――唇紅―― 1 彩る死体



「他人の腹を裂くってどんな気分なんでしょう」ご存知ですか?――と緊張感のない部下から不敵な声音で問われ、白ける不愉快さを感じながらも律儀に返答してやる。


「俺が知るわけないだろ。その問いは聞く相手を間違えてる」


 元県警の刑事、探偵業を営む榎本えのもと綴喜つづきの見下ろす先には、枯れの目立つ雑草、湿気を含んだ赤土の地面に、無惨に腹を引き裂かれた若い女の死体が横たわっていた。

 こんな場所にあるはずのない、淡く揺れる不審な灯火に誘われ、山間の自然豊かな森の中へと足を踏み入れた。その渓流の畔でつい今し方、女性の惨殺死体を発見したのだ。

 死体の傍らに屈む風貌のよい男が諏訪すわ正治しょうじ。榎本の弟子であり部下だ。


「相変わらずお前は――こんな酷い死体を見ても、眉ひとつ動かさないな」


 彼は榎本のぼやきを鼻を鳴らして一瞥し、裂けた腹に視線を向けたまま応える。


「ある程度耐性がなければこんな仕事勤まらないでしょう。感情移入しても、恐怖や嫌悪感を抱くことも調査の妨げにしかなりませんよ」

 そう淡々と抑揚なく返答した。


 確かにそうなんだが――榎本は一瞬言葉に詰まり「死体には触れるなよ」と、一言注意して見守る。

 不惑を過ぎても死体には慣れないし、意見を貫くには踏ん切りが悪い。榎本は長身ゆえに寸足らずなコートの襟を片手で詰め、首をなでる外気を遮断した。

 反して部下は、普段の柔和な顔を無表情に変え、忙しなく死体を調べている。


 ご心配なく――言って死体に鼻先を近付け「比較的新しい死体のようです。死後半日ほどでしょうか。首に締め付けたアザがありますね、死因はこれかな?」と、親子程も年齢差のある彼の言動に、お前の度胸には感服するよ――と榎本は白髪を隠した硬い毛質の頭を掻いた。


 限界まで見開かれた目。衣服は剥ぎ取られ、白い肌が暗がりで発光しているかのように浮いていた。揺れる蝋燭の灯火が、乳房にゆらゆらと影を成す。魚の骨のような人間のヒラキ。喉から恥骨までを縦一直線に裂かれ、みぞおちから骨盤までを均等に横三本切られている。腹の肉はべろんと開かれて、隠れているべき内蔵が丸見えだ。紅黒く彩られた乾いた口はだらしなく開かれ、今にも断末魔の叫びが轟きそうで、肌が粟立った。

 こんな死に様だと言うのに、品よく彩り小さな花を乗せた爪が不気味だ。


「僕のこれは度胸とは違います。嫌味な言い方しないでください。榎本さんはご存知のはずだ――」

 言って正治は立ち上がり、深緑色のスーツに付いた砂埃を手で払う。すっと上げられた細面の美しい顔には、見慣れた柔らかな笑みが映されていた。


 榎本は背広の胸ポケットからタバコを取り出し火を着けた。煙を深く吸い込んでから、ゆっくり吐き出す。

 ちょっとやそっとじゃ恐怖を感じないんだったか――榎本は紫煙を再び吸い込んだ。危機管理能力に欠落があると判断され、警察学校で首位だったはずの正治は、警察官になれなかった。途方に暮れていた正治を拾ったのが榎本だ。榎本は数年前に県警を辞職し、私立探偵の事務所を開設した。正治は榎本の一番弟子だ。


「この被害者も唇紅の殺人鬼リップスティック・キラーによる犯行で間違いなさそうですね。胴を切り開き、傍らにキャンドルが灯され、唇で血液が凝固しています。絞殺は初めてですが――」


