夢想の反芻に囚われて
夢真
1日目 兆候
――――――――――
朝の空気は、少しだけ冷えていた。
ふと時計を見て、思わず足を止める。
――早い。
――こんなに早いはずがない。
普段と同じ時間に家を出たはずなのに、どういうわけか、今日は学校に着くのが早かった。
(……いつもと何が違ったんだろ。)
急いで歩いたつもりもないのに、気づけば校門の前にいた。
むしろ、ぼんやりと考えごとをしながら、いつも通りのペースで歩いていたはずだ。
それなのに、こんなにも早く着いた。
(まぁ、いいか。)
深く考えても仕方ない。
まだほとんど誰もいない校舎を歩きながら、教室の扉を開けた。
がらんとした教室。
静まり返った空間に、一瞬だけ違和感を覚える。
私の席に、見覚えのないもの があった。
――それは、一冊のノート。
開かれたまま、ページが微かに風を受けて揺れている。
(……誰かの忘れ物?)
そう思いながら近づくと、ページには文字が書かれていた。
単なるメモや授業のノートではない。そこに並んでいたのは――詩、のようなもの。
「……結構書いてある」
ぼんやりとした筆跡で、短い言葉が連なっている。
それは、ただの言葉遊びのようでもあり、誰かの願いが込められているようでもあった。
パラパラとページをめくると、最後のページに、特に強く書かれた文章が目に入った。
――私は、もっと普通の女の子になりたい。
――私は、誰かに認められたい。
――私は、ここにいたい。
(……何これ?)
私は、ふとノートの裏表紙を確認する。
持ち主の名前は、どこにも書かれていなかった。
当然、私の名前である「
――ただ、不思議な既視感があった。
この文字の癖。書かれた内容。
ふと、ページの端を指でなぞる。……どこか、引っかかる。何かが違う。
でも、思い出せない。
窓の外から光が差し込み、ノートの紙面に淡い影を落とす。
なぜか、捨ててはいけない気がした。
私は、そっとノートを閉じ、自分の鞄の中に滑り込ませた。
――――――――――
昼休み、教室で本を読んでいると、隣にそっと影が落ちた。
顔を上げると、奏音が気まずそうに指をもじもじさせながら立っている。
「……ねえ、真琴。」
「ん?」
「数学の宿題……ちょっと見せてくんない?」
やっぱり、そう来たか。
少し申し訳なさそうに、上目遣いで頼んでくるのがずるい。
ため息をつきながら、本を閉じた。
「昨日の放課後さあ……」
「……あ。」
「『
わざとらしく奏音の口調を真似て言ってやると、彼女は肩をすくめて目を逸らした。
「……や、頑張ったのよ? でもほんっとに分かんなくて!」
――実は、奏音が休み時間のたびにノートと睨めっこしていたのは知っていた。
時折、難しい顔をして考え込んでいたのも見えていた。
(……それでも結局、諦めたんだな。)
頼られるのは、嫌いじゃない。
むしろ、こうやって頼ってもらえるのはちょっと嬉しい。
でも、毎回こうやって宿題を見せるのが当たり前になったら、奏音のためにならない。
今日こそは、心を鬼にするつもりだった。
「ふーん?」
腕を組みながら、黙ってじっと見つめる。
圧をかけるつもりだったけど、奏音は焦ったようにさらに言葉を重ねた。
「それで、もうどうしようもなくなって……うぅ、次の授業までに終わらせないとまずくて……そしたらほら、ね?」
「……。」
無言でじっと見つめ続ける。
(ここで折れたらダメ。今日はちゃんと拒否するって決めたんだから。)
――そう、思っていたのに。
「ほ、ほら、あれだよ! この前、気になってるって言ってたじゃん? 期間限定のさ、あの――」
……ま、まさか。
「……苺とピスタチオのやつ?」
「そうそう! それ! 私が奢るから、ね?」
――くっ、反則でしょ……それ……
心を鬼にするはずだったのに、ここで迷ってしまう自分が悔しい。
少しだけ考え込むふりをして、ため息をついた。
「……しょうがないなぁ。」
「わーい! 真琴大好き!」
奏音は満面の笑みを浮かべると、すかさず私の鞄に手を伸ばした。
「ちょっ、もう少し待ちなさいって!」
「いいのいいの、真琴は優しいし!」
「……ほんとにもう。」
呆れながらも、どこか諦めたように笑ってしまう。
結局、こういう時の私は甘いのだ。
――――――――――
放課後、教室の扉に手をかけた瞬間、背後から名前を呼ばれた。
「黒崎さん」
振り返ると、そこにいたのは……えっと、誰だっけ?
