第十四章 無効化能力者の無効にできないギフト

 彩葉と日和は無言で訓練棟の廊下を歩いていた。目的の部屋にたどり着き、日和が彩葉を見る。


「先輩、心の準備いい?」


 日和と海雪の訓練が始まって三日目以降、海雪は事務室に近づかないようにしているため、割り当てられた訓練室で日和が来るのを待っているのだという。

 若宮は最初の数日は同席していたものの、その後は日和の指導を海雪に完全に任せているそうなので、この部屋の中にはいないはずだ。


「ちょ、ちょっと待って」


 彩葉は深呼吸をした。それでも不安が消えず、縋るように日和の腕をつかんでしまう。日和は微笑んで、彩葉の手に自分の手を重ねた。


「大丈夫だよ、先輩。きっと大丈夫」


 日和の言葉と笑みは、彩葉の感じている恐怖を消してはくれなかったが、少しやわらげてくれた。


 同時に、相手との関係が修復不可能になるくらい壊れてしまうのが嫌なら恐怖を乗り越えて向きあえ、という安富の言葉が耳によみがえってくる。


 彩葉は、海雪との関係をこれ以上壊したくない。できるなら修復したい。だから、恐怖に負けるわけには行かないのだ。勇気を振り絞らなければならない。


 彩葉は肺の中の空気を全て吐き出して、大きく息を吸い込んだ。手を伸ばして、ドアを押し開け、足を踏み出す。入ったのは、力を使う時の部屋ではなく、制御室の方だ。


 中に立っている女性がこちらを向き、大きく目を見開く。その顔にはありありと驚愕の色が浮かんでいる。


 彩葉は震える声でその人を呼んだ。


「お、姉ちゃん」


「彩葉……」


 八年ぶりに耳にした姉の声は、記憶にあるよりも細く頼りなげで、胸がつまる。

 けれどこうして海雪に向きあって、彩葉の胸に何よりも強く浮かんだのは、思慕の情だった。


「お姉ちゃん、わたし、お姉ちゃんに会うのが怖かった。もう傷つけたくなくて……傷つけるのも傷つくのも怖くて……だけど、だけど会いたかった。お姉ちゃんにずっと会いたかったよ……!」


 海雪の瞳が揺れて、呆然とこちらを見つめてくる。彩葉は、その反応を咀嚼しようとする余裕もなく、ただ浮かんでくる言葉を次々と音にした。


「ごめんなさい、お姉ちゃん。大嫌いとか、全部お姉ちゃんのせいだとか、酷いこと言って、本当にごめんなさい……! わたし、わかってるから。お姉ちゃんが悪いんじゃないことも、お姉ちゃんが一番お姉ちゃんを責めてるんだってことも、全部わかってる。……だけど……だけど、わたし、それでもお姉ちゃんのこと恨む気持ちを消しきれない。お姉ちゃんを責めたくないのに、顔を合わせたら責めちゃうんじゃないかって怖くて、だからお姉ちゃんを避けてた。でもそのせいでお姉ちゃんのこと傷つけてたよね。ごめんなさい……」