「断定するには早いが、」おそらくな――重く言って、榎本は紫煙を吐いた。


 S市の外れにある鏡町を訪れて三日が経つ。その間、四人の犠牲者を出す猟奇的な連続殺人事件が起きていた。たった今、榎本と正治が五人目の被害者を見つけたところだった。

 被害者は十八歳から三十五歳の若い男女で、彼らに接点はなく、極めて猟奇的な無差別連続殺人事件として警察は捜査を開始した。ところが、猟奇殺人を繰り返す犯人は未だ捕まえるどころか、なんの情報も手に入れられていなかった。同一犯の犯行と裏付ける証拠は上がらないが、被害者は共通して腹を引き裂かれ、殺害後に被害者の血液を口紅にみたて唇に塗られていた。


 この事から一連の事件の犯人を《唇紅しんく殺人鬼さつじんき》リップスティック・キラーと呼び、マスコミが騒ぎ立てている。


 あっ――と、不意に正治が声をあげた。

 左手の腕時計をちらと見て「ようやく来ましたよ。通報してから二十分近く経ってしまいましたね」のろまだ――と、苦く笑い言った。

 雑草までもが鬱蒼と茂る樹林の隙間から、蛇行する山道を上ってくるパトカーの赤色灯が、チラチラと見え隠れした。次第にサイレンが近づき音量が増す。


 この数日で馴染みの顔となった刑事にことのあらましを伝え、榎本と正治は連日世話になっている鏡乃山荘へと戻ってきた。百年は歴史のある古い洋館。その借りている客室のソファにどっぷり身体を沈め「まったく、とんだ浮気調査だ――」両足を投げ出して榎本は鬱憤を吐き出した。

 雑にネクタイを引き、本日何十本目かになるタバコに火を着ける。紫煙とわずかに甘い独特の臭いが部屋に充満した。


「浮気調査に来て連続猟奇殺人事件に遭遇するなんて、まったくレアなケースですよ。あなたもしや」語り継がれるほどの名探偵なのでは――含み笑い正治は言った。


「どっかの推理小説じゃねえんだぞ。俺は迷子のペット探しと、もっぱら浮気調査で小銭を稼いで細々暮らす、大きな事件には縁のない地味な探偵だ」


「存じています。ただ、僕はベターな展開だと感じていますけどね」


 そう楽しげに言って、どうぞ――と正治は薄く柔らかな笑みを浮かべ、珈琲の揺らめくカップを榎本に差し出した。熱いカップを片手で受け取る。


「ベターな展開、ね。そう言やお前、無類のミステリュー好きだったな」


 榎本は一口、香り高い珈琲をすすった。旨い。正治の淹れる珈琲は、他のものと違う独特の旨さがある。いつも隠し味はなにかと聞けば、特別なにもしていないと答えるのだ。榎本は不思議に思いながらも正治の珈琲を気に入っている。一口、また一口と珈琲をすすった。


「一泊で帰る予定がもう三泊だ。そろそろ本領発揮して犯人を特定してはいかがです」


「俺みたいなしがない探偵にそんな真似ができるもんか。正治、お前こそどうなんだ。お前の好きなミステリュウは、探偵の弟子が名探偵だったってことはないのか」


「なくはないですが、僕の好みではありません。元刑事の肩書きを持ち、今は私立探偵事務所を構える榎本さんこそ、名探偵のポジションに相応しいと思いますけどね」


 正治はたおやかに笑い、自分用に淹れた珈琲を口にした。榎本には正治のどんな動作も優雅に見え、見飽きることがない。余程の品格な家庭の出だったのだろうと想像できた。


 正治との出会いは三年をさかのぼる。二十歳を越したばかりで途方に暮れていた彼に、うちへ来い――そう榎本は声をかけた。

 昔の同僚と酒を交わしながら逐一話題に出ていたから、彼がどんな生徒だったのか聞き知っていた。座学はもちろん武術にも長け、細かいところに気のつく生徒。物静かだが物怖じしない強い精神を持ち、意思も強く志も高い。同僚は優秀だと言っていた。希に見る秀才であると。ただ、共に仕事をすることはできないのだとも言っていた。諏訪正治と言う生徒の欠点。最大と言える欠点。それは、恐怖心を抱かない――ことだった。危険と隣り合わせの職業では致命傷になり得る、劣ってはいけないもの。恐怖を感じないと本能的に危険を感知できないし、危機感を抱けない。それは勇敢ではないし勇気でもない。