クラスメイト。うん、それは間違いない。……名前が出てこない。
大人しくて、あまり目立たない男子。誰かと話しているところを見た記憶がない。
でも、私に何の用だろう……
「……話があるんだけど」
――え、これ、もしかして……告白だったりする……!?
不意打ちすぎて、思わず心の中がざわつく。
放課後の教室、二人きり、声をかけられる。
これって完全に少女漫画のテンプレ……え、マジで?
"ずっと前から好きだった" って言われるやつ。
たまにこういうシーンを夢見たりしてたけど、まさか現実で遭遇するなんて……。
「ここだと人目につくから、校舎裏に来てくれる?」
――えええ!?
こんなこと本当にあるんだ……。
漫画みたいな告白シチュエーションが現実に起きるなんて……!
でも、この子……えっと……本当に名前が思い出せないけど、ものすごく勇気を出してるよね。
こういうおとなしそうな男子にとって、告白ってすごく大きな決断だと思うし。
それなら、ちゃんと誠意を持って話を聞いて、ちゃんと断らなきゃ。
「……わかった」
叶えてあげられないのが申し訳なくて、ほんの少しだけ胸が痛む。
でも、きっとこういうのも青春の1ページだよね。
――――――――――
校舎裏。
ほとんど人がいない場所。
改めて、うわ、本当に告白されるんだな…… という実感が湧いてくる。
なんか、少しドキドキする。
こういうシーンを経験できるって、ちょっと特別な気がして――
「俺、ずっと前から君のこと見てたんだ」
――落ち着こう。
――まずは、落ち着いて聞こう。
どうしよう、ちゃんと断らなきゃって思うのに、少女漫画の主人公みたいな展開にちょっと浮かれてる自分がいる。
「脚が、すごくいいなって」
……は?
一瞬、頭が真っ白になった。
今、何て言った?
聞き間違いかな? 告白の言葉とは思えない言葉が飛んできたような?
「形がすごく綺麗で……細くて、でも触ったらきっと柔らかくて……」
……な、何これ。
気持ち悪い、とか、怖い、とか、そういう感情より先に、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
少女漫画のような告白を想像してたの、バカみたいじゃん。
それだけじゃない。
私がずっと大事にしていたものが、踏みにじられた気がする。
こんなの、違う。
こんなの、求めてなかった。
でも、彼は本気で言ってるのかもしれない。
おとなしそうな男子が、勇気を出して告白しようとして……
そう思うと、ここで「気持ち悪い」と切り捨てるのは違う気がした。
「……えっと、ごめん。そういうのは、ちょっと……」
できるだけ優しく、静かに断ろうとした、その瞬間――
「待ってよ」
腕を掴まれた。
強い力。
「え――?」
反射的に後ずさろうとしたけど、すぐに背中が壁にぶつかる。
息が詰まる。
違う、これ違う。
甘酸っぱいものとは違う、まったく違う空気。
彼の顔が近い。
目が合った瞬間、背筋がぞくりと粟立つ。
この目……。
笑っていない。
でも、瞳の奥がねっとりと濡れている。
「ねぇ、黒崎さん」
手が震えている。
でも、それは迷いの震えじゃない。
興奮の震えだ。
「俺さ、ずっと我慢してたんだよね」
背中に冷たい汗が流れる。
やばい。
今すぐ逃げなきゃいけないのに、腕を掴まれていて動けない。
喉が詰まって、声も出ない。
「昨日、夢を見たんだ」
――夢?
「告白したら、君がすごく嬉しそうにしててさ」
「だから、大丈夫だって確信したんだよ。絶対に、君は俺のことを受け入れてくれるって」
……わからない。意味がわからない!
頭が追いつかない。
何を言っているの、この子は?
