に笑う洋介に「当たり前だ」と、榎本は厳しく切り返した。


 そうですねえ――洋介の瞳に不穏で鈍い光が宿ったのを感じ、榎本は身構える。


「ねえ、榎本さん」


 その洋介の声は、聞き覚えのあるような甘さを含むものだった。


 ああそうだ、駆け引きを持ち掛けるときの正治だ。彼の話し方にそっくりだと感じた。

 どうしてか怯んでしまいそうな気持ちを、奥歯を噛み締めぐっと堪える。嫌な予感しかしなかった。


「ビジネスの話をしましょう」


 嫌な予感は大抵あたる。

 彼は、昨日の続きをしに来たらしい。ニヒルに歪んだ唇が肯定を示していた。


 榎本さん――名を呼び、スッと真剣な面持ちになって「あなたと取引がしたいんです」そう淀みない静かな言葉に「取引だと?」と榎本は険しく眉を潜めた。


「僕が掴んでいる情報を提供します。もちろん偽りなく、全てです。その替わりに、この情報を元に得た新たな情報を、随時僕に提供してほしいんです。

 幻覚については触れられたくないご様子でしたので、今は触れないでおきましょう。これでも僕なりに交渉内容を検討し、譲歩したつもりです」


 洋介の言った僕なりの譲歩。その妙に上から目線な態度が鼻に突き、今はってことはいつか蒸し返す気か――と、不貞腐れたように言い返す。


「ええ、そのつもりです。と言っても、僕はこれから、榎本さんと信頼関係を築いていきたいと考えているんです。きっといつか榎本さんから話してくれると信じて待っています」


「信じるだけ無駄だ――」


 洋介の威圧的な態度が気に入らず、こんな高飛車な小僧と信頼関係なんか築けるものか――と榎本は胸中で吐き捨てた。


「いいえ、可能性を信じなければ事実は作れないじゃあありませんか。必ず時がきます。僕にもあなたにも必要になる瞬間が来ますよ」


「お前は物事を断言しすぎだ。それに思い込みも甚だしい」


「それでも、あなたは僕を拒絶しない。できるはずがないんです。受け入れて頂ける日まで粘りますよ、いくらでもね」


「――その執着心は病的だな」


 榎本は言って、一瞬でも隙を見せたら喰われそうだ――と、いっそう気を引き締め、気圧されないよう虚勢を張った。

 言葉を慎重に選び、こちらも高圧的に、わざと嫌みったらしく洋介の言葉を受け流していく。


 なんとでも――と低く言った洋介の眼光が強くなる。

 蛇に睨まれた蛙の気分だ。重い圧迫感に、正体不明の圧倒的な力の差を見せつけられた気がした。榎本からの拒絶を牽制するように、洋介はどんどん話を進めていく。


「あなたは必ず僕になびく。必ず――僕と手を組みますよ」


「どこからわいた自信だ。言っておくが、俺はお前なんかより数倍も場数を踏んできた。たとえ手を組んでも、用がすめば切り捨てるぞ。口約束の取引だ、いくらでも裏切れる」


「一向に構いませんよ。僕はね――」


 洋介は不適に口許を歪める。


「あなたは諏訪くんを救いたいのですよね。諏訪くんを追えばきっと江神が現れます。避けては通れません。江神を追うのなら、あなたには僕を頼る他、術はない」


 言って、彼は圧迫感のある不気味な笑い方をした。


 どういうことかと榎本が問う。


「僕の口からはお答えできませんが、時期にわかることです」


 洋介は不気味さを引っ込め、可憐に微笑んだ。


「ふん――、そんなんで都合よく取引してもらえると思うなよ」


「承知しています。――それでは手始めに。榎本さん、この男をご存知ですか?」


 洋介は男性の顔写真を一枚、榎本の前に差し出した。


「この人がなんだ」


「僕は見覚えがあるか、と聞いたのですが」


 洋介はすかさず、高圧的な言葉を返した。


 榎本は彼を睨み付け沈黙を貫く。洋介の差異を図りかねていた。

 写真の人物に心当たりがある。だが、用件がわからないまま下手な返事は出来ない。


「イエスもノーもありませんか。その沈黙はなにを意味するのでしょう。質問の意図をお探しですか、それとも――僕がどこまで情報を手にしているのか探ってらっしゃいますか?」


