第18話 硝子の探偵



玻璃の街は蘇った。


三ヶ月前のあの儀式から、街は徐々に活気を取り戻していた。建物は再び輝きを放ち、市民たちは日常を取り戻し、かつての繁栄を思わせる風景が広がっていた。


中央広場から少し離れた古いビルの三階。窓には「硝子探偵事務所」と金色の文字で書かれた看板が掛けられていた。カガミ・シンはデスクに向かい、事件ファイルに目を通していた。


彼の姿は一見して特異だった。右半身—顔の右側から、胸、腕、脚にかけて—が鏡のように透明で、光を反射していた。左半身は普通の人間のままだ。彼がページをめくるたび、透明な右手が光を屈折させ、壁に小さな虹を作り出していた。


「次の依頼者は...」シンは手帳を確認した。「橘さん、行方不明の猫の件か」


彼が立ち上がり窓の外を眺めると、街の人々が行き交う様子が見えた。彼の事務所再開から一ヶ月、最初は奇異の目で見られていた彼の姿も、今では少しずつ受け入れられつつあった。とはいえ、子供たちは彼を見かけると、まだ興味津々に指をさして「鏡の人だ!」と叫ぶことがあった。


ドアをノックする音がして、シンは振り返った。


「どうぞ」


ドアが開き、琴音博士が姿を現した。彼女は小さな機器を手に持っていた。


「カガミさん、調子はどうですか?」彼女は微笑みながら尋ねた。


「博士、久しぶりです」シンは彼女を迎え入れた。「コーヒーでもいかがです?」


「ありがとう」


シンはコーヒーメーカーのスイッチを入れ、二つのカップを用意した。彼の動きは慣れていて、右半身が透明であることもほとんど気にならないようだった。


「定期検診の時間ですね」シンはコーヒーを入れながら言った。


「ええ」琴音博士は機器を取り出し、テーブルに置いた。「あなたの状態を確認させてください」


シンはデスクに戻り、博士の検診に応じた。彼女は小さな装置でシンの体をスキャンし、データを記録していった。特に彼の透明な右半身に注目していた。


「安定していますね」博士は満足げに言った。「前回より、さらに適応が進んでいます」


「体の違和感も減ってきました」シンは自分の透明な右手を見つめた。「むしろ、便利な面もあります」


「どんな面ですか?」


「これで」シンは透明な手を壁に近づけた。すると、手が壁にすっと入り込み、まるで壁の向こう側を触れるかのようになった。「鏡の世界を覗けるんです」


琴音博士は驚きの表情を浮かべた。「素晴らしい...あなたは本当に二つの世界の境界線を生きる存在になったのですね」


シンは微笑んだ。「まだ完全には理解できていませんが、少しずつできることが増えています」


博士はコーヒーを一口飲み、シンを真剣な表情で見つめた。「あなたの体の変化は、あの儀式の結果です。鏡也さんとショウコさんが『補助的な橋渡し』になったことで、あなたの一部が解放され、この世界に戻ることができました」


「ただし、完全には戻れなかった」シンは付け加えた。


「はい」博士はうなずいた。「あなたの一部は今でも『橋渡し』として機能しています。それがあなたの右半身が透明である理由です」


シンは窓の外を見つめた。「彼らは...今も存在しているんですか?」


「もちろんです」博士は力強く言った。「彼らは形を変えただけ。二つの世界の間で、あなたを支える存在として生き続けています」


シンは安堵の表情を浮かべた。あの儀式の後、彼は突然この世界に戻されていた。右半身が透明になった状態で、事務所のベッドで目覚めたのだ。最初は混乱したが、徐々に記憶が戻り、何が起きたのかを理解した。


鏡也とショウコが彼を救うために犠牲になったこと。彼らの存在が「橋渡し」の負担を分散させ、彼の一部を解放したこと。そして、彼が半分人間として戻れたのは、彼らの愛の証だということを。