背筋を嫌な寒気が這い上がる。
誰か――。
誰か、助けて。
ここは学校。すぐそこに、クラスメイトがいる。
校舎の中に戻れば、先生もいる。
誰かに、聞こえるように叫べば――
でも、声が出ない。
喉の奥が、鉛みたいに重い。
逃げなきゃ、って思うのに、腕を掴まれたまま動けない。
「だから、黒崎さん。俺たちはもう、夢で繋がってるんだよね」
……違う。違う。違う。違う。
でも、彼の瞳は夢を見続けている。
――――――――――
喉の奥が固まって、声が出ない。
腕を掴まれたまま、背中を壁に押し付けられている。
ここは学校の校舎裏。すぐそこにクラスメイトがいるはずなのに、距離が恐ろしく遠く感じる。
誰か、助けて――
でも、どうしようもない。そう思った瞬間。
――バシンッ!
乾いた音が響いた。
彼の腕が、弾かれるように離れた。
「――は?」
驚きに目を見開く。
私も、一瞬何が起こったのかわからなかった。
でも、目の前に立っている人物を見た瞬間、すぐに理解した。
奏音だ。
私も彼も気づかないうちに、彼女は近づいていた。
迷いも、遠慮もない。
ただ、静かに、一瞬でこの場の空気を支配していた。
彼がまだ状況を理解できずにいる間に、奏音は口を開いた。
「君、田辺くんだよね?」
その名前を聞いて、私はやっと彼の名前を思い出した。
そうだ、この子の名前は田辺。
それを知った瞬間、今までぼんやりとしていた彼の存在が、急に輪郭を持ってくる。
そんな彼が、今、私を壁に押し付けている。
現実感が増していく。
「何してんの? こんなところで」
その声は、驚くほど静かだった。
騒ぎ立てるわけでもなく、怒鳴るわけでもなく、ただまっすぐに、抑えた声で問いかける。
けれど、その冷えた声音が、何よりも重く響いた。
「……いや、違う、これは――」
「違う?」
遮るように言葉を切った。
そのまま、田辺をじっと見つめる。
「何が違うの?」
まるで、一刀両断するような声。
「真琴を壁に押し付けて、逃げられないようにして、それが『違う』? どう違うの?」
「そ、それは……」
口が開く。
でも、言葉にならない。
奏音は、その隙を逃さない。
「どういうつもりだったのか、聞かせてくれる?」
肩がびくりと揺れる。
「私の大切な友達を追い詰めて、それで……何をするつもりだったの?」
「そ、そんなつもりじゃ――」
「そんなつもりじゃなかった?」
微かに眉を上げた。
そして、くすっと笑う。
でも、それは明るい笑いじゃなかった。
「じゃあ、どんなつもりだったの?」
「私、バカだからさ~、君の考えてたこと、ぜんっぜん分かんないんだよね」
「だから、ほら。言ってみなよ」
にこりと、笑う。
田辺の顔が引きつる。
「ちゃんと説明してくれたら、『あっ、それなら仕方ないね~』って納得できるかもね!」
口を開く。
でも、言葉にならない。
「どうなの? 説明できるの? ねぇ?」
目が泳ぎ、喉が何度も動く。
奏音に、完全に気圧されている。
その場の空気を、彼女が完全に握っていた。
田辺は何かを言おうとするが、結局、何も言えないまま黙り込む。
沈黙。
その時間が、ひどく長く感じられる。
奏音は、もう一度微笑んだ。
「そっか」
次の瞬間、奏音が私の手を掴んだ。
「行こ」
低い声。
でも、それは田辺にではなく、私に向けられた言葉。
強く、引かれる。
私の腕をつかんでいた手が、するりと離れた。
そのまま奏音に引かれるまま、一歩、二歩と距離が開く。
田辺は何か言おうと口を開いたが、何も言えずに立ち尽くしていた。
最後に、一拍置いてから、ふっと表情を緩める。
そして、いつもの明るい口調で、田辺に向かって告げた。
「真琴は私と一緒に帰るから」
まるで、何でもないことのように。
その言葉を残して、私たちはその場を去った。
――――――――――
校舎裏を離れ、校門へ向かう道。
普段なら、何気ない会話をしながら歩く帰り道。
でも今日は、まだ鼓動が落ち着かない。
田辺の手の感触。壁に押し付けられた冷たい感覚。
奏音があの場に来てくれなかったら、どうなっていたんだろう。
それを考えると、また息が詰まりそうになる。
そんなとき。
「……怖かった?」
奏音の声。
