第3話 覚醒する影、共鳴する氷
狙うは、鴉の背後に伸びる時計台の濃い影。
――跳べ!
瞬間、俺の身体は足元の影に沈み込み、視界が暗転する。一瞬の無重力感。そして、次の瞬間には、硬い石畳の感触と共に鴉の背後の影の中から飛び出していた。
「なっ!?」
さすがの鴉も、いきなり背後に現れた俺に驚きを隠せないようだ。その一瞬の隙を、月島さんが見逃すはずがない。
「凍てつけ!」
月島さんの凛とした声と共に、鋭利な氷の槍が数本、鴉めがけて高速で射出される。鴉は咄嗟に黒煙の盾を展開してそれを防ぐが、体勢は明らかに崩れていた。
「小賢しい真似を……」
鴉は忌々しげに吐き捨てると、その身から爆発的な量の黒煙を放出した。それは渦を巻きながら広がり、俺と月島さん、そして鴉自身の姿をも飲み込もうとする。
「まずい、あの煙は吸い込むな!」
月島さんの叫び声が聞こえる。俺は咄嗟に素手で口元を強く押さえた。だが、濃密な黒煙は視界を完全に奪い、方向感覚さえ狂わせる。息苦しさがじわじわと増していく。
「……どこだ、どこにいる!?」
黒煙の中で、俺は必死に鴉の気配を探る。だが、煙が濃すぎて何も見えない。聞こえるのは、遠くで響くパニックになった人々の声と、不気味な鴉の含み笑いだけだ。
「この『奈落の
声はすぐ近くから聞こえるのに、姿が見えない。このままではジリ貧だ。何か、何か他の手は? 俺の能力、『影潜り』。影がなければ使えない。この黒煙の中では無理だ。
ふと、俺は自分の足元を見た。濃い黒煙によって、地面には
俺は賭けに出ることにした。足元の黒煙が生み出した影に意識を集中する。そして、数メートル離れた場所にある、街灯の柱が生み出す微かな影をイメージする。
――――跳べ!
再び、身体が影に引き込まれる感覚。うまくいった! つまり黒煙が生み出す影も、『影潜り』のトリガーになる!
黒煙の中から飛び出すと、そこは比較的煙の薄いエリアだった。視界が開け、月島さんの姿を探す。彼女は氷の盾を展開し、押し寄せる黒煙を防ぎながら、懸命に鴉の位置を探っているようだった。だが、広範囲に広がる黒煙のせいで、動きが制限されているように見える。
「月島さん!」
「神崎くん!」
俺の声に気づいた月島さんが、わずかに安堵の表情を見せた。
「鴉の奴、この煙の中で自由に動き回ってる。見えないところから攻撃してくるぞ!」
「分かっています。ですが、この煙、私の氷結能力とも相性が悪い……水分量が少なく、氷結させにくい上に、視界も奪われる」
月島さんの額には汗が滲んでいた。彼女ほどの能力者でも、この状況はかなり厳しいらしい。
「だったら、俺が攪乱する。月島さんは、鴉の位置を特定して、一撃を叩き込んでくれ」
月島さんは一瞬のためらいを見せた。
「……できますか? あなたの能力はまだ不安定なはず」
「それでも他に方法はない!」
俺は再び黒煙の中に飛び込む覚悟を決めた。怖い。だが、俺が動かなければ、月島さん一人に負担がかかる。それに、健太もまだ危険な状態のままだ。
俺は黒煙によってできた影から影へと、短距離の移動を繰り返した。鴉に狙いを定めさせないように、絶えず位置を変え続ける。体力はどんどん削られていく。頭がクラクラする。だが、止まるわけにはいかない。
「ちょこまかと
俺の動きに苛立ったのか、鴉が黒煙の中から鎌のような触手を伸ばしてくる。それを紙一重でかわし、さらに別の影へと跳ぶ。
「神崎くん、そこです!」
月島さんの声が響いた。俺が鴉の注意を引きつけている間に、彼女は鴉の位置を特定したらしい。
「逃しません! 『絶対零度・氷槍乱舞(アブソリュート・ゼロ・アイシクルダンス)』!」
月島さんが両手を前方に突き出す。彼女の周囲から凄まじい冷気が放たれ、無数の鋭い氷の槍が生成される。それらが一斉に、黒煙の中の一点――鴉がいるであろう場所へと殺到した。
ギャァァァッ!
