日はまた昇る 1

 日曜の夜10時。

 いい歳した中年の男が二人、なぜか肩を組んで母校の野球応援歌を歌ってる。

 若く血に滾る若者がなんやかんやあって陸の王者になる的な歌詞のヤツだ。


 正確にはね、ぼくは歌ってない。おじさんが一人で気持ちよく歌ってる。

 でも肩は組んでるので彼の横揺れにつられてぼくも揺れる。

 もう阿鼻叫喚だよ。


 チャイムが連打されて、出たら第一声が「るかー!」だからね。


るかー」じゃないんだよ。今何時だと思ってるんだ。

 一階エントランスで発せられた大声が反響する音までインターホンのスピーカーから聞こえてくる。大惨事。今が夜でよかった。他の住人の方と鉢合わせしてたらご迷惑極まりない。

 ぼくは無言で一階扉の解錠ボタンを押した。


 1分か2分か、エレベータで上がってきた彼を出迎える。

 相変わらずゴリゴリの太ラペルスーツ。ボールドストライプの。もういい歳なのに中年太りはギリギリセーフな感じ。うちの家系は代々痩せ型だから、多分体質だろうね。でも本当にギリギリだよ。界隈御用達の「H」マークバックルが金色に輝くベルトがはち切れそうになってるからね。

 ツーブロックの、いわゆる外資系保険営業っぽい髪型にベストマッチした押しが強そうな顔立ち。特に目がね。輪郭がくっきりしていて活力に満ちあふれてる。

 あー、一言で言うと、イイ感じで仕上がりつつある不動産屋さん。

 それが彼だ。


 加賀いわお

 当年取って49歳。

 地場の不動産屋の娘さんと結婚して婿養子に入った、ぼくの父の弟。

 つまり叔父さんである。




 ◆




「今日は何の集まりだったんです?」


 この人は体力無尽蔵なので週末は大体飲んでる模様。これは凄いことだよ。毎週飲む相手が居るわけだから。仕上がった不動産屋の証だね。で、月1くらいで来襲してくるんだ。


「何っておまえ、我らが同窓の集いだ。おまえも呼ばれてるだろ?」

「いや、呼ばれてませんよ」


 叔父さんはぼくの大学の先輩でもある。


「それはよろしくないな! おまえも立派な業界人なわけだから。仲間は結束を固めなけりゃならん」

「うちは造園でしょう。不動産とはちょっと違いますから」


 要するに、同窓生の中で不動産関係にお勤めの皆さんが集まって酒盛りをなさってたという。

 うちの大学はこういうの多い。地域職種問わずどこにいっても同窓会組織がある。本当かどうか知らないけどアフリカにもあるらしいよ。日本企業の駐在員はその国に2名で、たまたま彼らはうちの大学の同窓生だった。そして会が結成されたとのこと。すごいね。


「いやいや、土地を生業とする者は皆同志。上物うわものが木かコンクリかの違いにすぎない。おまえはもう少し本質を見なきゃならん」


 泥酔してるくせにちょっと賢そうなことを言う。

 LVって大きく書かれた茶色のハンドバッグと金無垢デイトナがこの上なくお似合いになるイケイケ具合に似合わず、叔父さんは意外にもインテリだ。

 先月かな、ぼくの無気力に対して行われた説教は素晴らしかった。さらっとエピクテトスとか引用してくるからね。「セネカ?」って聞いたら叱られた。


「おまえも飲んでたのか」


 ベランダに林立する空き瓶を見つけた叔父さんが静かに尋ねる。

 これはまた来るね、説教が。


「独りで飲むな! 人間は何でこんなにたくさんいると思う。1億も2億も。本来そんなにいらんだろうが。人が多いと土地が細切れになるからな! なのに存在する。理由は一つだ。一緒に飲むためにいる。大体な、おまえ、ワイン業者の気持ち考えてみろ。頑張ってぶどう育てて、ほら、ご丁寧にかわいいこの……なんだ、これ、羊か?」

「アルパカですよ」

「同じようなもんだろうが。細かいことをごちゃごちゃ言うな。それで、この羊のラベルを貼って売りに出してるわけだ。なぜか! おまえに分かるか?」


 空き瓶の首を握りしめて語り出す叔父さんの姿は結構怖い。

 親戚のことなんで悪く言いたくないけど、事実だから仕方が無い。

 是非想像して欲しい。

 派手なボールドストライプのスーツを着たノーネクタイの、ツーブロックの、金無垢デイトナをはめた50間近の男が空き瓶持っている姿を。

 その瓶、明らかにヘマをしでかした組員の後頭部に叩きつけるためのものじゃん。若頭が。あ、今は専務とか言うんだろうか。フロント企業の。


「売るためでしょう。それが商売なんだから」

「ああ、ああ、全く分かっておられない。我らが三代目は全然お分かりでない。違うだろ! お客様に気持ちよく飲んでいただくためだろうが。この……あれだ、羊? アルパカ? それを愛でながら、皆で楽しく飲む。その至高の時間をお客様に提供するために、このワインは作られてる」


 意味が分からない。まぁ酔ってるからね、叔父さん。ぼくはリビングのソファーにはまり込んで適当に頷いておいた。


「で、土地もまたしかり。おれたちは確かに土地を売る。建物も売る。でもその実、おれたちが売るのはそこに住むお客様の幸せな時間だろうが。分かるな」

「はい。もちろん。——ああ、そういえば例の分譲地、上手く捌けそうですか?」


 華麗に話題転換。


「ああ、あれな。大体押し込めそうだ。だけどあれだな、最近の若いのは全然気合いが入ってない。駅で声出し一つまともにできない。お客様と目が合ったら地獄の果てまで食いついて離れないのが本当の”仕事”ってものだ。それを何が『断られてしまって……』だ。おまえも分かるな? 断るってことは、少なくともこっちを認識したってことだろう。そしたら最後まで誠心誠意物件のご説明をして、ご納得頂くのが”本当の仕事”だろう。お客様の幸せのために。それがおれたちの義務だ」


 こういうタイプのアレなので、ぼくはSNSを見るのが時々怖い。不意にタイムラインに、叔父さんの会社の侠気溢れる社風が暴露されたツイートが流れてくるかもしれないからね。

 叔父さんはひとしきり気持ちよさげに喋り倒した後、不意にすっと真顔になる。

 この人は本当に、突然ギアチェンジするからな。6速から2速にいきなり放り込む。オーバーレブ待ったなしなのに上手くやる。ダブルクラッチの名手だ。


「妙に片付いてるな。ん? んん? そうか! つまりおまえにも春が来たか! 冬は長かったな。前の子と別れてもう大分経つだろう」


 彼はぼくの部屋を見渡して、目ざとく変化を嗅ぎつける。

 確かにちょっと前までこの部屋は酷い有様だった。学生時代から累積した本が至る所に散乱していたし服も散らかしっぱなし。自炊もしないからコンビニ弁当とかの空き箱が転がってた。

 でも、一念発起したんだ。

 ぼくの身の回りには。いらないものが。

 このままだとに迷惑をかけると思ったんだ。漠然と。それで家事代行サービスのお世話になった。


「家事代行サービスを頼んだんですよ」


 しょうもない勘ぐりを避けようとぼくはあっさり真実を告げる。でも叔父さんは納得しない。アルコールで充血しつつ覇気を失わない瞳は爛々と輝いている。


「ほう。それはいいな。そういうことにしておこう。別に何サービスでもいい。おれが聞きたいのはつまり……茉莉ちゃんとはどうなんだ?」

「茉莉? どうって? なにも。この前会いましたけど元気にやってるようです」


 ダイニングの椅子を勝手に引き出して、叔父さんはどっかりと座り込む。両足を開いて膝に腕を乗せ、前屈みになって。

 あ、この光景も見たことあるぞ。へまをした組員を尋問する若頭だ。


「おれが聞きたいのはそういう話じゃない。元気かどうかじゃない。分かるな?」

「分かりますけど、なにもないものはなにもない。そもそも叔父さん、茉莉と私は幾つ離れてると思ってるんです?」


 茉莉さんは母方の親戚。叔父さんは父方。だから本来あんまり関わりがないはずなんだけど、彼女は建設業界志望だったから就活のときに叔父さんに色々業界の事情を聞いたみたいでね。それ以来叔父さんは茉莉さんのことを気に入ってる。「近年なかなか見ない肝の据わった子だ」って。


 でも、残念ながら叔父さんが勘ぐるようなことは何もないよ。変な期待もない。中年の自意識過剰ほどみっともないものはないからね。

 三沢さんのように「お金」という明確な対価があるなら、それは一種の取引だから別枠だけど、茉莉さんは親戚、詳しくいえば「はとこ」だ。ぼくの母親と彼女のお母さんはいとこ同士で仲が良い。

 想像してみて欲しい。30半ばの男が、6つも歳下の超美人、真面目で優秀な遠縁の女の子(過去に家庭教師までしてた)に変な感情を抱いているなんて誤解されたら……。


「よし! よし分かった! 三代目のお考えはよおく分かった。ここは一つ検証しよう。な!」


 叔父さんはスーツの内ポケットからスマホを取り出し、どこかに電話をかけ始める。


「あっ、茉莉ちゃん? おお、おじさんだよ。元気にしてるか? うん。そうかそうか。ところで茉莉ちゃん、今おじさん、若旦那と飲んでるんだけどね。もう寂しそうにしててさ。……うん。え? 暇? 来れる? おお、ちょっと待ってな。今スピーカーにするから」