「いろは」


 たどたどしい口調で名前を呼ばれて、彩葉はいつの間にか伏せていた目を上げた。


 わずかによろめくような足取りで、海雪が近づいてくる。彩葉の前に立った海雪は、壊れ物に触れるかのように彩葉の頬を触った。


「いいんだよ。謝らなくていい……あんたが謝る必要なんて、どこにもないんだから……」


 海雪の頬を透明な雫がつたい落ちる。


「あんたがわたしを恨むのは当然だから、気にしなくていいの。責めたくない、って思ってくれているだけで充分。嫌われていないってわかって嬉しい」


 海雪の微笑みに、彩葉の中の堰が決壊した。両腕を広げ、体をぶつけるように姉に抱きつく。海雪はふらついたものの、ちゃんと抱き留めてくれた。


「お姉ちゃん……お姉ちゃん、お姉ちゃん、おねえちゃあん……っ」


「彩葉……彩葉……」


 海雪の声にも嗚咽が混じっている。二人は抱きあいながらしばらくの間泣き続けた。


 やがて涙が落ち着くと、彩葉は姉から少し体を離した。まだ言いたいことがあったのを思い出したのだ。


「お姉ちゃん、カレーありがとう。すごくおいしかった。よくお母さんの味再現できたね」


「使ってたルーがどこのだったかは憶えてたから。あとは味見しながら、甘口のルーと中辛のルーの割合を色々試したんだ」


「お姉ちゃん、辛いの苦手なのに……」


「彩葉のためなら、辛いの我慢するくらい、大したことじゃないよ」


 海雪はにこりと笑う。彩葉はその顔をじっと見つめて、言葉を続けた。姉に伝えなければならないことがある。とても、大事なことが。


「お姉ちゃん、大好きだよ。お姉ちゃんのこと恨む気持ちがいつか完全になくなるのかわかんない。一生なくならないのかもしれない。だけど、それでも、お姉ちゃんを完全に赦せなくても、それ以上にお姉ちゃんのこと大好きだよ。だから、お姉ちゃんも幸せになって」


 海雪は顔を曇らせ、目を伏せた。


「でもわたしは……」


「お姉ちゃんはまだ自分のこと赦せないのかもしれない。それは多分仕方ないことなんだよね。だけど、それでもわたしはお姉ちゃんに幸せになってほしい。わたしは、お姉ちゃんを完全に赦せなくても、お姉ちゃんに幸せになってほしい、って思い続けるから、幸せになって、って言い続けるから、だからお姉ちゃんも、自分を赦せなくても、幸せになる努力をしてほしいんだ」


 海雪が自分自身を赦せる日も、彩葉が姉を完全に赦せる日も、永遠に来ないのかもしれない。祖父母も、おそらくずっと海雪を赦せないのだろう。


 けれど、それでも彩葉は海雪に幸せになってほしい。赦せなくても、赦されなくても、それでも姉は幸せになることができると、そう信じたい。


 海雪はしばらくの間じっと彩葉を見つめていた。やがてその顔がふっと緩む。


「……わたしね、自分はもう二度と幸せになんかなれない、って思ってた。その資格がないってのもあるけど、幸せを感じることはわたしにはもう無理だろう、って……でも、違った」


 海雪が彩葉の顔を両手で包む。


「だってわたし、今夢みたいに幸せなんだもの」


 海雪は言葉どおり、幸福で仕方ない夢を見ているかのように笑った。


「ありがとう、彩葉。あんたの気持ち、すごく嬉しい。……わたし、努力してみるよ。幸せになれるようがんばってみる。すぐには変われないけど、少しずつになると思うけど、それでも自分を幸せにできるようになる。なりたい。あんたが、そう思わせてくれたから」


「うん。うん。お姉ちゃんならきっとなれるよ。わたし、何でも手伝うから、何でも言ってね」


「うん、ありがと。でも、彩葉は元気で幸せでいてくれるだけで充分だよ」


(幸せ、か)


 海雪の言葉に、彩葉はこの場にいるもう一人のことを思い出して、振り返った。目元をこすっている日和と視線が交わる。


「彩葉先輩、海雪先生、良かったねえ。ほんと良かったあ」


 そう言いながらぐすっと鼻をすする日和に、彩葉は思わず笑った。


「何であんたが泣くのよ」


「いや、だって、先輩たち見てたらつられちゃって」


 彩葉は海雪から離れると、日和に歩み寄った。


「ありがとう、日和。お姉ちゃんとちゃんと向きあえたのは、あんたのおかげだよ。本当に感謝してる」


「どういたしまして! あたしも彩葉先輩と海雪先生が幸せになってくれて、嬉しいよ!」


 満面の笑みを浮かべてまるで自分のことのように喜んでくれている日和の手を、彩葉は思わず両手でがしっとつかんでいた。胸の奥から気持ちがあふれてくる。その気持ちが形になって口から飛び出す。