いつもの調子より、少しだけ低くて、静かな声。
からかうでもなく、茶化すでもなく、ただまっすぐに問いかけるような声だった。
「……わかんない」
本当の気持ちを、言葉にするのが難しかった。
ただ、嫌だった。
怖いとか、気持ち悪いとか、そういう単純な感情じゃなくて。
何か、ぐちゃぐちゃと絡まったものが胸の奥に残ってる感じ。
「……そりゃそうだよね」
奏音は、ため息混じりに言った。
「そりゃ、そんなすぐにスッキリするわけないし」
その言葉は、突き放すものではなく、ただの事実として、優しく置かれたものだった。
奏音が、ふいに立ち止まる。
そして、くるりと振り返った。
「……ねえ、真琴」
ほんの少しだけ、迷ったように見えた。
それから。
「……今度、奢るからさ。めっちゃ甘いやつ」
「え?」
予想外の言葉に、思わず瞬きをする。
「甘いの食べると、幸せホルモン出るらしいし?」
肩をすくめながら、奏音は笑った。
でも、その笑顔は、どこかぎこちなくて。
「……ね?」
強引にそう言われて、頷くしかなかった。
でも――
「……私、弱いな……」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
その一言を口にした途端、どんどん堪えていたものが噴出してくる。
胸の奥が苦しくなる。
涙が溢れる。
「怖かったのに……何もできなかった」
声が震える。
「逃げようともできなかった。声も出なかった……」
ただ立ち尽くして、押し付けられて、動けなくて――
自分が情けない。奏音が来てくれなかったらと思うと。
……こんなの、嫌だ。
ぎゅっと、拳を握りしめる。
奏音が、もう片方の手も握る。
「泣きたいときは泣いていいよ」
優しい声。そして、手の温もり。
「……バカ」
涙が、止まらなかった。
――――――――――
気がつけば、家の前まで来ていた。
奏音は、「送る」とも「ついていく」とも言わなかった。
私も、「ついてこないで」とは言わなかった。
ただ、歩いているうちに、気がついたらここにいた。
家の門の前で、ふっと足を止める。
奏音も、隣で立ち止まった。
「……ほら、無事に家まで着いたよ」
冗談めかしたように言いながら、私の顔を覗き込んでくる。
「別に送るつもりじゃなかったんだけどねー」
肩をすくめるその表情は、どこか気恥ずかしそうだった。
私が何も言わないまま門を開けると、玄関の扉が開いた。
「お姉ちゃん?」
その声とともに、真澄が顔を出す。
しかし、私ではなく奏音の姿を見つけた瞬間、目を輝かせて駆け寄った。
「のん姉ーっ!」「おわっ!」
そのまま勢いよく抱きつく真澄に、奏音がよろめく。
「ちょ、すみちゃん、いきなり飛びつくのはなし!」
「えー? いいじゃん、のん姉だもん」
「のん姉でも重いのは無理!」
「むぅ……」
頬を膨らませる真澄と、それを苦笑しながら引き剥がす奏音。
――仲がいい。
普段通りの、他愛のないじゃれ合い。
それを見て、ふっと息をついた。
気が楽になった……というわけではない。
でも、沈んでいた気持ちが、少しだけ緩んだ気がする。
「……お姉ちゃん?」
私を気にした真澄が、ちらりとこちらを見上げる。
「……うん、先に入ってる」
そう告げると、真澄は一瞬だけ私の顔をじっと見てから、ふっと微笑んだ。
「ご飯できてるからね」
「……うん」
靴を脱ぎながら、私は息をつく。
その背後で、まだ二人が何か話しているのが聞こえた。
私はそのまま、奥の部屋へ向かった。
――――――――――
靴を脱いでリビングに入る。
夕飯の匂いが鼻をくすぐった。
テーブルには温かそうなおかずが並んでいて、湯気がゆらゆらと立ち上っている。
……いつも通り。
たぶん、私が帰る前に準備してくれたんだろう。
それが分かるだけに、なんとなく申し訳ない気分になった。
そんな真澄も、トコトコとリビングに入ってきた。
「座ってて。お味噌汁、まだ温めるよ」
軽い調子で言いながら、鍋の蓋を開けた。
「……うん」
椅子に腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せてきた。
何もしていないのに、体が重い。
