第17話 硝子の代償
眩い光が徐々に薄れていく。
ショウコは目を開けた。彼女は中央神殿の床に横たわっていた。周囲には評議員たちや琴音博士、そして鏡也の姿があった。皆が心配そうに彼女を見つめていた。
「ショウコ!」鏡也が駆け寄り、彼女を抱き起こした。「大丈夫か?」
彼女はゆっくりと体を起こした。頭が少し混乱していたが、意識は明瞭だった。彼女は自分の手を見た。かつての半透明の姿ではなく、完全に実体を持った手だった。
「私は...戻ってきた」彼女は小さく呟いた。
「儀式は成功したのか?」琴音博士が近づいてきた。
ショウコはうなずいた。「はい。シンは『橋渡し』になりました」
会場に安堵の溜息が広がった。二つの世界の崩壊を防ぐ道が開かれたのだ。
「シンは...どうなったんだ?」鏡也が静かに尋ねた。
ショウコは中央の床を見た。そこには儀式の痕跡だけが残り、シンの姿はなかった。
「彼は今、二つの世界の間にいます」彼女は説明した。「彼の意識は拡大し、両方の世界を見守っています」
「もう...戻ってこないのか?」鏡也の声は悲しみに満ちていた。
「完全な形では難しい」ショウコは正直に答えた。「でも、彼は約束しました。何らかの形で現れると」
琴音博士が測定器を確認していた。「二つの世界の境界が安定し始めています。彼の『橋渡し』としての役割は機能しているようです」
「では、危機は去ったのですね」評議員の一人が安堵の表情で言った。
「はい」琴音博士はうなずいた。「しかし、これは終わりではなく、新たな始まりです。世界のバランスを保つための継続的な努力が必要になります」
ショウコは立ち上がった。彼女の体は完全に回復していたが、心には大きな空虚があった。彼女の一部である硝子と、そしてシンを失った悲しみだった。
「外を見てください」琴音博士が窓を指さした。
神殿の窓から外を見ると、玻璃の街全体が新たな輝きを放っていた。建物のガラスがより鮮やかに光り、街全体が生気を取り戻していくのが見えた。
「街が...再生している」鏡也は驚いて言った。
「シンの決断の結果です」琴音博士は説明した。「彼が『橋渡し』となることで、鏡の世界に新たな力が流れ込んでいるのです」
評議会は短い勝利の宣言の後、解散した。重要な任務は完了したが、多くの課題がまだ残っていた。二つの世界の安定を維持し、シンの犠牲を無駄にしないための取り組みだ。
ショウコと鏡也は神殿を後にした。二人は車に乗り、街を通り抜けながら、再生していく玻璃の街を眺めた。
「彼の犠牲は無駄ではなかった」鏡也が静かに言った。
「ええ」ショウコはうなずいた。「でも...」
「彼がいなくて寂しい」鏡也は彼女の思いを言葉にした。
「はい」
二人は沈黙の中で街を走った。シンのアパートに到着すると、二人は迷いながらも中に入った。彼の残したものを整理する必要があった。
アパートは静かで、シンの存在が感じられた。彼の服、本、日用品...すべてが彼の不在を際立たせていた。
「どうする?」鏡也が尋ねた。「このアパートは...」
「しばらく残しておきましょう」ショウコは答えた。「彼が...戻ってくる可能性があるから」
鏡也はうなずいた。彼もまた、弟が何らかの形で戻ってくることを願っていた。
ショウコはリビングの窓際に立ち、街を眺めた。夕暮れ時で、街が赤く染まっていた。かつての赤い部屋を思い出させる光景だった。
「私たちはこれからどうするの?」彼女は静かに尋ねた。
「彼の意志を継ぐ」鏡也は決意を込めて言った。「私は『鏡の技術者』として、二つの世界の安全な交流方法を研究し続ける。お前は?」
「私も研究を続けるわ」ショウコは答えた。「でも、今度は破壊のためではなく、保存のために」
その時、突然、部屋の空気が変わった。微かな風が吹き、窓の光が揺らめいた。
「何かを感じる?」ショウコが緊張して言った。
「ああ」鏡也も同じ感覚を抱いていた。「これは...」
部屋の中央に、うっすらとした光が現れ始めた。それは人の形に近づいていった。シルエットが明確になるにつれ、二人は息を呑んだ。
「シン...?」
光のシルエットはますます鮮明になり、確かにシンの姿だった。しかし、完全な実体ではなく、半透明の姿。彼は微笑んでいるように見えた。
「シン!」ショウコは駆け寄ろうとしたが、鏡也が彼女を引き留めた。
「触れないほうがいい」彼は警告した。「これは彼の現れ方の一つだ。完全な実体ではない」
シンの姿は口を開いた。声は聞こえなかったが、彼の唇の動きを読み取ることができた。
「心配するな。俺は大丈夫だ」
「どうやって...?」ショウコは驚きを隠せなかった。
