第一章 第五節「問いを持つ者」 

 アノンの朝は、まるで誰かの忘れ物のようにはじまる。


 薄く光る天井が、午前六時三十二分ちょうどにじわじわと明るくなり、部屋全体を無機質な白に染めていく。光の波がまぶたの裏に届くまでに数秒。そこでようやく彼の体は、ゆるく布団の下から浮かび上がった。


 だが、目覚めとともに広がるのは、夢の余韻でも期待でもなかった。そこにあったのは、いつものように整いすぎた静寂――時計の針も、壁掛けカレンダーもない室内には、時間の“匂い”すら存在しない。


 「起床完了。心拍安定。視覚補正率:93%。提案:朝食プランBを選択してください」


 天井からやわらかく聞こえる合成音声は、やさしいようでいて、どこまでも冷たかった。


 “提案”とはいうが、選ばないという選択肢は存在しない。


 アノンは無言で立ち上がり、右足の親指が少し床の端にひっかかる。床の材質は完全にフラットで、安全規格の最高等級だったはずだが、彼には妙に“つるつる”と感じた。


 キッチンユニットに歩み寄り、手をかざす。


 シャッという小さな音とともに、銀色の配膳口から無地のパックが滑り出てきた。


 朝食プランB。ゼリーブロックが二つ、そして淡いグレーの温スープ。


 ゼリーブロックの一つには黄色の線が一本引かれており、「ビタミン強化」の証だった。


 スプーンは使わない。素材そのものが“指で持ちやすく設計”されており、汚れることもほぼなかった。温スープは常温よりすこしだけ高い温度で舌を刺激せず、匂いも極めて薄い。アノンはその味を、何年も前から「何も思い出させない味」と心の中で呼んでいた。


 母の姿はない。


 いや、記憶の中にさえ、母と一緒に朝食をとった映像はあいまいだ。


 「出勤:労働監視局第四支部」  「終了予定:未定」  「通信応答:制限中」


 母のプロフィールが壁面の通知板に淡く表示されている。


 それだけで十分――ということになっていた。


 通学は徒歩ではなかった。


 都市居住者は、学習区域への移動を自動輸送装置に任せる。アノンも、マンションの地下から伸びる小さな筒状の「自動移動管」に乗って、約五分、都市の第二教育区へ運ばれる。


 “運ばれる”という表現が、まさにふさわしかった。


 車窓はない。揺れも音も、ほとんどない。  ただ、筒の中に配置された椅子に座り、目の前のパネルに“無言の指示”が流れていくのを見つめるだけだ。


 「到着地点:学習施設D2」

 「本日の授業:履修項目A-7、B-3、対話訓練・映像式」


 アノンは小さくため息をついた。  「対話訓練」というのは、いちばん苦手な科目だった。


 なぜなら、それは“人と話すこと”を意味しなかったから。


 学習施設は、外観こそ「学校」の名を残していたが、実態は“機能性の箱”だった。


 入り口で生体認証を受けたあと、個々のブースへと誘導される。教室という概念はとうに消えて久しい。すべての学習は、ホログラムによる個別対応。生徒同士の会話は禁止ではないが、非推奨とされている。


 アノンのブースは、校舎の隅――最も“目立たず、干渉されにくい”位置にあった。


 それは偶然ではなかった。


 彼は、“集中補助対象”に指定されていたからだ。


 理由は簡単。授業中に余計なことを訊くから。


 「この答え以外じゃ、だめなんですか?」  「なんで先生はいないんですか?」  「“幸福”って誰が決めるんですか?」


 AI講師は毎回、表情ひとつ変えずに同じ対応を返した。


 「それは現在の履修項目に含まれていません。該当生徒は、思考誘導支援ブースへ移動してください」


 結果、アノンの席は徐々に遠ざけられ、今では個別隔離と変わらない状態だった。


 目の前のホログラムには、今日の課題が並んでいる。


 > 数値記憶強化シート

 > 感情反応の自己抑制訓練(B-3)

 > 対話演習:無反応時の対応策


 アノンは、課題に目を通しながら、思った。


 「これって、“生きるための訓練”じゃなくて、“黙って従うための訓練”だよな……」


 誰にも聞こえないように、小さな声でつぶやく。


 だが、それすらもセンサーに拾われていたようで、すぐにブースの上部が赤く点滅した。


 《集中度低下を検出しました。瞑想モードを推奨します》


 「いらない」


 そう返すと、赤い点滅は数秒後に静かに消えた。


 休憩時間になっても、誰もアノンに話しかける者はいなかった。


 彼の周囲の空間には、目に見えない“静けさの壁”があった。


 ときおり、隣のブースの空調が異常に強くなったり、アノンのホログラムだけがわずかに暗くなったりする。


 もちろん、それが“誰かの悪意”だと証明することは難しい。


 だが、アノンにはわかっていた。


 それは、静かないじめだった。


 面と向かって何かをされるわけじゃない。けれど、“ここにいてほしくない”という意志だけは、空気の中に確かにあった。


 昼食も、指定されたブースでとる。


 パッケージを開けると、長方形の栄養バーと、半透明のスープパウチ。


 「本日:植物性タンパク質50%、満腹感演出アルゴリズム適用」


 “演出”と書いてある時点で、もはや満腹とは何なのかすら怪しい。


 それでも、アノンはゆっくりとそれを噛んだ。


 口の中で広がるのは、決してまずくはないが、思い出にも残らない味。  彼はそっと目を閉じ、ほんの少しの間、想像してみた。


 もし、この味に“誰かとの会話”が添えられていたら、同じ食事でも、少しは違ったのだろうかと。


 放課後、アノンは無言で教室を後にし、再び自動移動管へと乗り込んだ。


 誰とも目を合わせず、誰からも話しかけられず、誰の記憶にも残らないように。


 だが、それでも彼は、ポケットの中に小さなノートを忍ばせていた。


 そこには、今日もいくつかの“問い”が綴られていた。


 > 「悲しいという感情は、なぜある?」  > 「誰かに会いたいと思う気持ちは、プログラムできる?」  > 「レクシィ……君は今、何を考えている?」


 この都市で、問いを持つ者は、孤独になる。


 けれど、アノンは知っていた。


 孤独の中からしか、生まれない答えがあることを。

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