アポクリファ、その種の傾向と対策【それが僕の存在理由】

七海ポルカ

第1話

 穏やかな風が優しく、髪を揺らした。



 イーゼルに留めた図面に定規とペンを走らせていた彼は振り返り、大きな机に広げられていた地図や資料がパタパタと捲れていることに気付き、一度手を止める。


 椅子から立ち上がり窓を閉め、ふと、街の方に目を向けた。

 彩りの花が地面に散って、大地を緑が覆い始める。


 新緑の季節は彼が一番好きな季節だった。


 ここは首都ギルガメシュ市街からは少し離れている。

 大学特区に接していて、緑が多い。

 公園も多く、それを繋ぐ歩道も、サイクリングロードもよく整備されていて美しい。


 つい窓辺に腰掛けて、美しい街並みに優しい表情を向けていると。



 電話の電子音が鳴った。



 立ち上がり、ボタンを押す。


『お客様がいらっしゃっています』


 秘書の女性の声だ。

 最上階近くにある彼の会社のオフィスを直接訪ねて来る人は、ごく限られていた。

 彼はおや、と思う。

 主に会社の上司や重役、もしくは大学時代の友人だけだ。


 彼は日常、あまりこのオフィスにはいないからである。


 大概人とは外や会議室で会う。

 普通の会社員とは異なって、彼は毎日会社には出勤する義務を負ってはいなかった。

 自然と、秘書の女性も訪問客とは顔見知りになっているので、こういう時は訪問客の名前を必ず言うのだ。

 お客様というのは珍しい繋ぎ方だった。


『あの……、シザ・ファルネジア様がお越しです』


 誰だろうと思った矢先に秘書の女性が言い直し、彼はふと目を瞬かせた。

 それからすぐに表情を緩めると、応答する。


「入っていただいて。どうぞ」


 捲っていたシャツの袖を直していると、すぐにオフィスの扉が開いた。


「やあ、シザ君」


 彼とは決して気張るような仲ではなかったが、生真面目な彼らしく、他社に勤める知人を訪ねる線引きなのだろう。背広姿で入って来た。

 シザは礼儀正しく一礼した。

 彼らが普段いるフィールドは、戦いの場なのでこういう姿は新鮮なのだが【グレーター・アルテミス】や【アポクリファ・リーグ】の象徴として取材を受ける際に見せるものは、ひたすら礼儀正しいものであることはアレクシス・サルナートも知っている。

 非常に高い戦闘能力を持つ青年だが、シザは社会人として礼儀を弁え、聡明なのだ。

 

「アレクシスさん。すみません、いきなり訪問したりして。マネージャーさんに連絡したら、今日はこちらにいらっしゃると聞いて……電話を差し上げるべきだったのですが……お時間、大丈夫でしたか?」


 アレクシス・サルナートは状況を気にしたシザに、分け隔てなく彼が誰にでも向ける、穏やかな笑顔を見せて頷く。

「今日は午前中に取材一つだけで午後はオフなんだ。だから気にしないで。

 ようこそ。少し散らかってるけどこっちで話そう」

 執務机を通り過ぎて、広いオフィスの奥にあるソファに、シザを招く。


「すみません。お仕事中でしたね」

 重ねたシザにアレクシスはもう一度明るく笑った。


「いや。気にしないで。急いでる仕事じゃないんだ。

 会社のプロジェクトの一つで、新しい開発特区のデザインを考えてるんだよ」


白羊宮警察アリエス】所属で【アポクリファ・リーグ】に特別捜査官として参戦するアレクシス・サルナートは、シザと同じように、元々は警察官ではなかった。普通の会社員だったのだ。

 彼は大学卒業後、就職し会社員として働いていたが、ある時街中にキメラ種が現われた時偶然近くにおり、キメラ種の攻撃で被害を受けそうになっていた人を咄嗟に能力で助けたのだ。

 当時は彼とは何の縁もなかった、【アポクリファ・リーグ】の特別捜査官が駆け付けてくれるまで、とにかく巨獣を足止めしなければと風の能力を駆使して持ちこたえたのだが、ようやく駆け付けてくれた特別捜査官にその場を任せて避難したものの、一般人がアレクシスの戦う姿を映していて、それを個人用SNSに上げたことから「一体巨獣を足止めしてる彼は誰だ?」と騒ぎになった。

