第2話 暗黒霧

「もしもし、健太?」

『颯太、ヤバい、 助けてくれ!』

 電話口から響いてきたのは、健太の切羽詰まった、ほとんど悲鳴に近い声だった。

「駅前の広場で、なんか黒い煙みたいなのが……周りのやつらが、バタバタ倒れてて、俺も、なんか、息が苦しい……うっ……」

 黒い煙――その言葉に、俺は凍りついた。まさか、『鴉』か? なぜ、駅前なんて人通りの多い場所で?

「健太、落ち着け、今どこにいるんだ」

「ひ、広場の……時計台の、近く……だけど……」

 砂粒がこすれ合うような音とともに通話は途切れた。

 俺はほとんど反射的にベッドから飛び起きていた。健太が危ない。頭の中はパニック寸前だったが、友人が危険な状況にいるという事実が、俺の身体を突き動かしていた。

 玄関でスニーカーに足を突っ込みながら、思考を巡らせる。どうする? 月島に連絡すべきか? いや、彼女が現場に駆けつけるまで時間がかかるかもしれない。その間に健太がどうなるか分からない。俺が行くしかない? でも、俺一人で何ができる? あの『鴉』とかいう危険な異能者を相手に……。

 逡巡しゅんじゅんする俺の脳裏に、月島の最後の忠告が蘇った。……無闇に能力を使わないでください。


 ――うるさい!


 心の中で叫んだ。友人が目の前で危険に晒されているのに、見過ごせるわけがないだろう。面倒事は嫌いだ。厄介事からは逃げたい。でも、それ以上に、後になってここで何もしなかったことで後悔するのは、もっと嫌だ。過去の俺なら、きっとためらっていただろう。だが、今の俺には、無視できない理由があった。


 俺は玄関のドアを乱暴に開け、夜の街へと飛び出した。ポケットの中で、月島の名刺の角が指に当たった。

「……クソッ、やるしかねえだろ」

 決意を固め、駅へと続く道を全力で疾走した。


 * * *


 息を切らして駅前の広場にたどり着くと、そこは想像を絶する地獄絵図と化していた。広場の中央付近から、渦を巻くように濃密な黒い煙が立ち上り、不気味に周囲へと広がっている。煙に触れた人々が、激しく咳き込みながら次々とその場に崩れ落ちていた。逃げ惑う人々の悲鳴と怒号が入り乱れ、完全なパニック状態だ。

 間違いない。昼間、月島が言っていた『鴉』の仕業だ。こんなおおやけで堂々と、無差別に人を襲うなんて、正気じゃない。

「健太!」

 俺は人々の流れに逆らい、煙が最も濃い時計台の方向へと突き進む。鼻をつく異臭と、喉を刺すような刺激に思わず顔をしかめる。持っていたハンカチで口と鼻を覆いながら周囲を見渡し、ついに時計台の根本近くで倒れている健太の姿を見つけた。

「おい、健太、しっかりしろ、健太!」

 駆け寄り、その肩を揺さぶった。健太は苦しげにうめき、虚ろな目で俺を見たが、意識はほとんどないようだった。顔色も悪く、呼吸も浅い。一刻も早く、この煙の中から連れ出さなければ。

 そのとき、背後に気配がした。

「……懲りないネズミだ。またお前か」

 背後から、ねっとりとした嘲りの声が聞こえた。振り返ると、揺らめく黒煙の中から、フードを目深に被った黒いコートの男――『鴉』がゆっくりと姿を現した。その手には、黒い煙が凝縮してできた禍々しい鎌のようなものが握られている。昨夜、俺が遭遇した男に間違いない。

「昨日はまんまと逃げられたが、まさか発現したてのヒヨッコだったとは。ご苦労なことだ、わざわざ死に場所を探しに来るとは。今日でだ」

 鴉から放たれる、剥き出しの殺意と圧倒的なプレッシャーに、俺の足は、すくみそうになった。怖い。本能が危険信号を鳴らしている。逃げ出したい。だが、俺の背後には、動けない健太がいる。ここで俺が逃げたら、健太は確実に殺される。