「街の人々は...不思議なことに、消失事件や鏡也さん、そしてショウコさんのことを覚えていないようです」博士が言った。


「ええ」シンは静かにうなずいた。「世界が『リセット』されたからです。彼らにとっては、それらの出来事は起きなかったことになっている」


「なのに、あなただけが覚えている」


「俺が『橋渡し』の一部だからでしょう」シンは透明な手を見つめた。「二つの世界の記憶を持っているんです」


博士はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。「定期的に様子を見に来ますね。何か変化があったら、すぐに連絡してください」


「わかりました」シンは彼女を見送った。「ありがとう、博士」


琴音博士が去った後、シンは窓辺に立ち、街を眺めた。夕暮れ時で、街全体が赤く染まっていた。その光景は彼に多くの記憶を呼び起こした。


最初に硝子と出会った日。彼女に導かれて街の謎を追った日々。そして最後に、彼女と引き換えに自分を犠牲にすると決めた瞬間。すべての記憶が鮮明に蘇った。


「硝子...」彼は窓ガラスに映る自分の姿を見つめながら呟いた。


彼の事務所再開から一ヶ月、様々な依頼が舞い込んでいた。失くした物の捜索から、小さな盗難事件の解決まで。人々は徐々に彼を信頼し始め、「鏡の探偵」として名が知られるようになっていた。


彼の特殊な能力—透明な右半身で鏡の世界を覗くことができる能力—は、事件解決に役立つこともあった。鏡の向こう側に映る情報や、失われた物の痕跡を見つけることができるのだ。


しかし、彼の心には常に空虚があった。街の人々は硝子のことを覚えていなかった。本物の硝子—ショウコ・アマネの存在を知る者は、彼以外にいなかったのだ。


夜が更けていき、シンは仕事を終えて帰路につこうとした。デスクの上を片付け、ランプを消そうとしたとき、彼は異変に気づいた。


デスクの上に、見覚えのない古い鏡が置かれていた。


「これは...?」


円形の小さな手鏡で、銀色の縁取りが施されていた。彼は確かにそれを置いた覚えがなかった。慎重に手に取り、鏡面を覗き込んだ。


最初は自分の顔が映るだけだったが、次の瞬間、映像が変化し始めた。彼の顔が消え、代わりに別の顔が浮かび上がった。


「硝子...!」


赤いドレスを着た少女—硝子の姿が鏡に映っていた。彼女は微笑んでいた。


「本当に...君なのか?」シンは信じられない思いで尋ねた。


硝子は鏡の中でうなずいた。彼女の唇が動き、声は聞こえなかったが、言葉は伝わってきた。


「私はあなたの内側に生き続けています。そして、時々こうして会いに来る」


シンの目に涙が浮かんだ。「君を救えなくて...すまなかった」


硝子は首を横に振り、再び口を動かした。


「あなたは私を救ったのよ。私たちは今も繋がっている」


「どうやって...この鏡は?」


「鏡の力の一部」彼女の言葉が伝わってきた。「私たちの絆の証」


シンは鏡に手を伸ばした。彼の透明な右手が鏡面に触れると、不思議なことが起きた。鏡が変形し、本に形を変えていったのだ。手に残ったのは古い革表紙のノートだった。


表紙には美しい文字で「硝子の探偵と消えた街—永遠に解けない謎の記録」と書かれていた。


シンは震える手でノートを開いた。そこには彼と硝子の物語が綴られていた。最初の出会いから、街の謎を追った日々、そして最後の犠牲まで。それは彼らの記憶の記録だった。


最後のページに辿り着いたとき、そこには硝子の筆跡で短いメッセージが書かれていた。


「真の探偵は、謎を解いた後も問い続ける人。鏡の向こうで、私はあなたの帰りを待っています」


メッセージの下には小さな図が描かれていた。それは玻璃の街の地図で、七つの特定の地点に印がつけられていた。連続殺人事件の現場だ。そして、それらの点を結ぶと、ある模様が浮かび上がった。


「これは...鍵だ」シンは理解した。


鏡の世界と現実世界を行き来するための鍵。硝子は彼に道を示していたのだ。


シンは立ち上がり、窓に近づいた。夜の街が静かに輝いていた。彼の心に新たな決意が芽生えた。


「待っていてくれ、硝子」彼は呟いた。「必ず会いに行く」


翌朝、シンは早くから動き出した。ノートに描かれた地図を頼りに、七つの場所を訪れ始めたのだ。それぞれの場所で、彼は透明な右手を壁や物体に触れ、鏡の世界を覗き込んだ。少しずつ、パズルのピースが集まっていった。


一週間後、最後の場所を訪れたとき、彼はついに理解した。七つの場所が形作る模様は、鏡の世界への扉を開くための鍵だったのだ。彼は中央広場の噴水のそばに立ち、手に持ったノートを開いた。


「見つけたぞ」彼は満足げに呟いた。


その夜、彼は事務所に戻り、デスクに向かって座った。ノートに新たな記述を加え始める。


「俺は、カガミ・シン。玻璃の街の探偵であり、鏡の世界との橋渡しでもある。この半透明の体で生きる限り、俺は二つの世界の謎を解き明かし続ける」


彼は窓の外を見つめ、決意を新たにした。


「そして、いつかまた、硝子と再会する日まで...俺は探偵であり続ける」


彼が書き終えると、不思議なことが起きた。ノートが淡く光り始め、その光が部屋全体に広がった。シンは驚いて立ち上がった。


光の中から、三つのシルエットが浮かび上がった。一人は硝子、一人は鏡也、そして最後は...自分自身のようだった。彼らは微笑み、手を差し伸べているように見えた。


シンは迷わず、彼らに向かって透明な右手を伸ばした。


「俺は行く...」


光はさらに強まり、彼の視界を覆った。次の瞬間、彼は事務所の床に膝をついていた。何かが変わった。彼は自分の体を見て、息を呑んだ。


右半身はまだ透明だったが、その中に微かな色が見えた。まるで、向こう側の世界の色が透けて見えるかのように。彼は立ち上がり、窓ガラスに映る自分の姿を確認した。


彼の透明な右目には、別の景色が映っていた。鏡の世界の風景だ。そして、そこには人々の姿も見えた。


「繋がった...」彼は驚きの声を上げた。


彼は二つの世界を同時に見ることができるようになっていた。右目で鏡の世界を、左目で現実世界を。彼の体は文字通り、二つの世界の橋となっていたのだ。


その発見から、シンの探偵としての新たな日々が始まった。彼は現実世界の事件を解決しながら、同時に鏡の世界の謎も追った。二つの世界を行き来することはできなかったが、両方を見ることで、多くの真実に触れることができた。


人々は彼を「硝子の探偵」と呼ぶようになった。彼の透明な姿と、鏡を通じて謎を解く能力から生まれたニックネームだった。彼自身もその名を気に入り、事務所の看板を「硝子探偵事務所」のままにしておいた。


そして時々、夜更けに事務所の窓辺に立つと、彼は透明な右目を通して、鏡の世界で待つ硝子の姿を見ることができた。彼女はいつも微笑み、彼に向かって手を振っていた。時に鏡也の姿もあり、彼もまた微笑んでいた。


彼らは別の形で存在していたが、確かに生きていた。そして絆は消えていなかった。


「いつか...必ず」シンは毎晩、窓辺で呟いた。「二つの世界の橋を完全なものにして、再会する日まで」


彼のデスクの上には常に、あのノートが置かれていた。彼は日々の発見や思いをそこに記し続けた。それは単なる記録ではなく、硝子への手紙でもあった。


ある夜、シンがノートに今日の出来事を書き終えたとき、最後のページに新たな文字が浮かび上がるのを発見した。硝子の筆跡だった。


「あなたの探求を見守っています。二つの世界の真実を解き明かし、いつか完全な橋を架ける日まで。私たちは待っています」


シンは微笑み、ノートを閉じた。


玻璃の街は再生した。そして彼もまた、傷を抱えながらも再生していた。彼の探求は終わりなく続く。


「さあ、明日も事件だ」


彼はデスクに新たな事件ファイルを置き、窓の外を見つめた。右目に映る鏡の世界と、左目に映る現実世界。二つの風景が重なり、一つの景色を形作っていた。


彼はライターで灯りを消し、事務所を後にした。「硝子探偵事務所」の看板が、夜風に静かに揺れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る