 それでも沈黙を貫く榎本に「まあ、いいでしょう」言って、彼は微笑んだまま目を伏せる。


 神﨑洋介は壁が迫るような威圧感を生み出す男だ。じわりじわりと声音に圧が溶け込み、言葉巧みに吐き出してくる。

 榎本は洋介に圧されていると自覚していた。今日に限って弱腰な自分がいる。一度酷い対応をしたことで負い目を感じているのか、正治の名を出されたからか。とにかく洋介の前から逃げ出したい衝動に駈られていた。


「そんなに萎縮なさらないでください。僕の言い方が意地悪でしたね」


 洋介は努めて柔和に笑い「仕切り直しましょう。榎本さんがこの男をご存じなことも、この男が誰なのかも、どんな罪を犯したのかも、僕はわかっているんです」言って組んだ手をテーブルに乗せた。


 やはり把握済みか――不快な空気に眉間にシワが寄る。把握されているのなら黙秘したところで無意味だ。

 榎本が用意した選択肢は、このまま無視を決め込むか、洋介と手を組み情報をもらうかの二択。事件解決を目指すなら前者は論外だ。こちらが下手に出ても有益な情報を手にする他ない。


「この写真の男となんの関係がある」


 榎本は意を決し口を開いた。


元県警警視不動峰圭吾ふどうみねけいご――実は、彼の所在を突き止めました。生きています」


「馬鹿な。彼は辞任して数年後に病死したはずだ。葬儀だって――」


「ええ、表向きはね。彼が亡くなったとされて、丁度三年になります。彼の死後、ご家族様も残さず事故死したとされました。

 今は満島みつしまと言う山間部の廃集落に、公平孝太郎きみひらこうたろうと名を偽って一家で生活しています。彼、僕の睨んだ限りでは――江神消子と繋がっていますよ」


「吉浦さんのことといい、警視のことといい。お前は、そんな情報をどこから拾ってきているんだ。一端の記者が入手できる情報とは到底思えん」


 榎本は素直に疑念を投げる。


「残念ですがお答えできません。前日も申しましたが情報源は明かせません。僕は警察やあなたと違い、誰かを確保するために情報収集しているわけじゃあありませんから。だって、困るでしょ――?」


 清々しいほど淡白な返答に、榎本は苛立ち奥歯を噛み締める。洋介の言い分から察するに、情報源の中に非合法なやり方や現行の犯罪者がいるのだろう。


「さあ、僕と取り引きしましょう。あなたの手元にある選択肢は多くないはずだ」


 洋介は組んでいた手を開き、行きますか――強気に口角を引き上げた。


 躊躇う予知はない。榎本は大人げなく舌打ちし「ああ、行くさ」そう吐き捨てれば、交渉成立ですね――と、洋介がにこやかな笑みを向けてきた。


「ただ、危ない橋を渡るには情報が少なすぎる。不動峰警視の情報をどういう経緯で入手したのかくらいは話してもらうぞ」


 榎本は表情は険しく、語気を強めて言った。


「そうですね。あなたは危険な状況に身を置くわけですし、対等な情報をお伝えすることは最低限の礼儀でしょう」


 一度口をつぐんで、実は数日前――と洋介は話し始めた。


「ある方からの情報を元に城川しろかわ警視正を訪ね、揺すりました」


「揺すった? 城川警視正は現役の警察上層部なんだぞ。まさか、脅しの利くほどの情報を手にしたというのか? 下手すりゃお前自身潰されかねない――」


「ええ、間違いなく。僕はとある要求を飲み、警視がマネーロンダリングに手を出している、と情報を得ました。更に証拠も揃え、ちょっと突ついたらボロボロ情報を吐いたんです。あまりに張り合いがなく驚きました。きっと追い詰められていたのでしょうね。僕が訪問した翌日に、彼は自殺なさったんです」


「胸くそ悪いな。そんなんで、死ぬ前の懺悔でもしたつもりか」


 そうも捉えられますね――洋介は静かに言って、話を進めた。


「元警視正と不動峰はある暴力団から多額の賄賂をもらっていました。麻薬の密輸、製造と犯罪行為を隠蔽する代わりです。切っ掛けは、七年前に起きた錦戸麻薬製造事件。警視正の話を聞く限り、この事件にも江神消子が絡んでいます」