「お前…… 何の目的でこんな酷いことをするんだ!」

 震える声を叱咤し、俺は叫んだ。

「目的? 大したことじゃない。少しばかり、この街にはびこる無力なゴミむしどもを掃除して、我々『奈落アビス』に仇なす可能性のある『新しい才能』を選別しているだけだ。見てみろ、異能を持たない非力な人間は、こうして苦しみ、這いつくばるのがお似合いだろう?」

 鴉は心底愉快そうに、周囲で倒れ伏す人々を見回しながらいった。その歪んだ価値観と、命を弄ぶような態度に、俺の中で何かがブツリと切れる音がした。

「ふざけんな……」

 怒りが、恐怖を塗りつぶしていく。こいつだけは、絶対に許せない。

「おっと、威勢だけは一人前だな。だが、発現したての半端者に何ができる」

 鴉が嘲笑と共に腕を振るう。その動きに呼応して、黒い煙が鋭利な刃と化し、凄まじい速度で俺に向かって飛来する。

 まずい、避けろ!

 咄嗟に身体を捻るが、完全には避けられない。 刃が俺の身体を裂く――そう覚悟した瞬間だった。


 カキンッ!


 硬質な音と共に、俺の目の前に半透明の分厚い氷の壁が出現し、黒煙の刃を寸前で受け止めた。砕け散った黒煙が霧散する。

「そこまでです、『カラス』」

 凛とした声が広場に響く。声のした方を見ると、広場の入り口付近に、制服姿の月島栞が立っていた。肩で息をしているところを見ると、急いで駆けつけたのだろう。彼女の白い手からは冷気が立ち上り、その鋭い青い瞳が、真っ直ぐに鴉を射抜いていた。

 鴉は舌打ちをした。

「やはり現れたか、特対のイヌめが」

 鴉はさらに忌々しげに舌打ちをした。

「一般市民を巻き込む無差別な異能行使は断じて許しません。速やかに異能を解除し、投降しなさい」

 月島が右手を静かに前に突き出す。彼女の周囲の空気が急速に冷却され、キラキラと輝くダイヤモンドダストのような氷の結晶が舞い始めた。空気が張り詰める。

「投降だと? 笑わせるな。貴様らこそ、我々『奈落』の崇高なる目的の邪魔をするな!」

 鴉がわらい、その全身からさらに濃密な黒煙が噴き出した。それはまるでウジのようにうごめき、広場全体を飲み込まんばかりの勢いで広がっていく。

「神崎くん、下がって! 彼を安全な場所へ」

 月島が俺に向かって叫んだ。彼女が生み出した氷壁が、押し寄せる黒煙をかろうじて押し留めているが、壁には徐々に亀裂が入り始めている。長くは持ちそうにない。

 俺は意識のない健太を抱え、氷壁の後ろへと後退する。どうすればいい? 月島は確かに強そうだが、あの鴉を相手に一人で戦えるのか?


 そのとき、思った。彼女は一人じゃない。

 俺は自分の両掌を見た。

 この手には力がある。未熟で、制御もできなくて、使うのが怖い力だけれど、それでも、ここで健太を抱えて震えているだけなんて、絶対に嫌だ。

 月島は戦っていた。小柄な身体で、巨大な悪意に立ち向かおうとしている。俺と同じ、ただの高校生のはずなのに……。


「月島さん!」

 気づけば、俺は叫んでいた。

「俺も、手伝うから!」

 月島がわずかに目を見開いてこちらを見た。一瞬の驚きの後、彼女はすぐに表情を引き締めた。

「……足を引っ張らないでくださいよ」

 口調は相変わらずクールだったが、その声には先ほどまでの拒絶の色はなかった。むしろ、微かな信頼のようなものが感じられたのは、俺の気のせいだろうか。


 俺は一度、深呼吸する。足元に広がる自分の影を見つめた。心臓が激しく鼓動している。恐怖も、面倒だという気持ちも消えたわけじゃない。でも、それ以上に強い想いが、俺の心を突き動かしていた。守りたいものがある。この、まだ失いたくない日常や大切な友人を。そして、今、目の前で共に戦おうとしている、この気高く、強い少女を。


「いくぞ、鴉!」


 俺は影の中に意識を集中させた。研ぎ澄まされた感覚が、周囲の影の繋がりを捉える。ここからが、俺の、いや、俺たちの反撃だ。

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