シンの姿は微笑み、ゆっくりと手を動かした。彼の周りに小さな光の粒子が集まり始め、それらが映像のように形を作っていった。彼が見ているものを共有しているようだった。
映像は二つの球体—赤と青—を示していた。それらの間にはシンらしき光の存在があり、二つの世界を安定させていた。映像は彼が「橋渡し」としての役割を果たしていることを示していた。
「彼は言おうとしている」鏡也が解釈した。「彼は役割を果たしていて、二つの世界は安定していると」
シンの姿はうなずいた。彼は再び口を動かした。
「二つの世界の間、多くの可能性がある」
「可能性?」ショウコは繰り返した。
シンの周りに新たな映像が形成された。それは無数の小さな球体—様々な可能性の世界—を示していた。彼はそれらすべてを見ることができるようだった。
「彼は可能性の世界全体を見ている」鏡也は驚嘆した。「そんな視点を持つ存在になったのか」
シンの姿は再び口を動かした。
「お前を許す。だが、お前とは一つにならない」
鏡也は息を呑んだ。その言葉は彼に向けられていた。
「彼は...俺を許している」鏡也の声が震えた。
「でも、完全に融合することはない」ショウコが続けた。「彼は自分のアイデンティティを保ったまま、あなたを受け入れたの」
シンの姿はうなずき、微笑んだ。彼は鏡也を許したが、彼とは別の存在であり続けることを選んだのだ。それは全面的な否定でも、無条件の受容でもなく、健全な境界を持った赦しだった。
鏡也は深く頭を下げた。「ありがとう...弟よ」
その瞬間、シンの姿がさらに薄くなり始めた。彼の力が弱まっているようだった。
「行ってしまうの?」ショウコの目に涙が浮かんだ。
シンの姿は彼女を見つめ、静かに口を動かした。
「また来る。必ず」
彼の姿はますます透明になっていった。最後の瞬間、彼は両手を広げ、何かを伝えようとした。しかし、その前に彼の姿は完全に消えてしまった。
部屋には再び静寂が戻った。しかし、それは絶望的な静けさではなく、希望に満ちた沈黙だった。シンは消えたわけではなかった。彼は形を変え、新たな存在として生き続けていたのだ。
「彼は本当に戻ってきた」ショウコは涙を拭った。
「ああ」鏡也もまた感動していた。「彼は約束を守った」
二人は窓際に立ち、再生する街を眺めた。玻璃の街は新たな光を放ち、人々は希望に満ちた表情で行き交っていた。
しかし、その平和は長くは続かなかった。
数日後、鏡の世界に異変が生じ始めた。建物の一部が突然透明になり、人々の中にも体が薄れ始める者が出てきた。街の再生と同時に、何かが崩れ始めていたのだ。
琴音博士からの緊急連絡で、ショウコと鏡也は中央研究所に集められた。
「何が起きているんですか?」ショウコが心配そうに尋ねた。
琴音博士はモニターを指さした。そこには二つの世界の状態を示すグラフが表示されていた。
「シンの『橋渡し』は機能していますが、鏡の世界そのものが不安定になっています」博士は説明した。「彼の力だけでは、完全に安定させることができないのです」
「なぜ?」鏡也が尋ねた。
「彼の存在が...不完全だからです」博士は悲しげに言った。「彼は人間の意識を持ったまま『橋渡し』になりました。本来、それは不可能なはずです。彼は意志の力だけで役割を維持していますが、それには限界があります」
「どういうことですか?」ショウコの声が震えた。
「彼の人間としての意識が残っている限り、完全な『橋渡し』にはなれない」博士は率直に言った。「彼の人間性と『橋渡し』の役割が、互いに打ち消しあっているのです」
「解決策は?」鏡也が緊張した面持ちで尋ねた。
「二つあります」博士は静かに答えた。「一つは、彼に人間としての意識を捨ててもらうこと。完全な『橋渡し』になること。それは...彼の人格の消滅を意味します」
ショウコは顔を青ざめさせた。「それは...彼の死と同じです」
「もう一つの選択肢は?」鏡也が急いで尋ねた。
「彼に代わる『橋渡し』を見つけること」博士は答えた。「あるいは、彼を補助する存在を作り出すこと」
ショウコと鏡也は顔を見合わせた。二つ目の選択肢しかなかった。シンの人格を消させることはできない。
「どうすれば代わりの、あるいは補助的な『橋渡し』を作れるのですか?」ショウコが尋ねた。
「『鏡の素質』を持つ者の自発的な犠牲が必要です」博士は答えた。「あなたたち二人以外には、その素質を持つ者はいません」
再び沈黙が訪れた。鏡也とショウコは互いを見つめ、何も言わなかった。しかし、二人とも同じことを考えていた。
「私が行きます」ショウコが決意を固めて言った。
