神々疾患

愛愁

神々疾患

私には常識というものが通用しない。自分を傾き者と評価してそれを良しとするつもりなんて魂胆は毛頭ないが、私には世の中の常識が全く理解できない。そういう意味での通用しないということである。通用しないのは世間に対しての私の常識なのだが。

一昔前の人も現代の人も、全ての人は等しく安心を求めている。何か一つでも縋ることのできるものがあればそれで満足であり、縋ることの満足度が非常に高いものは信仰対象とも呼ばれていたらしい。

その信仰対象は目に見える物だけに限らない。

悪魔の証明という古い言葉があるが、存在を証明できない反面それを絶対的に否定することなどはできないという性質を上手く使い、人々は一見空虚な偶像を創り上げ何かいるわけでもない空間に手を合わせていた。

私の価値観ではその動作を『祈り』と呼ぶ。祈りは今でこそ何の価値もないただの願掛けのようなものではあるが、私にとっての祈りとは古き良き世界に存在していたものと同様、立派に意味のある行為に他ならない。

「そうすると、君は墓参りにおいて手を合わせたりするのかね?現代の墓参りとは、いや、墓という物は個人が存在していたという証に過ぎない。墓に行ったとしてもそこでは懐古する以外に何をするというわけでも無いが、君は存在するわけでも無い先祖の霊とか魂とかに向かって手を合わせるわけだ」

「そうですね。目に見えない物が存在しないというわけではないので、私は先祖の墓の前に立ったのなら絶対に手を合わせます」

「目に見えない物が存在しないことの証明にはならないにしても、目に見えないのならば信用することはできないのだよ」

私と世間との価値観では大きく違うことがある。明確に言葉にするというのは少し骨が折れるが、とにかく根本的に違うのだ。東京から海に行くというのに、東京湾や茨城沖を無視して新潟や石川の方に向かってしまうほど、何かおかしいところがある。きっとおかしいのは私の方なのだろうが。

「そうだね...、君は墓の前で手を合わせる時、何を思って手を合わせるのだろう?祈りという所作は何かを思ってすることだと記憶しているが、君は一体何を先祖の霊とやらに思っているのだろう」

『先祖の霊”とやら”』という言い方が私の逆鱗を擽る。この歳になるまでの年月で、私は度々他人との価値観が外れていると感じることがあった。

あれは中学生の時、私に告白をしてきてくれた男の子がいた。私は私にそういう感情を持ってきてくれている事が嬉しかったので快くそれを承諾したのだが、私とその子は一度たりとも価値観が合う事なく別れたのだった。尤も、その一度たりともというのは一度の出来事だけだった。彼が告白の時に持参してきた物は花束でも恋文のような気持ちの丈を表す物ではなく、恋仲証明書だった。好きという気持ちは紙に書かなければ証明できないものなのだろうか、それほどまでに事務的に処理されてしまっていい物なのだろうか。私は男を好きになれなかった。

この言い方には語弊があり、私が好きになれなかったのは男というよりもこの世界のシステムなのだ。先ほどの医者が言う通り、目に見えないものを信用すると言うことは常識に当てこんで考えればあり得ないことだ。だからこそ、この世界の色々なものは物に置換される。それは表沙汰にするようなことではない、心の奥底で密かに、しかし凄まじく燃ゆる恋心ですらも物として証明してしまう。私はそんな証明しなければいけないことが何よりも嫌だった。

「例えば君が一昔前の価値観を持っていたとしよう。しかし、君の考え方はその一昔前でも通用するものでは無いと思うね。昔から続く様式というものは周りを見渡せば溢れており、そのうちの一つに『婚姻届』というものがある。恋愛感情を証明するということが嫌なのであれば君は婚姻届すらも否定するはずだ」

「別に婚姻届の制度は否定しません。結婚は個人間の問題ではなく、社会的な物です。社会的に認めてもらわなくてはならないということは、決して二人の愛を物として置換していることには当てはまらないと思います。それは愛情にくっ付いているものであって、それが無いと二人の愛情が成立しないというわけではありません」

「結婚は社会的な物だ。名前も変われば税金までもが変わる、そういうものだ。対して単なる交際では特に変わることはなく、そこに社会が介入する必要はない。そう言いたいのだね?」

「仰っていることは間違ってないと思います」

科学社会に近づくにつれて、人間は尚更見えるものだけを信用するようになった。即ち、科学で証明できないものは存在しないという考えを持つようになったということだ。

それが間違っているとは思わないが、私は科学がこの世の全てではないと思う。可能性の話をするのであればまだ発見されていない元素なんていうものが存在する可能性がある。宇宙にまで視野を広げてみたらその可能性はより現実的になるだろう。仮に宇宙規模まで拡大せずとも、例えば人間の作り方というものが存在する。鉛筆何本、水何リットル...。あらゆる材料を集めれば理論的には人間は製造可能らしいが、実際に人間が作れた試しは聞いた事がない。元素が、科学が、この世の全てではないと思うのだが、それは私だけらしい。私以外にそういう考えの人がいるとしても、少数派ということは言うまでもない。