 正治は基本的に無難な手順を踏まない。チームとの相談もそこそこに、筋道が立てば単独で行動を開始してしまう。彼は早さにこだわっていた。早ければ早いだけ被害がないと信じて疑わず、結果的に全て無力化させることができていた。結果だけに重きを置けば、優秀な成果なのだ。有能な彼だからこそ成せる技であるが、同時にとても危険な行為になり得る。諏訪は仲間を破滅させる恐れのある存在だ、と判断された。

 臆病なくらいがちょうどいい――ある教官がそう言ったそうだ。


「なあ正治、お前は悔しくはなかったのか」


「急になんですか。なんの話です?」


 警官になれなかったことだよ――と、短くなったタバコを灰皿に押し付け、榎本は今しがた脳内に巡らせていた内容を話した。


「ああ、警察学校の。特別悔しいとは感じませんでしたよ。その道の方々の目には、不適合だと判断する要因が見えていたのでしょう。恐怖に鈍感というだけで不採用になることはないでしょうし、なにか起因するものがあったのだと思いましたから」


「お前は謙虚だな」


 榎本の言葉に、いいえ――と正治が言葉を返す。


「そうじゃないんです。マニュアルを好まず効率ばかりを重視し独自のやり方、判断を優先させてしまうことは再三注意を受けました。それに、僕は榎本さんに声をかけていただいたこと」誇りに思っているんですよ――言って正治はふわりと笑った。


 正治はストレートにものを言う。それに、細かく状況を把握する男だ。ペンをと思えばペンを、判をと思えば判を、言葉にする前に差し出してくる。何が必要か、何が足りていないか、なにを求めているのかをよく見てよく考えているのだろう。こちらが気付き行動する前に目的のものを差し出してくる。お陰で榎本は少しだらけてきている節があった。

 相性がいい、楽だと言ってしまえばそれまでだが、どうも腑に落ちない。

 わずかにグレーがかったあの瞳に、全てを見透かされている気さえする。諏訪正治は榎本にとって都合のいい作り物のような存在に思えた。

 一筋の不気味さが過り「お前は帰ってもいいんだぞ」妻子がいるじゃあないか――と榎本は要らぬ詮索をかけてみる。


「心配要りませんよ。妻も娘も、僕の仕事をようく理解しています。まめに連絡はしていますし、妻の話ではお義父さんを招いたようで、一緒なのだと言っていました」


「それにしたって、一泊と言って出てきたのだろ。もうじき三泊だ。長すぎやしないか」


 目を見張る美人な妻に、二歳になったばかりの娘。片時も離れたくなかったり、すぐにでも会いたいとは思わないのだろうか。彼の家族に対する執着が、榎本には淡白すぎるように感じられ、そんな単純なものかなと一つ唸った。


「亭主は元気で留守がいいと言うじゃあありませんか。これまでも不規則な生活をしていましたし、妻も娘もなにも言ってこないあたり、三人で親子水入らず、気楽に過ごしていることでしょう。彼らなりにやりたいこともあるでしょうしね」


「またお前はそうやって」寂しいことを言う――榎本は言って、平然と愛情が冷めた風なことを口にする正治に、唯一の血縁者である実父はどうしているのかと尋ねた。


「父は相変わらずです。三人の弟子を迎え、そうそう僕を気にかける暇はありませんよ」


 そんなものかなあ――榎本は呟き、ふうと煙を吐いた。正治の実家は寺で、住職の父は数年前に弟子をとっていた。息子である正治ははなから家業を次ぐ気はなかったし、父親も正治を説得することなく弟子を迎え入れた、と正治に聞かされている。


「そんなものですよ。僕の回りには僕を含め、無関心な人が多いと言うだけです。類は友を呼ぶと言うじゃあありませんか。榎本さんには理解しがたいのでしょうけど、僕たちは僕たちなりの接し方や幸せがあるんです」


 やはり俺は――榎本は一息いれ「寂しいと思うよ」ぽつりと吐き出した。


「皆が他人に向ける関心を自分に向けているだけです。だから寂しくないし」変えたいとも思わない――低い声色で正治は言った。

 彼の穏やかな瞳が、一瞬険しく濁ったように見えた。気のせいだろうか、なんだか雲行きが怪しいように思う。


 ねえ、綴喜さん――不意に正治は榎本のことを姓ではなく名を呼ぶことがある。過去に、なぜかと聞けば嫌かと返された。別段、不快に思うわけでもないし、なにかに差し障るわけでもなかったから、正治の好きにさせている。理由なんてきっとない。


