――夢幻―― 6 悪魔の産声
どうしてです――栄子は苛立ちに任せ、職場の事務机を強く叩いた。怒りと衝撃で手のひらが熱い。栄子は向かい合う皆良田を鋭く睨み付けた。
「上からの命令だ。江神消子に関しての捜査は行えない」
「唇紅の殺人鬼に近づく唯一の手がかりなんですよ。なぜ捜査してはいけないだなんて」
「江神が件の事件に関係していると思えないからだ。その人物の名が上がったのは萩野美代子失踪事件でのことだろ。俺たちが出る幕じゃない。資料としてカルテが上がっただけだ。証拠にはならない。萩野優利枝の証言も曖昧で、犯人を探せとも言わない。おまけに新聞記者が同じ人物に行き当たった、だと?」これじゃあ警察は動けねえよ――と、皆良田は肩をすくめた。
薄々勘づいてはいたが、実際に言われると気が滅入る。確かに現段階で江神消子を容疑者とは呼べない。できて重要参考人程度だろう。
それにしても妙だと思った。
「まるで変じゃありませんか。これじゃあ江神消子の捜索以前に、江神に関する一切の捜査を行ってはならない――と言っているようなもの」
「やめなさい」
皆良田の一言に栄子は口をつぐむ。
警察が動けないのなら独自に調査するしかない。皆良田の立場も汲み取り、これ以降江神消子に関しての言及をやめた。
察するに警察の上層部は江神を知っているのだろう。どんな経緯があるのか知り得ないが、どうも江神との関わりを拒絶しているように思う。
「お話しは以上のようですので、これで失礼します」
栄子は自身の持ち場に戻る。科学捜査研究所の薬物調査実験室だ。棚一面に瓶やカップに入った固体、液体の薬品が所狭しと並べられ、室内にはそれらの入り雑じった独特の香りが充満している。
高価な機材に囲まれた指定席に腰掛け、紙コップに入ったコーヒーを片手に一息つく。
コーヒーとお茶は、設置された給茶機から自由に飲むことができた。熱々のコーヒーを口に含む。いつ飲んでも笑いが出るほど薄い。無料で提供されているから文句は言えないが、正直お湯に色が着いているだけだ。ありがたいが、やはり薄い。
「薄くないか、それ」
信じられない、とでも言いた気な汐見に言われ、手にするコーヒーに目を落とし、薄いわね――栄子は答えた。
汐見が給茶機のコーヒーを嫌っていることは、科捜研の人間なら誰もが知っている。栄子も好きではないが、あるだけましだと思っていた。薄いが無料で飲める。
こっちのがマシだろ――汐見は言って、手にしていた缶コーヒーの一本を差し出し「皆良田さんなんて言ってた?」と、尋ねた。逆の手にはなにかの書類を持っている。
「なぜだか上層部は江神に関わりたくないみたいよ。遠回しに言われちゃった」
コーヒーを受け取って栄子は言った。手にした缶は長く握っていられないほど熱かった。
「やっぱりそうか。まあ、萩野美代子の件で予想はついていたんだ」
「なんだ。警部になに言われるかなんてあなたにはお見通しだったのね」
「そう気落ちするなよ。それで、他には?」
何か情報を得たかと汐見に尋ねられ、力なく首を振る。あなたの方はと聞き返せば「あるぞ、三つだ」と、彼は左手の指を三本立てた。栄子は期待に身を乗り出す。
「俺は江神の関わったであろう事件を六つに絞った。その中で五年前の麻薬製造事件、七年前の一家惨殺事件、十五年前の鏡母子殺害事件で一部の捜査資料が抜けている」
「抜けてる、ですって? どういうことよ」
栄子は躊躇いがちに言う。
「関連性のない事件のようだが、ここに別の三つの事件を時系列に並べていく。すると、共通点が見えてくるんだ。これ全部、暴力団組合、警察や官僚、政府の関係性が噂された事件だ」順に話すぞ――と、汐見は手にしていた書類をこの部屋で一番片付いたデスクに並べていく。他は機材や小道具が邪魔だ。
栄子は椅子から腰を上げ、汐見が並べている書類を覗き込んだ。
A4のコピー用紙二枚に、一つの事件が簡潔に纏められていた。
一枚目に簡潔に纏められた事件の詳細、二枚目に不審点、不明点が記されている。二枚目は汐見の考察結果のようだ。縦に二枚で一件、それを六件分が一列に並べられた。
お前から見て左が古い――と、彼の言うように、資料は時系列になっていた。
左から十五年前の
次に十二年前に起きた
次に並べられていた資料は、九年前の萩乃美代子失踪届けだった。栄子はその資料を見て「あら? これは事件じゃないんじゃない?」と、首をかしげた。