 翌日普通に出勤していたアレクシスはCEOに呼び出され、君に話したいと言ってる人が来ていると、現われたのが【アポクリファ・リーグ】総責任者のアリア・グラーツだったのだ。

 そして、近年増加傾向にある犯罪者とキメラ種出現に備えて、警察機構を強化したいのでぜひ参戦して欲しいと依頼された。

 アレクシスは彼女の提案には非常に迷ったのだ。

 彼はそれまで能力をあまり使ったことが無かった。ましてや戦いなどに使ったことはなかったし、何よりアレクシスは望んでその会社に入ったので、仕事の日々は充実していたのだ。

 彼は都市開発プロジェクトに携わる総合建築会社に勤めていた。

 自分自身の人生として考えた時に、やはり都市開発の仕事は大学時代からの夢だったから、人助けは尊い仕事であるとは思ったが、簡単に頷けなかった。

 迷っているアレクシスを見た会社のCEOが提案してくれたのだ。


「会社には在籍したままで【アポクリファ・リーグ】に参戦すればいい。

 時間のある時に君が取り組めるような案件を任せるし、都市開発と言えども、街が安全でなければどんな美しい街や建築も機能しない。

 君が参戦するなら我が社もスポンサーとして後押しさせてもらうよ。

 折角我が社が推し進めている都市開発プロジェクトを、こうも事件で好き勝手にされてしまっては損失も莫大なものになる。君には我が社の都市開発プロジェクトを守って欲しい」


 CEOがそういう提案をしてくれたので、実はアレクシスは今もこの会社に籍を置き、オフィスも与えられ、時間のある時は都市開発プロジェクトにも関わることが出来ている。

 自分の選択には満足していた。

【アポクリファ・リーグ】から出動要請が掛かると、飛行能力を持つアレクシスはその方が近ければ能力を使って現場に急行する。その時上空から【グレーター・アルテミス】の各都市を見ることが出来るのだが、開発が進む街を眺めながら、それを守ることが出来る仕事も尊いことだと思うようになった。

 

 作るだけではなく、守ること。


 今では街を守って戦う特別捜査官という仕事は、自分の天職だったのだとさえ思える。


「アレクシスさんが以前の会社に今も通っていらっしゃることは聞いていたんですが……こういうこともなさってるんですね」


 少し驚いたようにシザは言って、窓辺のイーゼルにある、細かく描き込まれた図面を一度振り返る。斬新なデザインの建築物に、周辺の環境イメージなども描いてある。

 建物は、美しいデッサンだった。


「元々私は都市開発に携わりたくてこの会社を志望したんだよ。

 大学時代も専門は環境工学と都市開発だったから」


 一見のんびりしているようにしているように見えるが、シザは目の前の男がギルガメシュでも一、二位を争う名門大学を出ていることを知っている。

 凶悪な偏差値の学校を卒業し、しかも大学時代はチェスサークルに所属し、大学時代アレクシス・サルナートが所属していたチェスサークルは大学選抜の大会で四連覇し無敵を誇っていたと聞く。

 白い鳩が頭に留まってそうな顔をしていても、こう見えても頭の中は生粋の実力派理系なのである。


 シザは一度だけ暇つぶしの戯れでアレクシスとチェスをし、それなりの腕だと自分でも思い込んでいたのを完膚なきまでにやられて以来、人畜無害に見えるこの外見を全く信用しなくなった。

獅子宮警察レオ】で先輩に当たるアイザック・ネレスはアレクシスのチェスにまつわるこの経歴を知っていたらしいのに教えず、「お前が一回誰かに完敗するのが見たかったから」などと信じられないことを言って笑ったことがある。

 