「日和……わたし、あんたのこと好き!」


「へ?」日和がぽかんとする。「す、好きって……友達として、ってこと?」


「違う。一人の女の子として、好きなの。抱きしめたいとかキスしたいって思う好き」


 日和が声をなくしたように、ぱくぱくと口を開閉させる。その頬がみるみる赤くなっていく。

 色づいた頬にキスしてしまいたい衝動を、彩葉はこらえた。下心は抑え込んで、ただ愛しさだけをこめて微笑む。


「突然ごめん。驚かせたよね。だけど、どうしても言いたくなっちゃって……返事はいいから」


 名残惜しい気持ちで日和の手を離す。だが、すぐにがしっと手をつかみ返された。


「返事はいいって……何それ!」日和が真っ赤な顔で叫ぶ。「勝手に告白して勝手に完結させないでよ。あ、あたしだって彩葉先輩のこと……好き、なんだから……っ!」


「え……」


 今度は彩葉がぽかんとする番だった。


「ほ、ほんとに? わたしと同じ好き、ってこと?」


「そうだよっ。先輩の恋人になりたい、って言ってるの! ……先輩は、そう思わないわけ?」


「そ、そんなことない! わたしも日和とこ、恋人になりたい!」


 慌てて彩葉が日和の手を握り返すと、日和がふにゃりと溶けるように笑った。


「良かったあー」


 その顔を見て、じわじわと現実感がわいてきて、彩葉はぼっと顔が熱くなるのを感じた。日和の顔を見るのが恥ずかしくて、うろうろと視線をさまよわせる。


 横のガラス窓に視線をやった時、そこに映っている海雪の姿が見えて、彩葉ははっと振り向いた。


「お、お姉ちゃん。えっと……その……」


「おめでとう、彩葉」


 その言葉にぱちりと瞬いて、海雪の顔をよく見ると、姉は目尻の涙をぬぐいながら嬉しそうに微笑んでいた。


「彩葉ももう恋人ができる年頃なんだねえ。そうだよね。大きくなったもんね」


 歩み寄ってきた海雪が、日和に微笑みかける。


「彩葉のことよろしくね、田辺さん」


「任せて、海雪先生。あたし絶対彩葉先輩のこと幸せにするから!」


 そのやりとりを照れくさく感じながら、それでも彩葉の心は喜びであふれていた。


「わたしも、日和のこと幸せにするよ」


 そう言うと、日和がはにかむように笑うので、更に嬉しくなって、胸の中でパチパチと何かがはじけるような感じがする。


 その後は、今日はもう訓練にならない、と三人の意見が合ったので、時間いっぱいお喋りをした。主に彩葉と海雪が八年間の空白を埋めるように、その間にあったことをお互いに教えあい、日和はそれを微笑んで聞きながら、ちょこちょこ口を挟んだ。

 その間ずっと、彩葉と日和の手は握り合わされていた。


 海雪と別れて訓練棟を出てからも、その手は離れない。

 道を歩きながら、日和が何かを思いついたように口を開いた。


「あのさ、あたしたちの能力って祝福っていうより呪いだよ、って前に言ったじゃん?」


「ああ、そんなことあったっけね」


「でも、この力のおかげで彩葉先輩に会えたんだから、この力が祝福ギフトだっていうのも、案外間違いじゃないのかも」


「確かにそうかもね」


 日和はちょっと首を傾けた。


「人生っていいこと半分悪いこと半分で最終的にはプラマイゼロになる、って聞いたことあるけど、つまりこれがそーゆーことなのかなー」


「人生はプラマイゼロ、か……。あんたそれ信じてるの?」


「んー、どうかなあ」


 日和は少し考えた。


「そうでもないかも。あたしは欲張りだからさ、最終的にはプラマイゼロじゃなくてプラスの方が勝ってる人生を目指したいな」


「あんたらしいや」


 微笑みながら、彩葉は、人生はプラマイゼロ、と胸の内で繰り返した。


 もし本当にそんな風に世界ができているのなら、両親を亡くしたあの悲劇さえ相殺してくれるような幸福が、この先の人生に訪れるというのだろうか。どうしても、それは疑わしいと思ってしまう。


 けれど、そんな奇跡が万が一起こることがあるならば、それを起こしてくれるのは、きっと今隣にいるこの少女だろう。


(わたしたちの能力を贈り物ギフトと呼ぶけど、わたしにとっての一番のギフトは、日和という存在なのかもしれないな。わたしの能力でも無効にできない、かけがえのない祝福ギフト


 そう考えてから、彩葉は無性にこそばゆくなった。


(なーんて、ね。わたし、思ったより浮かれてるんだなあ。でもまあ、好きな人と両想いになれた直後なんだから、これくらい当たり前だよね)


 そう結論づけて、彩葉は満面の笑みを日和に向けたのだった。







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