黒煙の中から、鴉の苦悶の叫び声が響き渡った。———ついに、
だが、次の瞬間、鴉の絶叫が狂気の笑い声へと変わった。
「この程度で俺が倒せると思ったか!」
氷の槍が突き刺さったはずの場所から、さらに濃密な黒煙が噴き出し、周囲の氷を瞬く間に侵食し、砕いていく。まずい、まだ奴は健在だ。しかも、怒りでさらに邪気が増している。
「ならば、これでどうです!」
月島さんは怯まず、さらに冷気を凝縮させ、巨大な氷塊を生成し、鴉めがけて叩きつけようとする。
「無駄だといっている!」
鴉は黒煙を鞭のようにしならせ、巨大な氷塊を打ち砕いた。砕けた氷の破片が周囲に飛び散る。
その時だった。不意に、俺の足元がおぼつかなくなった。黒煙の粒子を吸い込んでしまったのだろうか、視界が歪み、強烈な目眩と吐き気に襲われる。
「うっ……」
膝から崩れ落ちそうになる俺を見て、鴉がニヤリと笑ったのが分かった。
「ようやく効いてきたか。俺の『黒煙』は、ただ視界を遮るだけじゃない。吸い込めば神経系に作用し、幻覚と麻痺を引き起こす。お前のような未熟者には、耐えられんだろう」
身体に力が入らない。意識が朦朧としてくる。幻覚が見え始めた。地面が波打ち、周囲の建物がぐにゃぐにゃと歪んで見える。
「神崎くん!」
月島さんの悲鳴のような声が遠くに聞こえる。彼女が俺を助けようと駆け寄ってくる気配を感じるが、鴉がそれを許さないだろう。
このままじゃ、俺も月島さんも……。
薄れゆく意識の中、俺は必死に思考をめぐらせた。何か、何かできることは? 影潜り……影……。そうだ、影は移動するだけじゃない。影の中に『隠れる』こともできるはずだ。そして、影は……光がなければ生まれない。
俺は最後の力を振り絞り、すぐ近くにある街灯を見上げた。あの光、そしてあの光が生み出す影。鴉は黒煙の中にいる。光のある場所は、奴にとって死角になるはずだ。
俺は震える手でポケットを探り、スマートフォンを取り出した。画面を最大輝度にし、ライト機能をオンにする。そして、その光を、鴉がいるであろう方向とは逆、月島さんがいる方向に向ける。
「月島さん! 光の影に!」
俺は叫び、スマートフォンの光が生み出した、自分のすぐそばの小さな影に、転がり込むように身体を滑り込ませた。
一瞬の暗転。そして、俺は月島さんのすぐ隣、彼女が立っている場所の影の中に潜んでいた。スマートフォンの光が、黒煙の中に一筋の道を照らし出し、俺が移動するための『影の道』を作り出してくれたのだ。
「なっ……消えた!?」
鴉の驚愕の声が聞こえる。俺が使ったのは、ほんのわずかな影。奴は俺が遠くに逃げたとでも思ったのかもしれない。
影の中から、俺は月島さんの足元を見た。彼女も一瞬驚いたようだが、すぐに俺の意図を理解したらしい。
「月島さん、今だ!」
俺は影の中から声を送る。
月島さんは頷くと、深く息を吸い込み、全神経を集中させた。彼女の青い瞳が、氷のような輝きを放つ。
「邪悪なる煙よ、その動き、私が封じる。『永久凍土(パーマフロスト)』!」
月島さんが両手を地面につけた瞬間、彼女を中心として、凄まじい速度で地面が凍結し始めた。それは鴉が展開する黒煙をも飲み込み、その動きを鈍らせ、固めていく。
「ぐっ……! この小娘!」
鴉の足元が凍りつき、動きが封じられる。黒煙の勢いも明らかに弱まった。
「とどめです!」
月島さんは凍結した地面から巨大な氷の杭を生成し、身動きの取れない鴉めがけて打ち込もうとした。
だが、その瞬間。
「……チッ。ここまでか」
鴉は苦々しげに呟くと、その身体を急激に黒煙へと変化させた。氷の杭は、実体を失った黒煙を空しく貫くだけだった。
「逃がしません!」
月島さんがさらに追撃しようとするが、鴉の黒煙は収束しながら急速に後退していく。
「覚えていろ、小娘。そして、影使いのハンパ者。この借りは、必ず返す。お前たちの日常は、いずれ我々『奈落』が喰らい尽くしてやる……!」
捨て台詞を残し、鴉の気配は完全に消え去った。
鴉が消えると、広場を覆っていた黒煙も急速に薄れていった。後に残されたのは、あちこちで倒れている人々と、戦闘の痕跡である砕けた氷、そして凍りついた地面だけだった。
「はぁ……はぁ……」
俺は影の中から這い出し、その場にへたり込んだ。全身が鉛のように重い。吸い込んだ黒煙の影響か、まだ少し頭がくらくらする。