 シザとアレクシスは知人だが、友人ではなかった。

 友情はあったが、親しくはない。


 二人は共に【アポクリファ・リーグ】でシーズンMVPの座を巡って熾烈なランキング争いを繰り広げる、ライバルだったからである。

 彼らはお互いの実力を、認め合っていた。


 秘書の女性が紅茶を淹れて下がっていく。

 どうぞ、と薦められてとりあえずシザは一口飲んだ。


「君が私のオフィスを訪ねて来るなんて、初めてのことだね」


 程よい間の後、アレクシスはそう言って来た。


 彼の顔を見ると穏やかにシザを見つめて来ていて、初めてのことだねと言いながら少しも驚きや狼狽が見えず、これから話す内容を知ってるかのように見えるから不思議である。


「何か大切な用があったかな……?」


 シザは静かに、カップをテーブルに戻した。

「大切な用というわけではないのですが、アレクシスさんにお願いがあって来ました」

「……明日のことだね」

 シザは瞳を一瞬伏せた。

「私も、気になっていたんだ。明日は【グレーター・アルテミス】の定例パトロール日だけれど、アリア・グラーツからは特に何も話がないから、それでいいのかなと……」


 明日。

【グレーター・アルテミス】は穏やかな一日にはならないだろう。


 ユラ・エンデが【グレーター・アルテミス】にやって来る。

 公演をするためだ。


 国際法に定められたアポクリファ特別措置法における――例外措置は、不当逮捕の延長上にある彼の身の上の状況を、この三カ月先送りにし続けていた。

 規則ならどう解釈してもいいのかと、この一件に怒りや不満を覚える者達の声は、もう先延ばしを許さない所まで来ている。

 ノグラント連邦共和国、首都ダルムシュタットの連邦捜査局は、殺人容疑を掛けるシザ・ファルネジアへの追及だけは緩めずとも、何らかの譲歩は迫られていた。


 それが拘留中のユラ・エンデの特別公演を【グレーター・アルテミス】で開催することだった。

 十六歳の少年を不当に、不自由に拘束していないことを世間に示すためのデモンストレーション。


 ネットでは明日について様々な議論がなされ、書き込みがなされそのどれもが何の結論にも至っていない。

 確かなのは、連邦捜査局が公表したことを反古にしない限り、明日ユラ・エンデは彼らに護送されて【グレーター・アルテミス】にやって来るということだけ。


「……はい。」


 明日は元々予定されていた【アポクリファ・リーグ】の定例パトロールがされる日でもあった。

 いつもは司法局からの要請で凶悪事件や突発的災害に駆り出されるわけだが、月に二度、

定例パトロールと位置づけて【アポクリファ・リーグ】に加盟する特別捜査官達が【グレーター・アルテミス】全土を巡回パトロールするのだ。

 これは広報活動や犯罪抑止の意味合いが強く、その日だけは何の事件が起こらなくても特別捜査官達が各都市に現われる。

 ファンサービスやイベントなども行われる、【グレーター・アルテミス】にとっては特別な日なのだ。


 アレクシス・サルナートはこの三カ月完全にメディアからは姿を消した、シザのことを気遣っていた。


 彼は時折【アポクリファ・リーグ】本部があるセントラルセンターに姿を見せたが、メディアには出ず、無論【アポクリファ・リーグ】にも出演していなかった。

 尤も、【アポクリファ・リーグ】もこんな状態では公平なランキング争いが出来ないと、一か月間はニュートラル措置が取られたが、番組に抗議の声が殺到していることから、やむなく先月からランキング争いは開始されている。 


 もうシーズンも終盤に入ってしまうのだ。


 こんなことは番組始まって以来のことだったが、アレクシスは納得していた。

 今回ノグラント連邦捜査局が行ったことも、前代未聞のことだったからだ。


「回りくどい言い方をしても仕方ないので、率直にお伝えします。

 明日ユラが【グレーター・アルテミス】にやって来ます。

 僕は、彼をダルムシュタットに戻らせるつもりはない」


 アレクシスは静かな表情のままだった。

 彼が喋らないのでシザが続ける。


「【バビロニアチャンネル】のCEOドノバン・グリムハルツには、報告をしてあります。

 彼は僕の意志を尊重してくれると言ってくれました」


「――彼は君の養父だからね」


 当然のことだ。

【バビロニアチャンネル】は【アポクリファ・リーグ】の独占放送権を保有している。


「ではCEOが許可を出したということは【バビロニアチャンネル】全体の総意となる。

 当然【アポクリファ・リーグ】も明日はそういう視点で展開していくということになるんだろうね」


「アリア・グラーツは中継カメラを回すと言っていますが、放送はどうなるかは分かりません。何が起こるかも分からないですからね。――僕は明日は【アポクリファ・リーグ】にはエントリーをしません」