「ねえ、綴喜さんったら」


「なんだ鬱陶しい」と、タバコの空箱をテーブルに放る。気まぐれに呼ばれる名前。綴喜と呼ばれるのは二人きりのときに限ったことではないが、なにか違和感があった。夫婦のようだと思うこともあるが、いくら正治が美しい姿をしているからと、そんな甘酸っぱい雰囲気にはなりやしない。わずかにではあるが底知れぬ不気味ささえ感じた。


「もう、つれない返事ですね。いくら話したって僕の家族観は変わりませんよ。そんな話はよしにして、足留めを食らうはめになった要因について話しましょう」


 要因ってなんだ――と、気の進まない榎本はあえて疑問を投げ掛けた。わかりきってはいることだ。唇紅の殺人鬼についてで間違いない。


「もう五人目なんです。食い止めなければなりませんよ」と、切れ長の目が金属的な光を放った。心底、真剣な表情だ。瞳から表情から、とてつもなく強い意思が感じられる。


「俺だって気にしている。これは呪いだとか噂が立ち初めたからな」


「呪い、ですか?」


 これを見ろ――と、榎本は一冊の新聞を正治に投げて寄越した。普段、薄開きの目が驚きにぐりっと見開かれる。

 正治は新聞を受け取り「なんです?」と、柔和な細目に戻し、小首をかしげた。


「今朝の新聞だ。さっき見たんだが、見開きにサイコキラーの記事が載っている」まあ見てみろ――と、榎本は記事を読むよう促した。


「厄災再び! 鏡の呪い――」


 正治はつらつらと記事を声に出して読み始めた。


「『S県某市の山間地にある鏡町の集落。その緑豊かな大集落で起こっている連続殺人事件が、鏡連続猟奇殺人事件だ。鏡町のこの集落では、十五年前にも猟奇殺人事件が起こっていた。警察は十五年前の事件との関連も視野に入れ、捜査にあたっている。現場は過疎化の進んだ山間、防犯カメラや目撃者も期待できず捜査は難航し、未だ犯人に繋がる証拠は上がっていない。地元住民は同事件をこの地に伝わる怨霊の呪いであると恐れている。なんの痕跡も残さず犯され続ける殺人に、人外な力が働いているのではないかと、住人は少なからず不審を抱いている』へえ――怨霊の呪いですか。十五年前の事件でも同じ噂が立っていましたね」


「馬鹿げているよ、呪いなんて。地元の小さな新聞社だからネタがないんだろ」


「唇紅の殺人鬼は十五年前に起こったサイコキラーの模倣犯であると言われています。僕も可能性としては高いのではないかと思いますよ」


 苦い事件だ――榎本は額に手をあてがい、ううむと唸った。嫌な汗が出る。

 当時、榎本は二十半ばを過ぎていた。県警の捜査一課で新米刑事をしている時分だ。犯人逮捕に繋がった事件、二〇〇X年十二月に起きた鏡母子殺害事件だ。母子が喉を深く切りつけられ殺害され、近所に住む男に容疑がかかった。


「犯人は山居哲雄当時三十六歳、確か身長が百九十センチ程の巨漢でした」


「ああ、でかかったよ。警察官が怖じ気づくぐらいにがたいがよかった」


「貧相な警官ですね」


「お前とは違うよ」


 なにもわかっていないなと言う風に榎本が言うと、そうですかあ?――あっけらんと正治は返答し、静かにおかしそうに笑った。

 本当にお前は――途中まで言って、辞めた。短くなったタバコを重厚なガラス製の灰皿に押し付ける。灰皿には吸い殻が積み重なっていた。部屋に戻ったときの灰皿は清掃され、灰の一つもなかった。無意識の内に何本も吸っていたようだ。榎本は新たに取り出したタバコに火を点ける。