「科学が殺した無数の物の内、最も影響力のあった被害者は『神』だろうか。君は神も信じているのかな?」

「信じているとまでは行きませんが、いるような予感がしています」

「いると思っているのと予感しているのではどう違うのかな?」

「例えば防犯カメラのないところでは悪い事が出来てしまいます。神がいると思っている人は、そこで悪い事をしようと思ってしまったこと自体に罪悪感を感じてしまうものですが、対している予感がしている人にとっては悪いことは神様が見ているような気がしているのでなんとなくやめておこうという考えになります。まあ、なんだか悪い気がするので、という曖昧なもの。感情の対象が人から神様になったと思ってくれればいいです」

かつては多くの宗教が存在していたと言うが、今ではそれはほとんど無い。世界的に有名で大きな宗教ですらも規模は縮小し、かつての面影は科学の登場と同時に消滅した。

何を信じるにも何を思うにも個人の勝手のはずなのに、今では何もかも目に見えるようにしなければ人々は満足しない。現代では目に見えない物の存在を否定し、しかし物体として観測できない人間の心のような類のものは無理にでも存在を保証してもらうことによって、昔の人たちも求めていた安心を別の方法によって入手しているのだ。

「お医者さんはお金そのものに価値があると思いますか?」

「ええ、お金があれば大抵のことはできますからね」

「でも、無人島にお金を持って行っても価値はないですよね」

「そうだね。お金は交換媒体として使用されているだけですから、お金の紙そのものというよりも互換性に価値があると言えるでしょう」

「その互換性は何が保証してくれているんですか?」

医者は困っているのか、うんざりしたような顔になり、そして溜息を吐いて私を診察室の外へと追いやった。人は不安要素に気づかなければ安心する物だ。不幸を知らなければ、幸福に浸っている事を自覚しないように。

決してしてやったりなどとは考えていない。ただ、私は自分の頭で思考する事を諦め目に見えるものだけを信用してしまう、およそ啓蒙という言葉を忘れてしまっているにも関わらず常識人ぶってる医者に業腹だっただけである。


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日没後の診察室には母親と医者がいた。

「最近娘はどうでしょうか...?」

「いやはや、改善の方向に向かっているのかどうか、全くもってわからない状況が続いています」

医者は何の躊躇いもなく母親に言った。

「娘の病気は治るんでしょうか...。まだ、神様とか先祖の霊がいるとか、言ってるんですか...?」

「まぁ、残念ながら変わらずですね。統合失調症は再発の可能性があるとは言いますけれども、彼女の場合は治る可能性が見えてこない。それ以前の問題というわけです」

母親は肩を落とした。

医者は続ける。

「まぁ、私が言うのも何ですがね、正直価値観の違いという他にないのですよ。価値観は矯正できるものではないのですから、性格なり、それらに基づくものが根本から常識はずれの人は治すのが難しいと思います。精神病と言っても、突き詰めれば個人の価値観なんですから」

「それでも、価値観が大きくずれてしまっているのは大変ですよね。母親としても、娘が社会で生きにくいというのは辛い事です...」

「そんなに落ち込まないでください。例えば鬱病というものがあるでしょう?あれは凄く昔では、まあ今もそうですが精神病に分類されておりますけれど、数十年前までは精神病に分類されていませんでした。総病み社会というのでしょうか、鬱病のようなマイナス思考は誰にでも持っている価値観という考えが常識でしたもので、彼女も生まれてくる時代が数百年早ければおかしいものでは無かったのです」

母親は再び肩を落とした。娘の境遇を憂い、しかしそれがおかしいものではないと言われてしまっては無理に『治してくれ』とも言えなくなってしまったもので、何の手立てもなくなってしまったからだった。

「目に見えないものがいると主張するのは統合失調症の症状ではありますが、まぁ、結局その時の時節柄によって常識はずれと言うものは変わりますからね。価値観においては、不安定なものですよ...」


母親と医者は一通りの会話を終え、母親だけが病院の光に背を向け、闇の中へと消えて行った。医者は一人になる。

「不安定なのは、お金も一緒なのか...」

医者は独り言を言ったつもりだったが、そこにいるわけでもない一人の女性に対して言葉を投げかけていた。

医者も病気なのかもしれない。

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神々疾患 愛愁 @HiiragiMayoi

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