 なぜ断言できる――更に榎本は眉間を険しく寄せた。


「警視正は事件の首謀者を、直接は知らないと言っていました。ですが又聞きで、その人物は酷く美しい容姿らしく、関わると死が訪れるのだと知っていたそうです。あまねく美貌を持ち、人の心に滑り込み煽動的に操る存在――。警視正の言っていたことが事実なら、僕の調べてきた江神消子像と一致します」


「それを聞かせてくれ。お前の調べあげた江神消子像を教えてほしい」


「いいでしょう。僕も直接この目で見てはいませんが――、神に精選された美貌は他者の心に邪を芽吹かせ、神と崇められるほどのカリスマ性を秘めている、と言ったところでしょうか。彼を目の当たりにすると、陶酔し心酔せずにはいられないのだそうです」


「なんなんだ? それはまた妙な、――まるでサイキッカーだな」


「僕も催眠術師かなにかかと思いましたよ。噂の限り、人知を越えた存在です」


「宗派を拗らせた輩は多く見てきたが、そいつには面と向かって勝てる気がせんな」


「ええ、本当に。あなたの仲間にも勝てなかったであろう人が大勢いますものね」


「仲間? 仲間って、誰のことだ――」


 言って、榎本は久方ぶりに三献を開いた。


「誰、とはわかりかねますが。榎本さんと同時期に辞職殉職した方は僕の知る限り四人です。あなたを含めて五人。左遷された方も大勢いたはずです。なにか心当たりは?」


 特にはと曖昧な榎本の返答に、特にって――と洋介は驚いた風に「あなたは、なぜ辞めたのですか?」そう続けた。


 問われた榎本は「なぜって、なにがだよ」と問い返す。


「いえ、ですから――天職と感じていた職だったのでしょう? おまけに約束されていた地位を蹴ってまで、探偵となったのはなぜです?」


 それは――胸の奥にモヤモヤした黒い霧が立ち込める。脳は霞み、思い出そうとすればうるさくノイズが鳴った。ずしりと頭が重くなり、脳の中心部が脈を打ち始める。

 榎本は急な気だるさに右手で額を支えた。


「榎本さんが辞職するのと近い時期に、多くの方が辞職、殉職、左遷されています。わずかでも思い当たる節はありませんか。辞めざる負えない要因となったこととか」


「辞めた理由かあ。なんだったかな――」


 榎本がああのううのと唸っていると「もしかして榎本さん、その辺りのご記憶を失くされているのでは」洋介が鋭く切り込んだ。


「いや、まさか――。大丈夫だ、ちょっと忘れただけだろうと思う」


「ちょっとやそっとで忘れる内容には思えませんけど。だって、あなたの人生を左右する決断じゃあありませんか。そんな高校生がバイトを辞めるときみたいに簡単な話じゃない」


「うん、まあそうなんだが。言われて初めて気がついたが、本当にさっぱり覚えていない。辞めた理由も切っ掛けも、どうやって辞めたのかも――」


 赤い――突然、赤い光が視界の一部を塞いだ。


 半透明なその光は、ギザギザと足が生え、散った血痕のようにも見える。視界は揺らぎ、赤い光が増え染まっていく。呼吸が上手くできず苦しい。吐き気が込み上げ、額に当てていた手を咄嗟に口許へ移した。


「榎本さん、ご気分が悪いんですか? 大丈夫ですか」


 不安に染まった洋介の顔が目前に迫った。


 色白の肌、黒く艶のある癖毛、ブラウンの瞳、長い睫毛、線を引いたような形のよい眉、通った鼻筋の下のぷっくりと艶やかな桜唇が動き、なにか言葉を形作っている。だが、酷い耳鳴りのせいで聞き取れない。潜在意識の奥底が、ぐらぐらと揺すぶられる感覚に目眩がする。


 視界の端に長く細い指が映った。洋介の右手が榎本の左肩に触れる。衣服越しでも伝わる洋介の手の冷たさに驚いた。視線を触れられている肩に移せば、淡い水色のシャツの袖口から華奢な手首が露出していた。