 山居哲雄の模造犯か――三大欲求しか持ち合わせていないような、理性の欠片をも失った知能に障害のある大男。それが山居哲雄だった。榎本自身も長身であるし、鍛え上げた体躯はしっかりと厚みもある。だが、山居はそれと別な体格の良さだった。鬼や獣のように厳めしく、不気味な圧迫感を持っていた。

 男手数人係で身柄を拘束したものの、いくら取り調べを行ったところで、理解力以前にまともに言葉を発することもできない。先天的な重度の障害を持つと診断が下り、責任無能力者と判決された。どうやって犯行に及んだのか、誰がなんの目的で殺人を犯したのか、なにも証されることなく終決したのだった。


「確か霧のようにポリスラインを越え遺体を運んだと。榎本さんは現場にいましたよね」


 榎本はため息混じりに、いたよ――呟き、灰皿に向かって爪先程の灰を落とした。


「山居哲雄は突如現場に姿を現し、警察陣の目の前で遺体を手に取ろうとした。捜査を開始したばかりの現場を荒らされては叶わないと、現場警察が止めに入り事なきを得た。その時山居は「運ぶ、最後、全部」と呟き、警察の隙をみて遺体を担いだ。当時指揮を執っていた警部が山居の呟きに疑念を抱き、遺体を運ぶ先へ山居の後を追った」


「――あったのですね」


「あったよ。死体の山が」あったんだ――榎本は深く這うように吐き出し、過去の情景を思い返す。

 古びた洋館。重厚な扉。埃っぽい空気。軋む板張りの床。二階にあった一室。一切の窓を板で塞いだ暗く淀んだ空間。部屋の端に積み重ねられた、首を落とされ腹を切り開かれた死体の数々。死体の山に、山居は母子の遺体を放った。さらに積み重なる死体。


「母子の他に十八人の男の死体が積み重ねられていた。真冬で気温が低かったからか、腐敗はさほどなかった。だが、酷い臭いだったよ。鉄臭さに古い肉の臭いに――とにかくなんとも言えない生臭さだった」


 思い出しただけで胃酸が喉元へせり上がってきそうになる。気分が悪い。山となっていた死体は全て鑑識に回された。一つの例外もなく腹を裂かれ、首は切り落とされ、あばら骨は抜き取られ、様々な体液にまみれていた。いくら聴取しても山居は口が聞けない。事件が解明されることなく山居は不起訴となった。


「山居の事件への関与は否定しませんが、他にも犯人がいる可能性を考慮すべきでは」


「なにも見つからなかったんだよ――」


 榎本は謎ばかりの、解明に至らなかったこの事件を酷く鮮明に覚えている。被害者女性の名を江神慶子、三十二歳。慶子の子どもと思われた幼児は、出生届が出されておらず両親不在の無戸籍者だった。DNA鑑定の結果、母親は江神慶子で間違いないと結果が出ていたが、父親は不明。山居哲雄ではなかった。


「あの子には、名前くらいあったんだろうかね」


 榎本はぼやく。長らく聞き込みを行ったが、ついに子どもの名前が割れることはなかった。出生の期日さえわからずじまいだ。


「名前くらいあったのではないでしょうか。推定二歳から三歳の子供でしたし、なにかしらの呼び名を与えていなければ不便じゃないか、と僕は思いますよ」


「そうかねえ。だといいが――」


「名がある方がよいのですか?」


「お前はなにを言っているんだ。そうに決まっているだろう」


「そう、ですね。すみません」つい変なことを口走りました――と正治は言ってわずかに頭を垂れた。右手に持つ珈琲カップを睨み付けでもしているように、視線を落としている。


「なあ正治、お前は自分の名前が嫌いか」


 返答はない。榎本は正治の無言の訴えが苦手だった。なぜだか胸がツキリと痛む。

 正治は、自身が独特な感性を持ち、世間とは感覚のズレがあると自覚している。これは一種の癖だ。余計なことを口走らないよう、じっと口をつぐんでいるだけ。が、榎本にはそれがどうにも気持ち悪い。正治を取り巻く空気感が変わるのだ。そして、榎本はそれを敏感に感じ取ってしまう。だからと言って突っ込むようなまねはしない。本能の波が触れてはいけないと、湖面をざわつかせるのだ。


