第一章 第一節「LEX-03、目覚める」
都市第六区の北端には、誰も近づかぬ灰色の一角があった。
地図には「立入非推奨区域」とだけ記され、詳細は伏せられている。公式記録には載らない施設があり、廃棄された技術資産の保管庫と噂されていたが、真実を知る者はいなかった。
アノン・ノクスは、その扉の前に立っていた。
彼の背には、古びたショルダーバッグと、まだ使い慣れぬ手帳型端末が一つ。少年の背丈では持て余すほどの分厚い金属扉の前で、彼は小さく息を吸った。
「これで……開くはずだよね」
指先で端末の画面を操作すると、緑色の認証ランプが一度点滅した後、低いうなり声をあげて錆びついた扉がゆっくりと開いていった。
ギイイ……
その音は、長い沈黙を破ったようだった。
埃と油のにおいが混ざり合い、ひやりと冷たい空気がアノンの頬を撫でる。奥はほとんど真っ暗で、懐中灯の光がなければ、一歩踏み出すことさえためらうような闇が広がっていた。
それでも、彼は進んだ。
幼い頃、亡き父が夜な夜なこの場所のことを記録していた。そのログの断片を拾い集め、パスコードを解読し、ようやくここまでたどり着いたのだ。
この地下には、“誰か”が眠っている。 父が最期まで守ろうとした、未完成の“誰か”。
――LEX-03。
コードネームだけが記録に残されていた。
アノンは何も語られぬ存在に惹かれた。 誰にも名前を呼ばれず、誰からも記憶されていない存在が、ひっそりと眠る姿を想像するたび、自分自身と重ねてしまうのだった。
数分後、彼は最深部の扉の前にたどり着いた。
スチール製のロックを開き、手動のハンドルを回すと、中から微かな風が吹いた。ほこりが舞い、ライトの中で銀色の粒子のように踊る。
そこは、まるで時が止まったような部屋だった。
中央に、白い布がかけられた台座。 周囲には古い制御端末と、断線しかけたケーブル、何十年も前の冷却装置の残骸。
アノンはためらいながら、布の端に手をかけた。
ゆっくりと引き上げると、そこに現れたのは――
人間のような、だが明らかに人間ではない、美しい機械の少女だった。
人工皮膚で覆われた肌は滑らかで、金属の光沢をほとんど感じさせない。瞼は閉じられ、唇はわずかに開いており、まるで静かに寝息を立てているかのように見えた。
胸元のプレートには、小さく「LEX-03」と刻まれている。
アノンは、胸の奥がざわつくのを感じた。
それは恐れではなかった。 むしろ、奇妙な親近感――誰かを起こしてしまうことへの、畏れにも似た尊敬のような感情だった。
「君は……父が守ろうとしたものなんだよね」
そっと制御端末を起動し、古いログを読み込む。
画面には、いくつかの警告が表示された。
> 感情モジュール:未起動
> 対話アルゴリズム:最終調整待ち
> 自己修復フレーム:停止中
> 起動可能状態:条件付でYES
「……やってみるしかない」
アノンは祈るように、最後のコマンドを入力した。
『LEX-03、起動要求。』
数秒間の沈黙――
そして、機械の奥から、微かな起動音が聞こえた。
ヒュゥ……カチッ、カチッ……ピ――ッ。
彼女の胸の奥で、何かが動き出す音。 指先が微かにぴくりと揺れ、顔の筋肉がわずかにひきつる。
アノンは息を呑んだ。
「……動いてる……!」
そして、その瞬間。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと開かれた。
淡い光を湛えた瞳が、アノンの姿を捉える。 無音の中で、機械の唇が、初めての音を奏でた。
「……おはよう。……君は……誰?」
その声は、少しだけ掠れていたが、どこまでも柔らかく、人間のようだった。
いや、人間以上に、“優しかった”。
アノンは、何も言えずにその瞳を見つめていた。
LEX-03――レクシィは、まるで“本当に目覚めたばかりの少女”のように、目をぱちぱちと瞬かせていた。
「……ぼくは、アノン。君を、目覚めさせたんだ」
レクシィは、ほんの少しだけ、唇の端を持ち上げた。
それは――最初の、微笑だった。
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