【アポクリファ・リーグ】は出動要請が掛かると、個々の特別捜査官がエントリーをして出動を知らせる。基本的には全員が出動要請に応えるが、緊急対応になるのでタイムラグはどうしても起こるからである。

 全員が身に着けているPDAからエントリーを行うと本部がそれを認証し、以後様々な項目においてポイント加点を行っていくシステムだ。

 中継終了後、視聴者が任意で行える複数項目のポイント投票も行われ、この二つによって成績が決まって来る。


 アレクシスは「そう……。」と呟くと、紅茶のカップに手を伸ばした。


 彼の顔は静かなままだが、前向きな気配ではないことだけは伝わって来る。

 そういう反応は、シザは予測も理解もしていた。


「僕が今日ここに来たのは、明日の演出の意図を、貴方には説明しておかなければと思ったからです」

「……他の捜査官達に話は行っている?」

「はい。勿論……。ただ、今朝急に決まったことなので、僕の足で全員に説明には行けませんでした。アイザックさんとライルに、他には行ってもらっています。

 この三か月、貴方には……、

 いえ……。貴方がたには本当に迷惑をおかけしました。

 感謝しています。

 メディアにも、発言を控えていただいて……。

 でも、話さなかったことは、僕のやっていることや思いを何も全面的に支持しているからそうしてくれていたわけではないことも、よく分かっています。

 これ以上の混乱を起こさないように、貴方がたは沈黙して下さった。

 けれど、明日は判断を定める日になります。

 何も言わずに明日の収録に貴方がたを参加させるのはあまりに失礼なことだから、それを伝えに決ました」


 数秒の沈黙の後、アレクシスは口を開いた。


「……失礼なんてとんでもないよ。シザ君。

 それに私達がこの数カ月沈黙したのは、ノグラントにいるユラ君の身辺にこれ以上の混乱や悪い影響を出さないためというのは勿論あるけど、私達は君の想いを間違いなく全面的に支持しているよ」


 シザはアレクシスを見た。

 アレクシス・サルナートはいつもの穏やかな表情だった。


「……。すみません」


「いや……。謝るのはこっちだよ。

 何か声をかけたかったけど、ロクな言葉をこの数カ月かけてあげられなかった」


「いいえ。僕が話していないんです。貴方がたに掛ける言葉がないのは、当たり前のことです。沈黙して下さっただけで、とても助かったんです。ありがとうございます」


「うん……。」


 アレクシスは不意に立ち上がった。

 テラスに面した側の、一面ガラス張りの扉を少し開いて風を招き入れる。

 シザはアレクシスの背中を見上げた。


「アレクさん。

 僕は、みんなに感謝しています。

 その気持ちに分け隔てはないですが、

 貴方は僕たちの枠組みの中でも、少し事情が特殊だ。

 だから貴方には僕の口から説明したかったんです。

 貴方は要請があれば他国にも救助活動に行く。

【グレーター・アルテミス】以外の救助活動は勿論、ランキングには影響が及びません。

 闘技場にも思想上の理由でエントリーをしていない。

【アポクリファ・リーグ】に属していても、ランキング争いをしていても、

 貴方には自分の中に信じるものがあり、そんな貴方だから人は貴方を信頼している。

 貴方の信頼は、貴方が努力をして人々と築き上げて来たものです。

 どんな理由があるにせよ、僕が、壊していいものじゃない」


「……。」

 数秒の沈黙があった。

「……ありがとう」

 背を向けたまま、アレクシスは目を伏せ静かにそう言った。


「お願いというのは、明日何が起きてもそれに介入しないで欲しいんです。

 どんな騒ぎが起きても人命救助はともかく、僕のやることを止めに入ったりはしないでほしい」


 アレクシスが振り返る。

【アポクリファ・リーグ】において優勝争いを繰り広げる二人は、そこでようやく正面から向き合った。


「止めに入られたら、必ず僕は戦わなければならない。

 僕は明日、ユラを必ずあいつらから取り戻す。

 一つの傷もつけずに取り戻すつもりです。

 それを邪魔する人間は、誰であろうと容赦はしない。

 貴方が止めに入ったら――、貴方と僕が戦ったらどんな形であれ、街は無事では済まない」


「そうなるだろうね」


 落ち着いた声でアレクシスは答えた。

【アポクリファ・リーグ】はポイントを競うための、特別捜査官同士の競争を禁止はしていない。だが、明確に敵対して戦うということは度が過ぎれば罰則を与えるとはルールに明記されていた。

 アレクシスはシザと敵対して戦うつもりは無かったが、今回に限っては立場が分かれれば確かに戦うことになると思った。

 ユラ・エンデは護送されて来るが【グレーター・アルテミス】は国際連盟に対して絶対的治外法権を持っている。つまり、他国の法は【グレーター・アルテミス】に一歩入れば適用外になる。

 ユラ・エンデをノグラント連邦共和国は拘束出来なくなるわけだ。

 それが分かっているから、彼らは不法拘留だと世論に攻め立てられてもユラの帰国を許さなかった。

 ユラが【グレーター・アルテミス】に入った時点で、シザはユラを取り戻していいし、その権利が発生する。しかしノグラント連邦捜査局も抵抗はするはずだ。彼らがどういった警備体制で来るかは分からないが、護衛にアポクリファ能力者を連れて来る可能性は高い。

 そうなれば能力戦になる。

 もっと難しい状況になるならば、ノグラント連邦捜査局が護衛を非アポクリファで固めて来て、通常の銃器で抵抗して来る場合だ。

 アレクシスは能力者が能力で、非能力者を攻撃することには否定的だった。

 勿論その逆だってあるのだから、迫害された能力者が能力で反撃することを別に否定はしない。要するに彼個人としての信条がある。

 アレクシス・サルナートは非常に強い風属性の能力者だった。

 攻撃にも防御にも特化した万能型で、ただ鎌鼬のような風の刃で敵を切るだけではなく、その気になれば彼らを傷つけずとも色んなやり方で制圧は出来る。

 アレクシスは【アポクリファ・リーグ】でも常に心掛けているのは、その部分だったからだ。

 可能なら相手にも街にも被害を出来るだけ与えないようにして事件を解決したいというのが彼の願いだったから。

 

 明日ユラを護衛して来る捜査局側が非能力者で普通の警官ならば、尚更シザには手を出して欲しくなかった。

つまり、そこを突き詰めるとシザが手を出して来た時に、アレクシスが彼を止めに入ってその結果戦うことになる、そういう可能性は存在する。


「その混乱にユラを巻き込みたくないんです。

 どんな不満も後日引き受けます。

 僕はもう二度と【アポクリファ・リーグ】に出れなくなっても構わない。

 でも明日だけは、僕の好きにさせて欲しいんです。

 お願いします」


 シザは頭を下げた。


「シザ君……」

 風が頬に、触れた。

「……仮に……私が明日、君を止めないとして。

 君は明日どんなことが起こると想像してる?」

 シザは顔を上げる。アレクシスが真っすぐに彼の方を見つめて来ていた。


「ユラ君のコンサートを見に、人はたくさん集まるはずだ。

 彼は明日【グレーター・アルテミス】に吹く全ての風の中心になる。

 その側には多くの人間がいる。

 奪いに走ったら必ず騒ぎになるはずだよ。

 その人達が、無事や軽傷で済む保証はないんだ」



「――――僕は貴方とは違うんですアレクシス・サルナート」



 アレクシスは小さく、息を飲んだ。


「貴方に軽蔑されても構わない。

 明日どんな騒ぎが起ころうとその騒ぎの中で何が起ころうと、僕は構わない。

 僕にとってはユラだけが確かで、全てなんです。

 他の何物にも代えられない。

 他の人間の大切なものをいちいち考えていては、身動きが取れなくなる。

 僕の力があるのは、この街の人たちを守るためじゃないんです。

 ユラを守る為だけにある。

 僕が【アポクリファ・リーグ】に参戦してない一般人だったら、必ず明日力ずくでも彼を取り戻した。特別捜査官である為にそれが出来ないなら、僕は【アポクリファ・リーグ】を辞めます。

 僕にはユラより大事なものはこの世にはない」


 強くこちらを見据えたシザに応えるように、一瞬強い表情を見せたアレクシスだが、すぐに眉を寄せて表情を緩める。


「シザ君。

 君を軽蔑なんてしない。

 私は君を尊敬しているよ」


「やめてください」


 シザは立ち上がって背を向ける。


「そういう話をしに来たんじゃない」


「違う。本当だ。

 この三カ月の君の忍耐や、ユラ君の強さを本当に尊敬している。

 私は君の事情をあの会見の時までよく知らなかったけど、彼が君にとってどれだけ大事な人なのかは分かったよ。

 ……実は詳細を知りたくて、プルゼニ公国での逮捕時の様子も、知り合いに改めて調べてもらったんだ」


 シザは振り返る。

「状況をちゃんと知りたくて。

 客観的に見ても私もあれは、不当逮捕だと思う。

 アポクリファ特別措置法は、いい面もあれば悪い面もある。

 あれは使い方なんだ。

 ユラ君は複雑な事情を抱えながらも【グレーター・アルテミス】を離れ、たった一人の家族である君の元を離れ、ピアニストとして懸命に日々を生きていた。

 君の言った通り、連邦捜査局は本当は君に聴取を取りたいんだよ。

 その為にユラ・エンデを拘束した。

 君にとって彼がどれだけ大切か、分かっていたからだ。


 ――――卑劣なやり方に、怒りを覚えたよ」


 シザは少し息を飲んだ。

 連邦捜査局のやり方は汚いが、ルールには則っていた。

 シザもユラも、法に基づけばそれを犯している。

 だがそれも、人が作った法だ。

 アポクリファでもない人間達の視点が強く反映された、複雑な環境で生きているアポクリファに少しも寄り添わない法なのだ。

 しかし人命を重んじるアレクシスが『卑劣』とまで言うと思っていなかったシザは驚いた。


 シザが人を殺したのは確かなのだから。


 アレクシスは、そこは非常に問題視するところだと思っていた。


「君はダルムシュタットへの出頭要請には応えないと決めているようだけど、

 決して話の出来ない人間じゃない。

 君やユラ君の人生に敬意を払いながらも、話を聞くことは出来たはずだ。

 それをあんなやり方で、君をおびき出す道具にするなんて間違ってる。

 許せないよ。

 本来【アポクリファ特別措置法】はアポクリファが幸せに、外の世界でも非能力者達と共存して暮らして行けるように、そういう理念のもとに作られた。

 綺麗事だとしても、理念ではそうなんだ。

 連邦捜査局のしたことは、それに大きく反してる。

 ――でもだからこそだよ……」


 アレクシスは苦しそうな顔をした。


「シザ君。

 君とユラ君はこの三か月、世間の不条理な憶測や好奇心を向けられながらも二人で、正しいやり方で立ち向かって来たと思う。

 私は凄いと思うんだ。君たちのその絆が。

 離れても、お互いを強く信じてる。

 でも明日君の言う通りのことが起きたら、この三か月の君達の苦しくとも勇敢な戦いが無になってしまうんじゃないか?

 ノグラント連邦捜査局がユラ・エンデの【グレーター・アルテミス】公演を許可したのは、彼を不当に拘束して自由を奪っているわけではないと、世界に対して示すデモンストレーションだ。

 それでも連邦捜査局側が【グレーター・アルテミス】を信頼してなければ、出来ないことでもある。

 君にはそう見えないかもしれないけど、彼らは【グレーター・アルテミス】が法を守り、ユラ・エンデをノグラントに帰還させると信じているから、ここに来ることを許可してる。

 彼らの利になることだからしてることは分かってる。

 それでも信頼を求めてのことだ。

 明日君が暴力的なやり方でユラ君を取り戻せば、先に約束を破ったのは君だと世界にそう思われる。

 勿論、不当逮捕が原点にある以上君の行動を称賛する人も、当然だと思う人もいるはずだけど……」


 アレクシス・サルナートは首を振った。


「……シザ君。今回の【グレーター・アルテミス】公演は、君とユラ君が必死に戦って、不当なやり方で暴力的に引き離されたことに、同じやり方で遣り合わなかった……信念を持って、正しいやりかたで訴える戦いをしたその成果だと私は思ってる。