「ここ鏡町の山奥にある廃墟で起こった殺人事件でしたね。五百坪以上なんですって。田舎ではありきたりな坪数でしょうが、都心からすれば豪邸ですよ」


 唐突に正治は語りだした。突拍子もないが、無言でいられるよりはずっといい。


「田舎は土地が有り余っているからな。周囲はほとんど空き家で、現住している近隣の民家までかなり距離がある。犯罪を犯すにはうってつけの立地だな」


 家族はいなかったのかとの問いに、榎本は苦い顔をして答えた。


「父親は事件の数年前に病死している。兄弟はなく、母親も親族から見放されて一人で山居の世話をしていた。聴取に行ったときのやつれかたは、なかったな。惨いものだよ。たった一人で背負わなきゃならんかったんだ。相当な苦労があったんだろうさ」


「ちょっとやそっとの物音じゃあ目覚めない程度に疲労困憊だった、と――」


「山居が検挙されて過労とストレスに倒れ、入院から幾ばくもなく」逝ったよ――榎本は溜め息混じりに言葉を吐いた。この事件を思い出すと、何故だか酷く疲れる。山居の母親は本当に彼を愛していた。性に依存しているが、純真無垢で掛け替えのない存在だ、と。先立つ無念に顔を歪めていた。


「山居は尋常じゃないほど性欲が強かったようです。施設内でも職員の手に負えない程に。力加減を知らない怪力の大男でしたから、一端の介助士程度では歯が立ちません。性別問わず襲い掛かっていたようですよ」


「嫌に詳しいな。お前は当時小学生くらいだったろ」


「とても異質な事件でしたから、警察学校時分に調べていたんです。なぜでしょう、彼の暴力性は立件されていませんし、過ぎる程の素直が利用されたとは考えませんか。実は僕、この事件には真犯人がいると」踏んでいます――正治の眼光が強く、異彩を放った。


 正治、それ以上は――榎本の中にただならぬ不安が広がり、正治の考察を遮ろうと声を上げた。潜在意識の奥深くが、なにかに揺り動かされざわめいている。

 榎本の乱れる心も知らず、淡々と正治は続けた。


「犯罪を企てる知力のない者に、罪をなすりつけているようでしょう? 僕にはどうしても、棘の刺さったような違和感がぬぐえないのです。チクリ、チクリとするあの感じ」本当に模倣犯なのでしょうか――と薄く淫らに目を細めた。


 榎本は正治の妖にして艶な瞳に恐怖を感じた。正治! 黙るんだ――咄嗟に声を張り上げ、語りの続きを妨げた。もう一度「黙るんだ」と低く呟いた。幼い子どもの幻影が見える。血に濡れた、美しい容貌の子ども――。

 榎本の胸には小さな棘が刺さっていた。触れてはいけない、抜いてはいけない小さな棘。榎本は軽く頭を振り、少し温くなった珈琲を口に含んだ。


「顔色がよくないですよ、綴喜さん」


 疲れた――と榎本は顔にまとわりつく甘ったるい声を拭うように、重く吐き出した。


「そうですか――そろそろお休みになりましょう。僕もお暇します。また明日の朝に」


「ああ――おやすみ」


 ふと腕時計に視線が落ちる。短針は二三時を回っていた。今、本当に疲れている。全身が鉛のように重く、立ち上がることさえ億劫だった。

 十五年前の殺人事件。この事件を思い出すだけで頭が重くなり、脈拍が増す。普段となんら変わりない正治の存在をも、なぜだか不気味に、さらには恐ろしく感じていた。

 なにか異質だ――風呂は明日の朝に予定し、榎本は適当に着替えてベッドに潜った。とにかく眠りに落ちてしまいたかった。このまま深淵の闇に沈み混むのではないかと思うほど、身体が重い。回転性の目眩に胃が伸縮する。

 不安だ――身に危険が迫っているとでも言う風に、底知れない恐怖が沸いてくる。

 眠りたい――眠りたい、眠りたい。刻々と刻まれる壁掛け時計の秒針が、嫌に耳につく。規則正しい音が針となり脳を刺した。



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