「立派な行方不明事件だ。この事件は特に関連深いと思うよ」
「そ、そうよね。殺人事件ばかりが並んでいたから、なんだか麻痺してたみたい」
栄子は言って、続きの資料に目を落とす。
七年前の
五年前に起きたザフィ仮想通貨事件は、暗号資産のマネーロンダリングを行っていた
最後が三年前の
「資料が抜けている事件は、鏡母子殺害事件、錦戸麻薬製造事件、富永一家惨殺事件の三つだ。そして、行方不明事件を除いた他五つの事件には、共通点が三つある」
汐見は一口コーヒーを含み、喉を潤してから話を続けた。
「一つ目、大規模な事件の割に呆気なく犯人を逮捕。そして真犯人は他にいる、と当時噂が立った事件ばかりだ。理由は明白で、犯人逮捕には至ったがどの事件も証拠が不十分。なのに容疑者は否認も容認もせず、曖昧な供述ばかりを繰り返していただけで有罪を言い渡されている。結局、証拠を揃えるような捜査も行われていないし、犯人逮捕と同時に捜査は打ち切られていた。状況証拠さえ曖昧なまま事件は解決しているんだ」
「確かに――どの事件も犯人逮捕に踏み切るには弱い証拠しかない。容疑者が否定をしなかったから、犯人と断定されただけのようなものね。物証なんてほとんど皆無じゃない。状況証拠にしたって、これじゃあ――」
「そうなんだ。証拠がないのに、呆気なく犯人逮捕に繋がった事件ばかりだ」
「これまでよく問題にならなかったわよね」
「それから、妙に殉職した警官が多い。事件発生当時ではないんだが、関係者がこの十五年の間に事故なんかでずいぶん亡くなってる。確認できただけで三十八人だ。辞職後も含むから病や自殺もあるだろうが奇妙な人数だろ? まあ、関係するかは不明だよ」
「いくらなんでも多すぎる。報復で消された? いいえ、今は置いておきましょう。一つ目はわかった、次を教えてちょうだい」
天使と悪魔――汐見の告げた言葉に「なによそれ。映画のタイトル?」と栄子は眉を潜める。
「天使と悪魔の証言を揃えた。読んでみてくれ、二枚目の方に纏めている」
汐見に促され、栄子は古い順で下段の資料に目を通した。
館には悪魔が住んでいる――鏡母子殺害の事件現場である廃洋館にまつわる噂だ。
天使と悪魔が
悪魔の従者を産み出すために――錦戸麻薬製造事件の犯人逮捕後、匿名での告発があった。当時はいたずらか、スピリチュアル心酔者の戯れ言と処理されている。
悪魔に報い、天使を
あの家族は天使を
どの事件にも天使、又は悪魔のフレーズが入り宗教的な崇拝とも取れる内容だ。
「そして、最後の事件だがな。須藤は萩野優利枝の証言を聞いたか?」
「ええ、聞いたわ! 萩野優利枝は、私の母は冷たい声の男に殺されたのです、悪魔のような男に殺されたのです――そう言ったと聞いた。萩野美代子の件にも悪魔の存在がある」
「最後の共通点なんだが――」
汐見の言葉に栄子は緊張した面持ちで頷いた。
乾いた口腔に唾液を回そうと舌で撫でる。唾液の分泌は微々たるもので、上顎が乾きざらついていた。
「これら全ての事件に、カウンセラーの
汐見の考察結果により、今後の見通しが明白になりつつあった。
聴取を請け負った栄子は、警察署専属の臨床心理士である、楠木慶吉にアポイントを取った。
次に榎本へ電話をかける。数回の呼び出しを経て通話が繋がった。
「報告を聞いてちょうだい。警察は江神の捜査をしない。協力を仰いだけどダメだった。どうもおかしいの。なんだか圧力でも掛かっているようだった。だから私たちは予定通りに独自で捜査を進めていくわね。どこまで調査できるかはわからないけど」精一杯協力するわ――と前置きを入れ、過去の捜査資料を遡った汐見の考察結果を伝えた。
そして、これから楠木慶吉を訪ねるのだと告げてから、なにか進展はあったかと榎本に尋ねた。
神﨑に会った――榎本は腐った声音で、洋介と共有した情報を語った。正治が生きていると知り安堵したこと、失踪理由の憶測、洋介が榎本を訪ねた経緯、など。
『幻覚について知りたい。彼岸の悪魔は今もなお、あなたを蝕んでいる――』
そう洋介に言われ、カッとなって追い返した話しも聞いた。
ここでも悪魔なのかと驚愕に喉が鳴る。
だが、まず不審に思うべきは、なぜ榎本が幻覚を見ていることを彼が知っているのか。いったい洋介がどのような経緯で知ったのか、だ。
