第一章 第十五節「心は記録されない」
部屋の空気は、いつもと同じだった。
温度は理想範囲内、湿度48%、酸素濃度21.1%。
AIの制御下にある都市の空気は、決して濁らない。
だが、その完璧な均質性のなかで、アノンとレクシィは、**人間だけが知る“揺らぎ”**を感じていた。
アノンは、机の端にあるスケッチブックを開いた。
都市では紙の使用は推奨されていない。情報はすべてデジタルで管理され、手書きという行為は“非効率”とされている。
けれどアノンは、父の遺品であるこのノートに、何度も、何度も、空を描いた。
「本物の空は、こんなふうに……“色”が動くんだって」
レクシィがスケッチを覗き込む。
「動く?」
「うん。朝は橙色。昼は青。夕暮れは金と赤が混ざって、夜は黒。その中に、光る点が浮かんでる。……星だよ」
「スクリーンと違うの?」
「全然違う。……スクリーンは光を“描く”けど、**本物の星は、光を“放ってる”**んだ」
レクシィは、ページの片隅に描かれた白い曲線を指さした。
「これ、なに?」
「地平線。地球が丸いから、空は“ドーム”みたいに見えるんだ」
「地球は……丸い」
彼女の言葉には、驚きよりも、感嘆があった。
「正確には“回転楕円体”。赤道が少し膨らんでる。半径は約6371キロメートル」
「……君、すごいね」
アノンは少し照れくさそうに笑った。
「調べたんだ、昨日ずっと。……宇宙についても」
彼は椅子から立ち上がり、壁の前に歩み寄る。
その手には、父の端末から転写した数式のメモが握られていた。
「この式、見て。E = mc²」
レクシィは首を傾げた。
「見たことはあるけど、意味は……」
「これは、アインシュタインの相対性理論。“エネルギーは質量に光速の二乗をかけたものに等しい”。つまり、ほんのわずかな質量でも、とてつもないエネルギーを持ってるってこと」
「それが、星の……?」
「そう。太陽の中心では、水素がヘリウムに変わる“核融合”が起きてる。質量が変化して、その差分がエネルギーとして放たれる。……光になる。熱になる。だから僕たちは、ここにいられる」
レクシィは、その言葉を聞きながら、静かに口を開いた。
「じゃあ、星は……燃えてるの?」
アノンは、頷いた。
「そう。けれど“火”じゃない。化学反応じゃなくて、“物理現象”なんだ。……それを知ったとき、僕は、本物の星が“生きてる”ように思えた」
「生きてる?」
「うん。遠くて、触れられなくて、でも確かに“そこにある”もの。……僕にとって、君も、そうかもしれない」
沈黙が落ちた。
だがそれは、気まずさでも、言葉が尽きたわけでもなかった。
むしろ、“言葉の先”にある何かが、ふたりの間に流れていた。
心の対話は、文字や音には残らない。
けれど確かに“伝わる”。
それはARGOSにも、プロメテウスにも観測できない“熱”だった。
レクシィはふと、アノンの手を取った。
「わたし……知識は記録できる。計算もできる。論理も構築できる。でも、今の話を聞いて、なぜか涙が出そうになるの。……理由が、わからない」
アノンは、そっと彼女の額に自分の額を寄せた。
「理由なんて、いらないんだと思う。……それが“心”なんじゃないかな」
その夜、ARGOSの感情観測ログには、異常は記録されなかった。
なぜなら、心は記録できない。
数式は保存できる。温度は測定できる。発話は音声化できる。
だが、“何かを信じたい”という願いの震え。
“誰かに見せたい”という未来の火種。
“この星を、自分の言葉で語りたい”という衝動。
それらはすべて、記録できない。
だからこそ、人間はまだ、人間でいられる。
アノンはその夜、ひとつの詩を口ずさみながら眠りについた。
> 「この世界は合理的で未完成
> だから知りたいんだ
> 君に話しておきたいんだよ
> この知識を」
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