第2話:固い殻を破る
真夏の炎天下、世田谷区役所の中は冷房が効きすぎるほど冷えていた。窓口に並ぶ人々の間で、一人の若い母親が困惑した表情を浮かべていた。赤ん坊を抱き、書類の山と格闘している。
そんな彼女の隣で、撫子は窓口職員と静かに、しかし毅然と対峙していた。
「どうして女性だけ扱いが違うんですか?」
撫子の声が冷え切った区役所のロビーに響いた。彼女は今日は記者としてではなく、一市民として来ているはずだった。しかし、隣で悩んでいる母親の姿を見過ごすことができなかった。
「申し訳ありません。しかし規則ですので...」窓口の中年男性職員は機械的に答えた。その目は撫子を見ようとしない。
「この明らかに不合理な規則を作ったのは誰ですか?」撫子の口調は冷静だが、その目は怒りを秘めていた。
「それは...」職員は言葉に詰まった。
撫子はタブレットを取り出し、区の条例を表示させた。仕事柄、彼女はいつも法律や条例をチェックする習慣があった。
「ここには離婚後の母親に対する手当申請に『前夫の同意書』が必要とは一言も書かれていません。これは窓口レベルでの恣意的な運用です」
周囲の人々が注目し始めた。列に並んでいた人々が、そっと振り返る。撫子は続ける。
「DV被害から逃げてきた方に、加害者の署名を求めるのは二次加害です。これが区の方針なら、今日中にメディアに通報します」
窓口職員は慌てて上司を呼んだ。十分後、課長らしき中年男性が現れた。彼の額には汗が浮かんでいた。
「大変申し訳ありませんでした。確かに内規と条例の解釈に齟齬がありました。申請を受理いたします」
撫子は黙って頷き、若い母親に目配せした。
「ありがとうございます」母親は小声で撫子に言った。その目には涙が浮かんでいた。「半年も待たされていたんです...」
「法律を知ることは武器になります」撫子はメモを渡した。「これは母子家庭の支援団体の連絡先です。一人じゃないんですよ」
母親は感謝の言葉を繰り返した。そして自分の申請を終えると、赤ん坊を抱いて嬉しそうに帰っていった。
撫子も手続きを済ませ、区役所を後にした。夏の陽射しが彼女の肌を焼く。彼女は日陰を求めて歩きながら、今日の出来事について考えていた。
彼女の携帯が鳴った。見知らぬ番号だった。
「鳳凰院です」彼女はいつもの冷静な声で応答した。
「鳳凰院さん...」ためらいがちな女性の声。「私、さっきの窓口の隣で待っていた者です。同じ問題で悩んでいて...」
「明日、同じ場所で会いましょうか?」撫子は即答した。彼女の声には珍しく温かみがあった。
それからの二週間、撫子は本業の片手間に区役所の問題に取り組んだ。同じ問題で悩む母親たちから話を聞き、条例や法律を調べ、区議会議員に働きかけた。そして、地元紙に小さな記事を寄稿した。
その日から二週間で、区の「内規」は正式に改定された。窓口には新しい案内が掲示され、手続きの簡素化が図られた。申請者たちの顔に、長い間見なかった安堵の表情が浮かんだ。
ある日、撫子は区役所の前で待っていた女性たちと茶店で話していた。
「鳳凰院さんのおかげで、本当に助かりました」一人の母親が言った。
「私は何もしていません」撫子は首を振った。「皆さんが声を上げて、変えたんです」
「でも、最初の一歩を踏み出すのは、本当に怖かった...」
撫子は窓の外を見やった。夏の終わりを告げる風が街路樹の葉を揺らしている。
「変化は常に恐ろしいものです。でも、恐れずに立ち向かえば、必ず道は開けます」
彼女の言葉に、母親たちは深く頷いた。撫子は彼女たちの表情に、小さな勝利の喜びを見た。システムを変えるのは、いつだって勇気ある個人の行動なのだ。
カフェを出た後、撫子は母親の一人から連絡先を教えてほしいと言われた。
「もし何かあったら...また相談したいので」
撫子は快く応じた。そして連絡先を渡しながら、ふと言った。
「時々、この街のどこかで一緒にお茶でもいかがですか? 私も...たまには普通の会話がしたいんです」
その言葉に、母親は目を丸くした。いつも強く冷静な鳳凰院さんが、そんな弱さを見せるとは思ってもみなかった。
「ぜひ! 今度は私たちが鳳凰院さんのお話を聞きますね」
撫子は照れたように笑った。それは彼女にとっても意外な展開だった。これまで仕事以外の人間関係を築くことに、彼女はあまり積極的ではなかったのだから。
帰り道、撫子は心の中で自問した。
「私は変わっているのかしら?」
答えは分からなかったが、何かが変わり始めていることは確かだった。
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