 奇妙な感覚が榎本の神経を支配していく――。


 無意識に口が開き、白い首筋に歯を立て肉やら筋やらを咬み千切りたくなった。嗜虐的で暴力的な、吐き気みたいな狂気が腹の底から競り上がる。

 牙を剥くような力が顎に入り、勝手に口が開いてきた。さらに左手を重ね口許を強く、強く押さえつける。

 咄嗟に上げた左手が洋介の手を弾いた。掛けていた手を払い除けられた形となり、洋介は驚いた表情を見せている。榎本は視覚的に洋介の不穏な表情を捉えているが、詫びることも不安を制することも出来なかった。

 目眩が酷く、洋介の顔が歪み渦を巻いている。


 なぜこんなものが――酷く狼狽した。嗜虐的な欲求が喉元まで這い上がっている。


 吐きたい、吐き出したい――ほんの爪先程度の理性で、なんとか競り上がるモノを飲み下す。腹に落とした狂喜が暴れ狂い、ぐちゃぐちゃと内蔵やらなんやらを掻き乱していく。


 気持ちが悪い、気味が悪い――。堪らなく腹の底が不快だった。脳の中心部を、強く何度も殴られるような痛みが襲い来る。胃の内容物に奇怪な激情が混ざり、気色の悪いなにかが胸の辺りを酷くむかつかせる。


「手を離して――!」


 洋介の悲鳴が空間の膜を破り、榎本の耳に届いた。


 洋介は、口許を押さえつける手を、力任せに剥ぎ取ろうとしてくる。


 いけない、手を離してはいけない、よからぬものが溢れ出してしまう――榎本は必死に両手を取っ払われないよう抗った。離すわけにはいかない。息ができず、肺が痙攣するほどに苦しかった。


 意識があるから苦しいんですよ――激しい耳鳴りの中に安心できる柔和な声が響いた。懐かしい声だ。

 その声に誘われるように、全身が痺れ、すっと冷たくなるような悪寒を感じた。身体には少しの震えもない。脳までもが痺れて視界が暗くなった。

 酷く眠くなって「榎本さん――!」洋介の悲痛な叫びが微睡みに溶け込み、消えた。



 暗闇の中で、真っ赤なワンピースを着たポニーテールの幼い少女が、じっとりとした冷血な瞳で榎本を睨み付けていた。彼女の満月色の瞳は火傷しそうなほど強い憎悪に燃え、幾多の凶悪犯と対峙してきた榎本でも、一歩たじろぐ殺気が込められている。


 君は誰だ――問いへの返事は、冷たく鋭利な沈黙だけだった。


「榎本さん、よかった。気分はどうですか? 吐き気などはありますか?」


 ぼやけた視界いっぱいに、不安に歪んだ洋介の顔があった。


 神﨑――掠れた声で名前を呼べば、洋介は不安な表情を怒った風に眉間にシワを寄せ「どの辺りから意識が飛んでしまったのかはわかりかねますが、口も鼻もふさいで息を止めていたら、意識を失うに決まっているじゃないですか」と、表情と違い心許ない弱々しい声音で言った。


 息を――榎本が言い終わる前に、洋介はあからさまに憂鬱な息を吐き「ええ、ご自身で止めていましたよ」と、呆れたような怒ったような投げやりな感じで言った。


「違う。吸えなかったんだ。止めてなんかいない――」


 榎本は反論するように語気を強めて言った。

 再び洋介は深い息を吐き、困ったような表情で口を開いた。


「先にも言いましたが――、押さえる手が真っ白になるほどに強く、口も鼻も塞いでいたんです。そんなんじゃ吸えるわけないでしょう。まあ、ひとまずですが、肉体的な疾患ではなさそうですね。ヘーリング・ブロイウェル反射は正常のようですから」


「なんだそれは。難しい言葉を使わんでくれ」


「人間は無意識でも呼吸ができる、と言うことです。どうして口や鼻を塞いでしまったのかはわかりませが、気絶したことにより肺の反射機能によって呼吸が再開されました。心臓や肺の疾病でなくてよかったです」


 洋介はそう言いながらも、困った風に笑った。


「すまんかったな」


 素直に謝れば、病院に行きますか――と洋介が言った。

 その表情があまりにも不安に染まっていたため、平気だよ――榎本は努めて明るい口調で言って「この事は内密に頼むぞ」と、口の前に人差し指を立てた。


「仕方ありませんね」


 洋介はやはり困った風に笑い、秘密にしておきます――と言って、乱れた榎本の前髪をそっと正した。



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