羽囮同‐おとり‐

神﨑らい

――美代子――


 悪魔と対峙した経験? バカを言うな、あるわけがない――。


 呻吟しんぎんを映す瞳に私は貫かれた。視線を逸らす以前に表皮を震わすことも叶わない。冷えて痺れた頬を蜘蛛が這い、体躯を覆う細やかな毛が肌をくすぐる。不快に思っても、振り払う余裕などありはしなかった。私の視線は捕食者に貫かれているのだから。


 ゆらゆらりと小さなキャンドルが一つ、冷たく暗い室内を淡く照していた。儚く揺らめく唯一の小さな灯火。こんな暗闇では心許ないが、ないよりずっといい。私はささくれた床に、両手足をきつく縛られ寝転がされていた。視界は狭く、呼吸の凍てついた白さだけが目の前に漂っている。全身が酷く痛むし、寒さに指がちぎれそうだ。

 背広をどこで脱いでしまったのか――初老の祝い酒もすっかり冷めていた。


 刺激的な異臭と妙な粘り気のある水音。

 あが、あが、がっ――喉奥から漏れ出て、静寂の中を跳ねる苦悶に染まったそれは、愛する妻の呻きだ。妻は椅子の足に脚を、背もたれには胴を、背もたれを後ろ手に抱くように両腕を、細い結束バンドで固定されていた。大股に開かれた白くもっちりとした脚が、ガクガクと震えている。

 私は妻に声を掛けようと咄嗟に唇を震わせ、ぶちっ――不快な音に蝸牛かぎゅう神経がざわついた。


「ひぎゃあアアアアアアア――――――!」


 喉を突き破る断末魔の叫びが放たれ、激しい苦痛と不快感を伴い私の脳をつんざいた。

 弾き出された絶叫が外界を遮断した狭い空間を跳ね回る。反響する空気が粘り気を帯びて、濃く、重くどろっと顔にまとわりつき、皮表から染み込み脳へと侵入し脳髄をざわざわと這い廻った。皮膚の中や耳、毛髪の合間で虫が蠢いているような不快感だ。


「やめろ! 頼む、お願いだア! もうやめてくれエ――!」


 堪らず叫んだ。渾身の力で吐き出した声はかすれ裏返り、震えに震え嘆かわしい。悪寒が走るように内臓がゾクゾクと蠢く。腹筋に力を込めても治まらない。妻は激しく全身の筋肉を収縮させ、失禁していた。勢いのよさを示す音がよく響き、年齢に背く短いスカートを履いているものだから、尿が足を伝い、椅子から滴り床に広がるさまがよく見える。


 コツン、コツン――乾いた足音がゆっくり私の枕元に歩み寄り、氷柱を連想する冷徹な声で、なぜ――憎いほど静かに澄んだ返答が降った。懇願はたった一言に圧し潰される。


「私が悪かった!」と、三度も四度も繰り返す。自由の聞かない体で正座をし、床に額を打ち付けて謝罪した。両腕は背に縛られ床に付くことができない。腰から頭の先まで真っ直ぐに、前後に振り乱す。頭がこんなに重いものとは知らなかった。


「い、言う通りにするよ! だから、頼む! これ以上は――」


 クツクツと忍ぶ笑い声が、鈍い銀の光を放つ針のように降り注いだ。亡霊のようなおどろおどろしい影が笑う。陽の元で聞いたならば気にも止めない小さな含み笑い。たったそれだけでも怒りや当惑を押し退け、空間の全てを恐怖一色に染め上げるに充分だった。


 絶望を映す冷血な瞳が語る。本当にそう思っているのか――と。


「思ってる! 誓うよ! 思ってる!」

 何度も繰り返し叫ぶ。心から腹の底から叫んだ。


 ふうん――と、いかにもそっけなく、さも興味ないといった風な返事が宙を舞う。返す気のない、やり取りをする気もない冷徹な反応。細く澄んだ声なのに、酷く残酷に歪みやけに重苦しく、万力でこめかみを締め付けるように脳神経が圧迫される。


 コツン――、カツン――、私の頭上を跨いで足音が過ぎ去り、長く華奢な手に握られたニッパーから一滴、液体が降ってきて埃まみれの頬に垂れた。妻の血だと思った。刺さる冷たさにゾッと背筋が凍る。恐る恐る妻に目を向けた。白目を剥き、ぽっかりと開かれたままの口。涙に鼻水、汗、唾液を垂れ流し、あまりの苦痛に痙攣を起こしている。


 ニッパーを握る影が、カツン――靴を鳴らし、妻の背後で止まった。


 スッとしゃがみこみ、ぐちっ! ぶちぶちっ――と奇怪な音を立て、ニッパーの歯が容赦なく妻の指を引きちぎる。

 指先から順に少しずつ少しずつ、肉に骨に、鈍刃が噛みつき喰いちぎってゆく。骨を砕き肉を引き裂く音が不快でたまらなかった。ドロッとした振動が耳から入り、あらゆる神経を撫で付け、脳をまさぐり、内蔵を掻き回しながら体内を這いずり回る。ざわざわ、ぞくぞくと総毛立ち、全身を引っ掻きたい衝動に駆られた。