心のどこかに、さっきまでの出来事の余韻が残っているせいかもしれない。
ぼんやりと湯気を見つめていると、真澄が何気なく口を開いた。
「……ねえ、お姉ちゃん」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
「書いてみたら?」
「……何を?」
スプーンでお味噌汁を軽く混ぜながら、当たり前のように言った。
「気持ち。モヤモヤしたときって、書き出すとスッキリするじゃん?」
改めて "何があったの?"とは聞かない。
でも、気にしていないわけじゃない。
……そういうところ、真澄らしい。
少し考えたけど……
別に、なにか書いたからって何かが変わるわけじゃない。
でも、書くこと自体は、嫌いじゃない。
そんな私の反応を見て、真澄がくすっと笑った。
「どうせなら、ちゃんとした文章にしてみたら?」
「ちゃんとした?」
「お姉ちゃん、文才あるじゃん。ポエムとか、普通に上手いし」
「……そんなことないよ」
思わず否定すると、真澄は「あるある」と軽く肩をすくめた。
「よかったら見せてよ。そのうち私のも見せるからさ。」
「……真澄も書くの?」
「たまにね。」
さらりと言われて、少し驚いた。
真澄が何かを書くイメージはなかった。
でも、よく考えたら、私が知らないだけで、そういう一面があってもおかしくない。
「……考えとく」
なんとなく、そう答えた。
それだけなのに、真澄は「おっ」と嬉しそうに笑う。
そんな顔を見ていると、不思議と少しだけ気が楽になったような気がした。
――――――――――
部屋の中は静かだった。
机の上には、使い慣れたペンが一本。
でも、それを走らせる紙が、まだ決まっていなかった。
スマホのメモアプリ?
それとも、適当なルーズリーフ?
いや、どれもしっくりこない。
何かを書くとしても、何を書けばいいのかも分からないのに。
机に肘をつき、軽くため息をつく。
――そういえば。
ふと、ノートの存在を思い出した。
あれ、たしか鞄に入れっぱなしだったっけ……?
椅子を引いて立ち上がり、ベッドの横に置いた鞄を手に取る。
ファスナーを開けると、そこに――確かに、ノートがあった。
机の上にそっと置き、表紙を指でなぞる。
しばらく眺めたあと、気まぐれにページをめくる。
誰かが書いたポエムの数々。
そして、最後のページに刻まれた、強い願い。
――私は、もっと普通の女の子になりたい。
――誰かに認められたい。
――私は、ここにいたい。
拾ったときにも読んだはずなのに、今改めて見ると、妙に胸に引っかかった。
このノートに書いた人は、何を思って、こんな言葉を残したんだろう。
……書いてみようか。
何を書くか決めたわけじゃない。
でも、このノートなら、何かを書いてもいいような気がした。
ペンを持ち上げる。
――私は、弱い。
文字を綴るたびに、胸の奥がざわめいた。
逃げられなかった。
声も出せなかった。
怖くて、ただじっとしていることしかできなかった。
その言葉を見つめながら、ふっと笑う。
ああ、私は、弱い。
何もできなかった。
小さくて、無力で、何一つ変えられなかった。
……なら。
その逆を書いてみようか。
ペン先が、静かに紙をなぞる。
――強い私。
風を切る足、
しなやかにしなる指先、
誰の言葉にも揺るがない心。
――大きい私。
広がる世界を見下ろすほどに、
誰よりも遠くへ、手を伸ばせるように。
――何も怖くない私。
足元に転がる小さな影、
視線の先には、ただ光だけ。
――それが、私の願い。
ノートのページが、かすかに震えた。
ペンを置き、そっと息を吐く。
少し殴り書きのようになったけど、書き終えた。
すると、頭の中に漂っていたモヤモヤが、少しだけ晴れた気がする。
そう思ったのも束の間、ふいに違和感が襲った。
――体が、重い。
疲れ? それとも、集中しすぎていたせい?
いや、それにしても――おかしい。
まぶたが、勝手に落ちてくる。
指先の感覚が遠のく。
ああ、眠い――。
椅子に座ったまま、ゆっくりと意識が沈んでいく。
――深い、深い闇の中へ。
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