【お仕事短編小説】不屈の花、鳳凰院撫子の選択 ~沈黙を破る風と正義の記者~」
藍埜佑(あいのたすく)
第1話:風の予感
東京の喧騒が渦巻く中、鳳凰院撫子の革靴が古びたビルの階段を力強く踏みしめた。三十三階、窓からは東京の街が一望できる。七月の強い日差しが高層ビルのガラス窓を照らし、まばゆい光を放っていた。エレベーターの故障を知らせる紙が貼られていたため、撫子は階段を選んだ。汗一つかかない彼女の動きには、日頃の鍛錬が窺えた。
彼女はネイビーのスーツの襟を正すと、会議室の扉に手をかけた。ドアノブの冷たい感触が手のひらに伝わる。深呼吸をして心を落ち着かせると、扉を開いた。
「お待たせしました、鳳凰院撫子です」
会議室に並ぶ男性陣の表情が一瞬で硬直した。女性一人を前に、十二人の重役たちが居心地悪そうに姿勢を正す。長方形のテーブルを囲む彼らは、まるで裁判にかけられた被告人のようだった。
「何故、我々の会議に部外者が?」最年長の森川会長が眉をひそめた。その眉間のしわは、長年の権力の象徴のようだった。
撫子は微笑を浮かべたまま、クリーム色の革製鞄から一枚の書類を取り出した。彼女の赤いネイルが書類に映える。
「貴社の内部告発に基づき、私が調査した結果です。御社の新薬開発部門が副作用データを改ざんしていた証拠があります」
撫子の声は静かだが、その言葉は会議室に爆弾を投下したようなものだった。重役たちが顔を見合わせる。
「馬鹿な! 誰がそんな嘘を?」森川会長の声が響いた。その声には怒りと焦りが混ざっていた。
「嘘ではありません。そして内部告発者は——」
撫子は壁に目をやった。天井近くの通気口から小さな頭が顔を出している。痩せた顔立ちと厚い眼鏡が特徴的な男性だ。研究部の平田研究員。彼女は小さく頷いた。
「私です」平田が通気口から身を乗り出した。その顔は蒼白だったが、目は決意に満ちていた。「もう、嘘はつきたくありません」
森川会長の顔が青ざめる。他の重役たちも動揺を隠せない。
「平田くん、君は何を——」開発部長が声を荒げた。
「十分です」撫子が冷静に割って入った。彼女は会議用テーブルの端に書類を広げた。「これがデータの原本、そしてこれが改ざん後のもの。臨床試験で現れた肝機能障害の症例が半数以上削除されています」
重役たちは言葉を失った。
「調査報道記者として、私はこの件を記事にします。しかし——」撫子は一呼吸置いた。その間、会議室は水を打ったように静まり返った。「その前に御社には選択肢があります。すべての改ざんを公表し、被害者への補償と薬の改良を約束するなら、私はあなた方の更生の物語として記事を書きます」
沈黙が部屋を満たした。窓の外では都会の喧騒が続いているのに、この部屋だけが別世界のように静寂に包まれていた。
「世間の信頼を買うか、会社の崩壊を選ぶか。どちらにせよ、古い体制は崩れます」撫子の瞳に強い意志が宿っていた。
森川会長は撫子をじっと見つめた。彼の目には怒りと共に、かすかな敬意のようなものも浮かんでいた。
「どうせ勝てない戦いなら、名誉ある撤退も選択肢だろう」ついに彼は言った。「平田くん、君の言いたいことを聞こう。そして、鳳凰院さん、改革の道筋を示してほしい」
それから三時間、激しい議論が交わされた。時には声を荒げ、時には沈黙が続いた。しかし最終的に、会社は公表と補償、そして薬の改良に合意した。
三時間後、平田は社屋を出る撫子に駆け寄った。七月の夕暮れが二人を赤く染めていた。
「鳳凰院さん! 本当にありがとうございます。彼らが認めるなんて...」平田の声は興奮で震えていた。
撫子はさりげなく肩をすくめた。「真実はいつか明るみに出るもの。私はただ、それを早めただけよ」
平田は撫子の冷静さに驚きながらも、感謝の気持ちを抑えられなかった。
「でも、あなたがいなければ...みんな長年苦しんでいました。特に患者さんたちが」
「明日から、あなたの研究室は違う場所になるわね。真実の場所」撫子は微笑んだ。夕陽に照らされた彼女の横顔が美しい。
彼女が去った後、平田の携帯が鳴った。新しい開発チームのリーダーに任命されたという知らせだった。森川会長の意外な決断だった。平田の目に涙が浮かぶ。
翌日の朝刊に、製薬会社の自主的な過ちの公表と改革の記事が載った。撫子の名前は小さく、記事の最後に記されているだけだった。それが彼女のスタイルだった。主役は常に真実であり、彼女自身ではない。
撫子はその記事を読みながら、静かにコーヒーを飲んでいた。彼女のアパートの窓からは、朝の光に照らされた東京の街並みが見える。
「一つ片付いたわね」彼女は誰もいない部屋に向かって呟いた。
彼女の携帯が鳴った。別の案件の相談だった。撫子は最後のコーヒーを飲み干すと、再び鞄を手に取った。彼女の戦いは終わらない。まだ世の中には、声を上げられない人々がたくさんいるのだから。
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