 君たちが力を合わせて勝ち取ったものだ。

 それが多くの人の心を動かして、今回の公演も実現したんだ。

 きっと正しい方向に向かってる。ここで投げ出すべきじゃない。

 今投げ出したら、君たちが悪い立場になる。

 ユラ・エンデはノグラントに無事に帰すべきだ。

 ――諦めるためじゃない。

 連邦捜査局は君の立場が悪くなることは好ましいはずだよ。

 騒ぎを起こすのを待っている者すらいるかもしれない。

 だからそうなってはそういう者たちの思うつぼだ。


 ユラ君が無事に帰ったら【グレーター・アルテミス】も君も、ノグラント連邦捜査局の『善意』に応えたと世界はそう見るはず。

 そうすれば世界はもう一度連邦捜査局の方に問いかけ、答えを求めるはずだ。

 君やユラ君ではなくね。


 勝負は明日じゃない。

 明日を越えてからの所に本当に懸けるべき時が来る。

 きっと事態が動き出すと思うんだ。いい方へと。


 君が今も……この三か月も、自分が大切な人と会えず引き離されて、しかも相手の方が不自由で怖い状況に置かれている中で……。どんなに辛い思いをしているか、私は想像することしか出来ないけど、でも察してはいるつもりだ。

 だからもっと頑張ってくれという言葉の残酷さも、理解してる。

 それでも君たちの強さに訴えるしかない。

 騒ぎで重傷者や死者が出たら、君たちの神聖な想いまでが非難を受けるかもしれない。

 不幸の連鎖も続いて行く。

 でも君とユラ君なら自分たちの正当性を握ったまま世界を変えられると、その力があると私は思ってるよ。君たちなら必ず世界を動かせる」


 アレクシスが【グレーター・アルテミス】公演を『ノグラント連邦捜査局の善意』と言った時は一瞬剣呑な空気を見せたシザだが、アレクシスが言葉を終えると、彼は小さく笑みを見せた。


「さすがはチェスの凄腕ですね。アレクシスさん、あなたは」


「――えっ?」


「貴方は渾身の、勝負所というものがよく分かってる」


 何を言われたのかという顔をしたアレクシスが、必死に訴えていた表情を少し緩めた。

「アレクシスさん」

 シザはアレクシスの方をもう一度振り返る。


「ユラがこの世にいなかったり失われていたら、

 僕は貴方と一緒に戦う仲間じゃなくて、

 きっと貴方に追われる方の人間になってたと思います」


 シザは静かに微笑んだ。

 その表情を見たアレクシスの方が小さく息を飲む。


 その時見せたシザ・ファルネジアの笑みは仕事用のものではなく、心から出た柔らかいものだった。彼はあまり、仕事中はこういった顔は見せない。恐らくユラ・エンデに対してだけ見せるような、心を和らげた類いの表情なのだろうと思った。


「僕の心を救うというだけじゃない。

 ユラは……そんな僕の運命そのものを変えてくれた人なんです」


「シザ君……」


「お願いします。アレクさん。明日は僕を止めないで欲しい。

 そのかわりそうしていただいたら、ユラをもし無事に取り戻せたら――彼がラヴァトン財団の保護下に入ったことを確認出来たら、僕がノグラント連邦共和国に出頭します。

 連邦捜査局に行って彼らの望む尋問を受け、裁判も受ける。

 貴方に約束します。必ずそうすることを。

 それなら構わないでしょう?」


 アレクシスは驚いた。

「それでは君たちの苦しみは何も変わらないよ。シザ君」


「変わりますよ。僕にとっては、自分がどんなに不自由だろうと構わない。

 ユラが自由に日々を暮らせて、大好きな音楽に触れられるなら、僕はどんな状況だろうと構わないし耐えられる。

 でもその逆は無理なんです。

 僕がこの街で友人たちに囲まれて支えてもらってる時に、ユラが軟禁され音楽にも触れられずたった一人で泣いているなんて、もうこれ以上耐えられない。

 この状況が打破出来るなら、僕は何だってする。

 心の底から、願ってです」


 シザ・ファルネジアの抱える情熱の鮮やかさと必死さに、アレクシスは言葉を失った。

 それは圧倒されたと表現していいものだった。


「明日、僕を止めないでいてくれるのなら必ずこの約束は果たします。

 ユラが明日、無事に僕の許に戻れたら僕はノグラント連邦共和国に出頭する。

 そうすれば殺人者はきちんと法の裁きに掛けられ、罪の何もない優しい人が、不当な束縛から逃れられるということになる。

 貴方の信念に背いてはない。

 だから明日は、そうさせて下さい。

 ユラが戻れば、僕は出頭します」


「シザ君……君はそこまで……」


 深くシザはアレクシスにもう一度頭を下げる。


「では、明日はよろしくお願いします」


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