 時間の経過などわからない。身毛だつ悲鳴が上がる度に、妙な時間の長さを感じる。妻の傷を見る限り、長時間拷問が続いているのだと伺える。血液が凝固し膿み始めているし、肘の上まで原型を留めないほど抉れて爛れ、乾いた下からジクジクと体液が滲み出し傷を濡らしている。なぜ、妻がこんな凄惨な目にあわされているのか、なぜ、その惨たらしい姿を見なければならないのか。なぜなぜなぜ――そればかりが脳内を巡っていた。


 ぐちっ――! ぶちっ、ぐちゅいっ――!


 不快な音に総毛立ち、咄嗟に耳をふさぐ。


「うぉごあああああアア――! ぐぎゅうあああアアアアッ――!」


 妻の絶叫に肩が跳ねた。目を剥き口角を裂く程口を開け、凄まじい形相で頭を振り乱し唾液を撒き散らしている。つっと視線が下がり、手先に釘付けになった。


 ぐち、ぐち、ぐちゅっ――爪を剥ぎ、なまくら刃で肉を挟み押し潰し引きちぎる。筋に鈍い金属刃がごりごり当たり、バキッっと高い音をたて指の骨が砕けた。ぐちゅにちゅと血の溢れ出る肉の音が耳にへばり付く。不快だ。不快だ、不快だ、不快だ――! 気持ち悪くて堪らない。股間に生暖かい恐怖が広がる。凄絶な悲鳴に俺は狂いもがき、嘆かわしい喘ぎが口から漏れ、無意識に全身が暴れた。


「ひぎぎぎいいいいいいいいっ――――!」


 激痛に悶絶する悲鳴、絶望に染まる断末魔の絶叫が鳴り渡る。空間が張り裂ける程の悲痛な叫びは、耳から押し入り内蔵をかき乱して、臓物や血や吐瀉物なんかを引き連れ、どっと外へ吐き出されるような不快感が全身を駆け巡る。永劫続くほど尾を引き、ぐわんぐわんと狭い空間を反響していた。


「うわああああああああああああ――! やめろおおお! やめてくれえ――!」


 出る体液の全てを垂れ流し、全身を振り乱し狂い叫んだ。やめろと叫んでも、自分が代わるとは言えなかった。頭の隅で、実害を免れていることに安心感を抱いている。

 ぶちっ――! ぐちゅっ――不快な音に耳の奥で虫が這う。銀紙を噛んだ時のあの感じ。肋の内側をなでられるような音が続く。躊躇いなく淡々と、鈍刃が肉を細かく引きちぎっていく。音を聞く度に脛椎やら顎やらがざわめいて、耳を覆いたくて堪らない。


「んぐうおおオオオオ――! あかががががががっ! ぐえあああ、あがっあがあっ!」


「ひやあああアア――っ! 美代子おっ!」


 哀れな悲鳴が込み上げ呆気なく自身の口から吐き出された。涙や汗や鼻水やら、妻の血や肉片やらが閉じることもできない口へ容赦なく入ってくる。

 妻は椅子を大きくガタつかせ床をきつく踏みしめた。脳天を突き破る悲鳴を上げ、全身を暴力的に痙攣させている。彼女は再び辺り一帯に輝く尿を放出する。大きく開かれた股から勢いもすごく、ビシャビシャと飛沫が飛び散った。同時にショーツの隙間を抜け軟便が推力そのままに噴射された。椅子の台座や床を汚しぬらぬらと土色の鈍い光を映している。


「うんっぐかぁああっ――! んがっあっ、おあっ、うおんっがっ!」


 妻は剥き出しの白目を充血させ、吐瀉物と唾液なんかが入り雑じった泡をドロドロ吐き出し、奇妙に呻きながら激しく痙攣し続けている。

 後ろ手に縛られ指を失った、肉塊と化した手がたけり狂っていた。臓物が絡まり合いできたような肉の塊が、皮膚として腕から垂れ下がり、体液が止めどなく流れ出ていた。わずかに肉より飛び出した骨。それが血や組織液で湿った肉の内側で、狭苦しくひしめき、身をよじってうごめくウジに見えた。ピチャピチャと肉片と血液が飛び散り、床に広がる糞尿と混ざりあい不気味にてらつく。


 眩暈がした。喉を焼ききる酸が口腔まで逆流し、熱を持った食道がヒリついた。


 足音が耳元に止まり、凍てつく視線に見下ろされている。その目はほくそ笑み、嗜虐色をした瞳が悲痛な残響を映し出していた。


 あははははは――と、誰かの高らかな笑い声が遠くに聞こえた気がした。もう、なにも聞きたくない。聞こえない。凍えきった冷たさを覆う温かさを下半身に感じながら、白目を向き瞼を閉じる。全てを拒絶し、微睡みのねっとりと絡みつく深みに堕ちた。



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