そのことを知っているのは、自身と汐見と――栄子は深く息を吐いた。楠木慶吉――栄子は幻覚を見て榎本が苦しんでいると、楠木医師に話し問診してくれと頼んだ。受診した榎本も幻覚を見ていると話したはずだ。
栄子は、洋介とよく話をするよう榎本に告げて通話を切ると、全てを後回しにして署の心療室の扉を叩いた。今すぐ確認すべきことがある。
白を貴重とした狭く閉鎖的な空間。ドクターの座る椅子と患者用の椅子。それを寸断するようにシルバーの事務机が置かれ、ドクターが手にするカルテと三色のボールペン以外、この空間に物はなかった。
「これを見て、思うことがありますよね」ドクター楠木――と、栄子は挨拶もそこそこに、汐見から拝借した資料の一部を楠木医師に渡した。敢えて考察資料は伏せている。
「その件に関しては捜査を中止しろと、上層部からのお達しがあったはずでは?」
「あら、ご存じなんですね。そのお達しが怪しさに拍車を掛けていると思いません?」
それで――楠木医師は力なく息を吐き「どうして私の元へ?」と、虚ろに栄子を見た。
「私たちは江神について独断で捜査をしています。そこで見付けたのが、十五年前、七年前、五年前の三つの事件――その捜査資料に不備がありました。これらの事件を含む、その資料にある全ての事件に、あなたは携わっていますよね」
確かにそうですね――と、楠木医師は億劫そうに、投げやりな感じで言葉を吐いた。
「あなたはお手元の資料を見ただけで《その件は》と、すぐに江神消子を連想なさったじゃありませんか。件の彼のこと、ご存知なんでしょう?」
栄子は苛立ちを噛み締め、強気に返す。その言葉に楠木医師の顔はひきつり、ぐうと言葉の詰まる音を聞いた。肯定と取れる反応に栄子は確信する。楠木医師は江神消子の存在を、六つの事件の謎がなんなのかを知っている、と。
「お願いです、話してください。事件の全容を、抜けている真実を、どうか私たちに教えてください」どうか――栄子は深く頭を下げた。真実を彼の意思で話してほしい。そう深く願いを込める。
高圧的な態度を取っても楠木医師はなにも語らないだろう。これっぽっちの情報量では尋問も出来ない。正直、そんな守りに入った考えもあった。
「業務によって傷つき苦しむ警察官を救うために、ドクター署員専属のカウンセラーになったのでしょ? 誰かを救うためじゃないんですか。あなたの正義はいったいなんなのですか」
駄目元の一押しにと彼の良心へ問う。事件を解決へ導きたいと正直な思いをぶつけた。
亡霊――ボソリと楠木医師は口を開いた。懸命になにかを語ろうとしているが、声は喉に詰り、怯えたように唇が震えている。
栄子は静かに彼を見つめ、続く言葉を待った。
「
楠木医師は一旦言葉を切り「私は亡霊なんかより、音もなく忍び寄る蜘蛛みたいだと感じています。最強の捕食者、とでも言いましょうか――」そう、ゆっくりとした深い呼吸を繰り返した。
ふううと長く息が吐き出し、真っ直ぐ栄子を見据えた瞳には力強い光を宿している。
「これ以上あの名を口にしたくありませんので、ここからは彼と称させてもらいます」
まず始めに彼の容姿ですが――と、楠木医師は前置きを挟み語り始めた。
「満月色の瞳に氷のように冷たい声。精巧な人形のように無機質な美貌をしています」
栄子は楠木医師が語る彼に、諏訪正治の姿を連想していた。まさか、と頭を振る。
「非常に蠱惑的であり、手段を選ばない残虐性を持つ。知性に美貌、冷酷さに洗脳術を備えた驚異の存在であり、人外のカリスマ性を備えています。彼を人と思わない方がいい――。いえ、全く同じ人間とは、血の通う人とは思えない」
楠木医師の言葉に栄子は気圧される。猟奇的な異常者などではなく、それ以上の強い言葉で断言されたのだ。彼の存在に、少しくらい恐怖を感じたって仕方ないだろう。
「彼を初めて見たのは、十五年前――。雪のちらつく事件現場でした。母子の殺害されたあの侘しい廃洋館です。そのときの彼の様相は本当に恐ろしかった。頭から血を被り無表情に死体を見詰める、十歳に満たない子供の姿でした。殺人事件の現場なんです。子供がいれば、まして血を被った子供なら騒動になりますね、普通なら――。けれど彼は、誰の目にも留まらなかった。誰もが気づきもしない。まさしく亡霊と呼ぶにふさわしい存在でした。
私は恐る恐る、彼に声をかけた。大丈夫かい、あの人はお母さんかい――とね。私の問いかけに、あれは違う――そう呟いた彼の声はゾッとするほど冷たく、なんともおぞましくもありました。
ひとまず保護しなければならないかと、私はほんの少しの間顔を上げ、辺りを見回して協力者を探しました。本当に一瞬目を離しただけです。驚きますよ。音もなく、気配もなく、手の届く距離から忽然と姿を消してしまったんです。この上ない恐怖を感じたことは今も忘れませんよ。
まあ、最大の恐怖は――六つの事件全てで、彼を見掛けたことですがね」
「全て、ですか? なぜ逮捕なさらないんですか」
栄子が恐る恐ると問えば、逮捕――楠木医師は呟き、腹を抱えて笑うように、嗚咽を漏らして泣くように、感情の入り乱れる壊れた笑い方をして「あなたなら、なんの容疑を掛けますか」泣きそうな目をして言った。
「なんの容疑、って――。彼は殺人犯なのでしょう? 犯人、なのでしょう?」
「いいえ、彼はそこに居ただけ。限られた人間のみが認識できる輪郭の薄さで、そこに存在していただけ」それだけなんですよ――と、楠木医師は疲弊した声を吐き出した。
確かにその通りだ。現段階では彼に掛ける容疑が見当たらない。江神消子と対峙したとき自身はどうするだろうか――と栄子は考えを巡らせた。
物証どころか証言の一つもない。こんな状況ではどう考えても、逮捕どころか容疑一つ掛もけられやしないだろう。
報告書の件ですが――脈絡なく楠木医師が口を開いた。先までの怯えた様子を引っ込め、震えや弱々しさは消えてる。糸が張り詰めるような重々しい口調で続きを語った。
「その内容を知っている人物は、私と作成者を含めても片手に足ります。そして三件とも、誰が書き換え誰が抜き取ったか、結局のところわからずじまいでした。彼に関する記述や報告に規制が掛かったのには、きちんとした理由があります。彼に関する報告を行った職員、書類を作成した職員など、深い関係者は例外なく――殉職しました」
楠木医師は唸るように言って目を伏せた。しばらく沈黙し、再び強い眼力で栄子を見る。
「報告書に携わった人以外も、平穏を失った人間は多数いますよ。これらの件に関わった人間や内容を知った人間も、死ぬか失踪しています。未だに無事に過ごせているのは、私と他に数名だけ。どういった理由で生かされているのかはわかりかねますが、役が済めば消される運命にあるのは間違いないでしょうね――」
そう言って薄く笑い、語り終えた楠木医師の瞳には、恐怖が色濃く浮き出ていた。
こうもあからさまに恐怖を掻き立てられてはさすがに堪える。楠木医師に感化されたように、栄子も怖じ気づき始めていた。指先が震え、心臓が強く速い音を立て鼓動を刻む。気道は萎縮して細く締まり、呼吸やら言葉が喉につっかえた。
「須藤さんも気を付けてください。彼の名に触れた者は、例外なく不幸の道をたどっています。隠蔽してまでも口を閉ざすのはそのためです。本当に呪いなんかが存在するようだ」
「そのようですね。妙に亡くなった警官が多い理由がわかりましたわ」
彼に関しての話はもう十分だ、と言いたくなった。なぜだかわからないが、とにかくもう十分だった。
帰りたい――。
席を立とうと両足に重心を移した。急に視界が鮮明になり、荒い流れで血液が肉体の中心部に集中する。
栄子は危なかったと胸を撫で下ろし、椅子に重心を戻す。大切なことを聞き忘れていた。最も重要な用件だ。
「誰かが榎本の症状を尋ねて来ましたか? または誰かに話しましたか?」
との栄子の問いに楠木医師は「いいえ、誰にも尋ねられていないし、話していません。患者のことを部外者に話すわけありませんよ」と首を振る。
「データが流出した痕跡は? ある新聞記者が榎本の幻覚について知っていました。入手経路を探っています。心当たりは――?」
「全くもってありません」
今はその言葉を信じます――言って栄子は楠木医師に挨拶し、部屋を出ようと席を立つ。
地から足裏を押し返されるような、奇妙な浮遊感を感じながら、慎重な足取りで心療室を後にした。重々しい息を吐き、新たな空気を肺腑いっぱいに吸い込んだ。
引きずりたいほどに重い足を前へ押し出し、研究所を目指して歩みを進める。
安心できるなにかが欲しい――妙にあの給茶機の、薄いコーヒーが恋しくなった。
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