「神崎くん、大丈夫ですか!?」
月島さんが駆け寄ってきて、俺の肩を支えてくれた。彼女もかなり消耗しているようで、額には汗が光り、息も上がっている。
「なんとか……。月島さんこそ、無茶しすぎだって」
「あなたこそ。まさか、異能を発現して二日目で、あそこまで動けるとは思いませんでした」
月島さんの声には、わずかな驚きと、そして……安堵のような響きがあった。
「健太!」
俺ははっとして、健太が倒れていた場所へ、ふらつく足どりで駆け寄った。彼はまだ意識を取り戻していなかったが、呼吸は先ほどより安定しているように見えた。
「健太……!」
彼のそばに膝をつき、安堵のため息をつく。間に合ってよかった。本当に。
月島さんは周囲の状況を確認しながら、スマートフォンを取り出してどこかへ連絡を取り始めた。
「こちら月島。状況終了。対象『鴉』は撤退。負傷者多数。現場は駅前広場。後処理部隊と医療班の派遣を要請します……はい、彼の異能の影響を受けた可能性のある民間人のケアもお願いします」
テキパキと指示を出す月島さんの姿は、やはりただの高校生とは思えなかった。特対のエージェント。それが彼女のもう一つの顔なのだ。
やがて、サイレンの音と共に、警察や救急隊とは違う、黒い制服を着た集団が広場に到着した。彼らは手際よく負傷者の救護にあたり、現場の規制を開始する。おそらく、彼らが月島さんの言っていた『特対』の後処理部隊なのだろう。
健太もストレッチャーに乗せられ、医療班と思われる人々に運ばれていった。俺は心配そうにその姿を見送る。
「彼は大丈夫でしょう。初期対応が早かったのが幸いしました。あとは専門の医療班に任せましょう」
月島さんが俺の隣に立ち、静かにいった。
「専門の、って……普通の病院じゃないのか?」
「異能による特殊な影響を考慮した処置が必要です。我々には、そういった事態に対応できる施設と人員がいます」
やはり、俺たちの知らないところで、世界は動いているらしい。
後処理が進む広場を見つめながら、俺は改めて自分が足を踏み入れてしまった世界のことを考えていた。危険で、理不尽で、そして何より面倒くさい世界。だが、同時に、守るべきものがあることも知ってしまった。
「神崎くん」
月島さんが俺に向き直る。
「今日のあなたの行動、見事でした。未熟ながらも、その機転と勇気は賞賛に値します」
「いや、俺はただ、必死だっただけで……」
「それでも、あなたは友人を、そして多くの人々を救うために行動しました。その事実は変わりません」
月島さんは続けた。
「改めて、あなたに問います。私たち『特対』に協力する意思はありますか? あなたの力は、これから必要になるはずです。『
彼女の真っ直ぐな青い瞳が、俺の答えを待っている。
俺は一度目を閉じ、深呼吸した。もう、元の平凡な日常には戻れないのかもしれない。面倒事は嫌いだという気持ちも変わらない。でも、こんな不可思議な能力を隠しながら、鴉のような奴らが、この街で好き勝手するのを見過ごすことは、もっと嫌だ。そして、月島さんのように、人知れず戦っている人たちがいるのなら。
「……分かった。協力するよ」
俺は、はっきりと答えた。
「ただし、条件がある」
「条件、ですか?」
「俺はまだ高校生だ。学業が疎かになるような無茶な任務は勘弁してほしい。あと、バイトをする時間も確保したい。あと……なるべく痛いのはいや」
俺がそういうと、月島さんは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにふっと口元を緩めた。彼女が笑ったのを、俺は初めて見たかもしれない。
「……分かりました。善処します。ようこそ、神崎颯太くん。これより、あなたは『特異事象対策課』の協力者です」
月島さんが俺に向かって、そっと右手を差し出した。俺はその手を、少しだけためらいながらも、しっかりと握り返した。彼女の手は、そのクールな見た目に反して、少しだけ温かかった。
こうして、俺の灰色だった日常は、影と氷の色に染まり始めた。面倒で、危険で、だけど、少しだけ放っておけない、新しい日々が幕を開けたのだ。
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