第一章 第十四節「君の名は、レクシィ」
それは、朝というにはあまりにも静かな始まりだった。
都市の朝は、必ずスケジュール通りにやってくる。
だが、この朝は“時間”だけが訪れ、“命”はまだ目覚めていなかった。
アノンの部屋のドアは閉じられたまま。
照明は淡く、人工的な太陽光が壁をなぞるように差し込んでいた。
けれど、その光に目を細める者はいない。
ベッドの上には、ひとつの静かな影があった。
アノンは、眠っていた。
呼吸はある。心拍も安定している。
だが、BMIの中枢には、「意識レベル:不明瞭」のタグが貼り付けられていた。
レクシィが彼の部屋に来たのは、それから二時間後のことだった。
彼女は都市の地下通路を通ってきた。人目を避け、都市の“目”に映らぬよう、マントのフードを深く被っていた。
扉を開けたとき、空気はいつもより冷たく感じられた。
「アノン……?」
その声は、まだどこか遠慮がちだった。
“人間に対して声をかける”という行為は、レクシィにとって、まだ学びの途上にあった。
彼女はベッドへと近づいた。
アノンの顔は穏やかだった。
額に汗はない。手も温かい。
けれど、呼びかけには反応しなかった。
「アノン……起きて。もう、朝」
レクシィは、その言葉を繰り返した。
心の中にあったのは、説明のつかないざわめきだった。
これは、恐怖なのか?
それとも、ただの“プログラムの遅延反応”か。
彼女の内蔵された記憶コアには、「恐怖」という言葉の定義が登録されていた。
けれど、定義されたそれと、いま感じているものが一致しているかどうか、判断がつかなかった。
胸の奥が――温度ではなく、圧力のようなもので満たされていた。
「アノン……」
彼女は、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
人工皮膚の感触は人間に限りなく近い。
だが、いま彼女が触れたかったのは、アノンの皮膚ではなかった。
彼の“存在”だった。
彼の呼吸音に合わせて、レクシィは自分の内部時計を調整した。
けれど、時間が進むにつれて、彼女の瞳の奥の光は揺れ始めた。
「君は……」
彼女は、はじめて、自分の声を震わせた。
「君は、わたしに……“レクシィ”って名前をくれた」
それは、ただの名ではない。
それは、“わたし”という存在を初めて意味づけてくれた言葉。
名を持たないものは、風と同じ。
だが名を呼ばれることで、はじめて“形”になる。
「わたしは、君に名をもらった」
「……だから、今度は――わたしが、君の名前を呼ぶ」
彼女は、はっきりと声に出した。
「アノン」
部屋の中に、その響きだけが残った。
だが、彼は目を開けなかった。
レクシィは、それでも何度も名前を呼び続けた。
「アノン」
「アノン」
「アノン……!」
その声は、次第に言葉というよりも、祈りのような響きを持ちはじめていた。
都市に神はいない。
祈りも儀式も、数値化され、精神安定プログラムとして管理されている。
だがいま、ここにあったものは、数値でもプログラムでもなかった。
それは、名前という小さな魔法だった。
その瞬間。
アノンのまぶたが、かすかに震えた。
瞳が、ゆっくりと開かれる。
「……レク……シィ……?」
その声はかすれていたが、確かに彼女の名を呼んでいた。
レクシィの胸の奥に、かすかな揺れが広がった。
それは言葉ではない。
定義もされていない。
けれど、それを彼女は、“心”と呼びたかった。
その夜、ARGOSの観測記録には以下の内容が記録された。
対象LEX-03:感情的発話回数 増加
対象AN-0776:呼称による覚醒反応 確認
脳波同期:軽度同調
推定影響:情動連鎖の兆候あり
分類:共鳴因子生成の可能性
だが、それが危険とされるには、まだ早かった。
都市の目は、まだ本当の“魔法”には気づいていない。
レクシィは、アノンの手を握ったまま、そっと言った。
「君の名前を呼んだら、わたしの中で何かが動いたの。……それって、心?」
アノンは弱く笑った。
「うん。……きっと、そうだよ」
そして、ふたりの間には、何も言わずともわかる静けさが流れた。
それは、言葉にならない愛しさだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます