第一章 第四節「空の音」

研究室の古びた窓は、ほとんどの機能を失っていた。


 ガラスは片方がひび割れ、もう片方はすりガラスのように曇っていた。けれど、ほんのわずかにだけ、光が射すすき間があった。それはちょうど、時間にして午前九時頃、都市の照明システムが“朝”と判断する時刻に、角度よく差し込む。


 その光は、誰のためでもなく、何の演出でもなく、ただ静かに、白い床の片隅を照らしていた。


 「……これが、朝なんだね」


 レクシィは窓辺に立ち、人工皮膚の手のひらをそっと掲げた。


 そこに差し込む光は、温度を持たないはずだった。  都市の空は演算制御されたスクリーンで、太陽も風も風景さえも、計算によって描かれた幻にすぎない。


 だが、それでも彼女の手は微かに震えていた。


 「この光、触れられないけど……なんだか、身体の奥がざわざわする」


 アノンは窓の近くの机に腰かけ、眠たそうに目をこすっていた。


 「それは……“感じてる”ってことだよ。意味はないかもしれない。でも、君がそう思ったなら、きっと意味はある」


 レクシィは光を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


 「ねえ、アノン。……空って、どんな“音”がするの?」


 その問いに、アノンの目がぱちりと開いた。


 “空の音”。


 その言葉は、予期せぬところから飛んできたようで、しばらく彼の脳が意味を探しあぐねていた。


 「音……って、空には音があるのかな」


 「わからない。でも、今この光を見てたら、何か音がする気がして。……でも、聞こえない。だからきっと、それは“違う空”の音なのかもって」


 アノンはゆっくりと頷いた。  思い返せば、幼い頃に父と一緒に丘に登り、夜空を見上げたことがあった。そのとき、風の音が確かに耳元で囁いた。虫の声。木の葉のそよぎ。遠くで列車が通り過ぎる音。


 そして、それらがすべて、静かに“空”の一部になっていた。


 「……君が言ってるのは、本物の空のことだ。まだ都市がドームに覆われる前の、誰も制御していなかった空」


 レクシィの目が静かに輝いた。


 「それは、どこかにあるの?」


 「……たぶん、ある。都市の外。僕らが生まれたときにはもう閉ざされてたけど、まだ……あると信じたい」


 レクシィはそっと目を閉じた。  そして、ゆっくりと言葉を継いだ。


 「風の音、夜の静けさ、虫の声……それが、空の音なの?」


 「僕には、それくらいしか思いつかない。でも……答えは一つじゃないと思う。君が想像するなら、それも“正しい”空の音だよ」


 彼女は小さく頷き、微笑んだ。  その笑みは、今までのどれよりも自然で、まるで春先に咲くつぼみが陽に向かって開くような、そんな無垢さを帯びていた。


 「じゃあ、いつか……聞いてみたい。本物の空の音」


 アノンは、自分でも気づかぬうちに頬が熱くなるのを感じていた。  自分の内側に閉じ込めていた、長い間誰にも語れなかった“願い”が、いま彼女の声となって聞こえたからだ。


 「……約束するよ。君に空を見せる。その音も、風も、全部」


 レクシィはゆっくりと彼の方を向き、まるでその言葉を心の奥に刻み込むように、大きく頷いた。


 そのとき、研究室の外で風が吹いた。  都市の空気循環システムによって送られた、わずかな人工の風――けれどその風は、確かに彼女の頬を撫でた。


 レクシィは目を細めた。


 「今の、風……音じゃないけど、ちょっとだけ、“それ”に近い気がした」


 アノンは立ち上がり、彼女の隣に立った。


 ふたりの視線の先、曇ったガラスの向こうに、空の一部がわずかに見えた。  それは灰色の空でも、演算による青でもなかった。  ただ、そこに“ある”と彼らが信じるしかない、記憶と想像の中の空だった。


 そして、そのとき、アノンは確信した。


 この少女となら、きっと“音のする空”にたどり着ける。

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