「いや、俺が行く」鏡也が反論した。「俺がすべての始まりだったんだ。俺が責任を取るべきだ」
「でも...」
「議論する時間はありません」博士が遮った。「実際には...二人共必要かもしれません」
「二人とも?」
「はい」博士はうなずいた。「シンの両側に立つ二人の存在。それが最も安定した構造になるでしょう」
ショウコと鏡也は沈黙した。二人とも犠牲になることの意味を理解していた。しかし、彼らにはもはや選択肢がなかった。二つの世界と、そしてシンを救うために。
「準備をします」ショウコが静かに言った。
その夜、ショウコはシンのアパートに一人で来ていた。窓辺に立ち、街の夜景を眺めながら、彼に語りかけるように言った。
「あなたを救うことにしたわ、シン」彼女は呟いた。「明日、私と鏡也は『橋渡し』を助ける存在になる。あなたの両側に立ち、世界の安定を維持する」
彼女は自分の手を見つめた。明日、この手は実体を失い、光の存在になる。彼女はそれを恐れていなかった。むしろ、シンと再び会えることを楽しみにしていた。
「私の記憶があなたを救う」彼女は静かに続けた。「そして私の存在も」
突然、部屋の空気がわずかに変化し、シンの姿が前回よりもさらに淡く現れた。彼は彼女の言葉を聞き、必死に止めようとしているようだった。
「あなたの意思はわかるわ」ショウコは微笑んだ。「でも、これは私の選択なの。あなたが私たちを救ったように、今度は私たちがあなたを救う番」
シンの姿は彼女の前に立ち、両手を彼女の頬に添えるしぐさをした。実際には触れることはできなかったが、温かさのようなものを感じた。
「明日、必ず会いましょう」ショウコは約束した。「そして今度は、永遠に別れることはないわ」
彼女が部屋を出ようとしたとき、背後からかすかな声が聞こえた。振り返ると、シンの姿は消えていたが、彼の最後の言葉だけが空気中に残っていた。
「私があなたを愛したのは、記憶だけじゃない」
ショウコは微笑み、涙を拭った。「私も」
翌日、最後の儀式が行われた。
中央神殿で、ショウコと鏡也は儀式の円の中に立っていた。彼らは「補助的な橋渡し」となり、シンの両側に立つ存在になる準備をしていた。
「準備はいいですか?」琴音博士が尋ねた。
二人はうなずいた。彼らは互いの手を取り、深呼吸した。
儀式が始まると、光の柱が二人を包み込んだ。彼らの体が徐々に透明になり、光の粒子へと変わっていく。痛みはなく、ただ解放感だけがあった。
その瞬間、シンの姿が光の中に現れた。彼はより鮮明な姿で、二人の前に立っていた。
「来てくれたんだな」鏡也が言った。
「ああ」シンの声がはっきりと聞こえた。「俺はずっとここにいたんだ」
三人は手を取り合った。光が強まり、彼らの存在が融合し始めた。しかし、それは個性の喪失ではなく、調和だった。三人はそれぞれの存在を保ったまま、一つの力となっていった。
「このままでは、あなたも消えてしまう」ショウコはシンに言った。
「もう大丈夫だ」シンは微笑んだ。「三人でいれば、誰も消えることはない」
光が爆発的に広がり、神殿中を包み込んだ。琴音博士や評議員たちは眩しさに目を閉じた。
光が薄れると、中央の円には誰もいなかった。しかし、神殿全体が微かに脈動し、まるで生きているかのように感じられた。
「成功しました」琴音博士は測定器を確認して言った。「三人の存在が一つになり、安定した『橋』を形成しています」
外に出ると、玻璃の街全体が新たな光を放っていた。建物は透明さを失い、人々の体も安定していた。街は完全に再生していた。
数日後、ある変化が街に現れ始めた。建物の壁や窓に、時々人影が映ることがあった。それはシンであり、ショウコであり、時には鏡也の姿だった。彼らは街を見守る存在となり、鏡の表面を通じて時々姿を現すようになったのだ。
特に、シンのアパートの窓には、よく彼の姿が映った。彼は右半身が鏡のように透き通った姿で現れることが多かった。これは彼の二重の性質—人間と「橋渡し」の両方—を象徴していた。
人々は彼らを「鏡の守護者たち」と呼ぶようになった。三人の犠牲によって、街は救われ、二つの世界は安定を保っていた。
そして時々、月明かりの夜に、中央広場の噴水のそばで、三人の姿を見かける人もいた。彼らは笑い、語り合い、まるで普通の友人や恋人のように過ごしているように見えた。
彼らの犠牲は大きかったが、完全な別れではなかった。新たな形での存在、新たな形での絆。それが、硝子の代償と贈り物だった。
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