 この人、本当にありえん……。

 テーブルに置いたスマホから聞き慣れた声が流れてくる。女性にしては少し低い、心地良い声が。


「今から行きますね」

「夜分本当にごめんね、茉莉。来なくていいよ。叔父さんのいつものアレだから」

「いいえ。行きます。わたしもちょっと飲みたい気分だったんです。兄さんにまたご相談したいこともありますから」


 夜の10時から? 日を改めようよ。


「あ、そういえば明日は平日だね。朝も早いだろうし……」

「うちはフレックスなので」


 初めて聞いたよ。フレックスだったのか。大手はいいな……。

 いや、そんなこと考えてる場合じゃない。未婚のお嬢さんを深夜に自室に招くのはよくない。親戚といっても限度がある。


「ああ、そうなのか。それはいいね。でもほら、お母さんもご心配だろうから」

「母は今隣にいます」

「いるの?」

「はい」


 これ、ほんと嫌なシチュエーションだな。ぼくの母にも確実に伝わるやつだ。あ、逆にあれか。お見合いの件、母が茉莉さんのお母さんに伝えているかもしれないな。


「そうか。ご無沙汰してますって伝えておいて。あと、ひょっとしたらお母さんから聞いてるかもしれないけど、最近お見合いをしてね。だからその、お相手の方にも失礼に当たるし、何よりも茉莉に申し訳なく……」

「は?」


 いきなりドスの利いた声。ちょっと背筋が伸びた。


「いや、ほら、前にケーキを一緒に食べた……」

「……。会社の同僚とお聞きしましたけど?」

「うん。それは正しい。正しいんだけど」


 横から叔父さんが驚きの声を発してくる。

「え? おまえ、見合いしたのか?」

 って。


 でも今はそっちを構ってる暇はないんだ。電話口の雰囲気が少々怪しい。


「分かりました。すぐに行きますね」

「いや、これからだと11時過ぎるだろう。明日に響く。今度にしよう、今度」

「行きます」

「来るの?」

「行きます」


 そして電話は切れた。ブツッと。今はもうそう表現しないのかもしれないけど、ぼくの世代だとこう言う。「ガチャ切り」。

 怖いね。




 ◆




 そしての10時。

 ぼくは無事朝を迎えた。日はまた昇る。素晴らしいことに。


 あの後は酷かった。

 茉莉さんが来るなり、元凶の叔父さんは颯爽と帰って行った。「嫁に怒られるわ」って。白々しい。

 で、茉莉さんは茉莉さんで来るなりお見合いの件を根掘り葉掘り。

 流れるように冷蔵庫を空けてビール出して。


 ちなみに彼女お酒あんまり強くないので、500ml缶を1本空けたあたりでぼんやりし始める。ソファーに寝転がってね。

 ぼくはできる限り距離を取って座ってたんだけど、這ってくるんだよね、ずるずると。茉莉さんが。で、ぼくの膝に顔ぐりぐり押しつけて、そのまま寝落ちした。


 なんだこれ。


 仕方ないから適当に毛布を持ってきて、彼女にかけて、ぼくも寝室でちょっと寝た。起きたら9時。

 茉莉さんも起きてきた。

 寝起きのくせにキリッとしてる。しかも昨日の夜の醜態をちゃんと覚えてる。クール。


「本当に会社大丈夫なのか?」

「あ、遅刻ですね」

「でもフレックスなら何とかなるんだろう?」

「今日は常勤の日でした」

「え?」


 絶句。何にって、全く動じてない彼女に。


「いいの?」

「駄目ですね」


 至ってクール。いつもの前髪を耳にかける仕草。

 ソファーをどかっと占拠して、ぼくの毛布に包まりながらバリキャリ感出してるのがちょっと面白い。


「駄目って……」

「兄さんのせいです。どうすればいいでしょうか」

「おれの? どうすればって言われても、どうしようもない」

「私が失職したら雇ってください」

「もちろん。うちとしては大歓迎だ」


 彼女が冗談を言っているのだと分かった上で乗ってみた。

 そもそも一度遅刻したくらいで従業員を首にできるわけがないので。従業員の権利保護にかけては日本の法律は最強だよ。ちゃんと運用された場合の話だけど。


 ぼくの答えを聞いて、茉莉さんは満足げな笑みを見せた。


「頼りがいのある兄さんがいてくれて私は幸せです。……あ、お風呂お借りしますね」


 すくっと立ち上がり、全く迷いなく風呂場に歩いて行く。同棲二年目のカップル的貫禄がある。茉莉さん、そういうキャラだったかな。




 ◆




 そろそろ11時が近い。いい加減お腹が減ってきた。

 茉莉さんも風呂を上がったらしき気配。身支度を終えたら帰るだろう。

 ぼくは取りあえず昼過ぎには会社に顔を出さなければならない。通勤がてらどっかのコンビニでご飯を調達して。

 そんなことをのんきに考えていたところに着信があった。


「ああ、三沢さん。おはよう。昨日はありがとう。とても楽しかった。……そうだね。また今度……」


 間の悪いことというのは続くものでね。

 の声が響き渡ったんだ。ぼくの部屋のリビングに。


「兄さん。お風呂ありがとうございました」


 髪まで乾かし終えた茉莉さんは廊下から堂々と姿を現し、ぼくが電話中であることをしっかりと確認した上でおもむろにそう言い放った。

 ごく自然に、よく聞こえるように。に。


 ぼくがスマホを翳している左耳にもう一つの声が届く。


「は?」


 とても平板な感じのね。底冷えするような。

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