第3話 節目
「ええと、志条さーん。聞こえますか」
灯里は路地裏の一角──さっきのとは遠く離れた別の路地に立ち、用意された無線に向けて声を掛けた。
「オッケー、聞こえてるし見えてるよ」
「そ、それはよかったです……はい」
曰く、「怪獣の卵」は人間が迂闊に触ろうとすると暴れ出し、好き勝手動いて逃げてしまうのだという。しかし、灯里が触るとそうした拒絶反応を起こさない。詳しい理由はわからないが、ごく稀にこうした「適性者」が現れるのだという。
一日中卵探しに奔走していた志条にとって、この特性を見逃す手はないわけだ。
作戦はいたって単純。人通りの少ない路地に灯里を歩かせて怪獣の卵をおびき寄せ、志条が隙を見て確保する。そのために志条はまたビルの屋上まで登って姿を隠している。
「灯里は固いなー。そんなんじゃ卵も寄って来ないだろ? 失敗したらどうすんの」
「どうもしないですよ。無関係じゃないですか」
「あはは、そりゃそうだ」
失敗してまずいのはこっちの方だ、と笑う志条の声はやや震えていた。
「というか、志条さん。無許可でビル登るのって不法侵入なんじゃ……?」
「そこは大丈夫。防衛隊の特権だから」
「特権」
防衛隊といえどそんなに軽々しく使って良い特権があるのだろうか? 灯里は訝しむ。
「そもそも怪獣の卵って具体的に何の卵なんです?」
「んー、機密事項」
「捕まえた卵はどうするんです? というか、どこから来たんですか、あれって」
「それも秘密」
「……そんな感じだから嫌われてるんじゃないですか? 防衛隊って」
志条は「痛いところ突くなぁ」と笑った。
防衛隊は組織されて以来その評判を下げていくばかりだったし、灯里自身もあまり良い印象は持っていなかった。
怪獣災害の専門家は救助活動の専門家ではない。被災者と直接関わることもない。どれだけ頑張ったとしても「怪獣はいつ倒されるのか」「被害はどれだけ起きたか」と結果を出さない限り誰からも認められない、いわゆる日陰の仕事だ。
「防衛隊って普段どんなことしてるんですか。言える範囲で」
「そうだなあ、訓練とか? あと怪獣災害対策講座みたいなのを学校でやったりね。来たことある?」
「それ、うちの高校も来たことありますよ。蜂名第三高校」
「三高かぁ、頭良いんだね」
「別に……私はそこそこですよ」
「ふーん? まあいいや、あとは今日みたいに怪獣関連の通報が来たら対応を任されたりね」
「通報で来たんですか。警察官みたいですね」
「そうそう」
「ちなみにどんな通報だったんです?」
「最初は空から隕石が降ってきた、みたいな話だっけな。そんで中に怪獣がいるかもってわかって、今に至る感じ? そういう得体の知れないのは自動的に防衛隊に回されるから」
「あの卵、空から降ってきたんですね」
「……別の話しよっか」
怪獣の卵を追いかけてビルから落っこちた当初からなんとなくわかっていたが、志条は物凄く詰めが甘い。というか誘導尋問にことごとく弱い。あとひと押しで多分機密を漏らしてくれる。もちろんそんなことを灯里がする意味はないのだが。
「こんな時間まで何してたの? 勉強?」
「買い物ですよ。お母さん忙しいから」
「へえ、偉いじゃん。看護師さんなんだっけ」
「そうですけど」
「じゃあ灯里も看護師目指してんの?」
「……考えたことなかったです」
率直に出た感想だった。身近すぎて想像できなかったというか、幼少期からお母さんみたいになりたいと思うことはあっても看護師になりたいとは思ったことがなかった。漠然と、就職といえばどこかの会社員にでもなるものとばかり思っていた。
「まあ、選択肢なんかまだいっぱいあるでしょ。高二なんて今から何にでもなれるよ」
「志条さん、なんか人生の先輩みたいな話し方してますけどあんまり歳変わらないですよね? 二十歳くらい?」
「ああ、まだ十八だけど」
「え」
「灯里は? 高二だから十六か十七?」
「十七歳……です」
「そっか、一個しか変わんないのか」
予想はしていたが思ったより若い。大人といえば大人だが、まだ成人式も済んでない年齢なのか。
十八歳ならまだいくらでも進路を選べるはずだ。何でそんな人がわざわざ高校を卒業して嫌われ者の防衛隊に入る必要がある? もっと違う選択ができたはずなのに。灯里の中でもやもやと浮かんだ疑問はすぐに払拭された。
「……あたし高校辞めちゃったからさ。なんか楽しそうで、羨ましいなって」
「!」
「なんか良いじゃん、スクールライフってやつ。ブレザーとか憧れあったんだよなー、一年で辞めたところはセーラー服だったし」
スクールライフって別に良いものでもないですよ、と言葉にしてしまえば楽だろう。だが、それは境遇に恵まれた人間の言葉で、自分を慰める以上の意味がないことはわかっていた。代わりの質問を模索する。
「……志条さんはなんで防衛隊に入ろうと思ったんですか?」
「あ? そうだなあ」
志条がビルの屋上で冷たい息を吐いた音が無線越しに荒い音として微かに聞こえた。
「人生変えたいって思ったから」
「!」
ぎい、とフェンスが何かに体重をかける重い音がした。
「生きてりゃさ、さあここから人生変わりますよって時が必ず来るわけじゃん。受験とか就活とか。そういう節目が来るまでに努力したやつの人生は大抵うまくいってる」
「じゃあ……志条さんは?」
「あたしはなんにも頑張らなかった」
志条の渇いた笑い声が聞こえた。
「八年前、この辺に怪獣が出たのは知ってる?」
「……リジネラですよね。確か」
「名前知ってんだ、詳しいじゃん」
父親を殺した生き物の名前だ。忘れるわけがない。
「じゃあ最初に襲われた地域がどこかわかる?」
「
父の遺体が見つかった場所だった。
「マジで詳しいな。この辺の人? 案外小中一緒だったりして」
「……怪獣学の教科書にも載ってる内容ですから」
嘘ではないが、本当の理由は話したくなかった。変に同情されるのも嫌だし、この一晩しか話さない相手にそこまで話す必要もない。
志条は「そっか」とすんなり納得した。
「あたしの家はそのすぐそばだった」
「……え」
「怪獣に家ぶっ壊された時も、そのゴタゴタで親が死んだ時も、一人だけ助かった時だって。あたしはただ悲しくて泣いてるだけで何にもしなかった。今が人生の節目だってわかってたはずなのにさ」
志条は自嘲的に笑う。彼女もまた、怪獣災害の被害者の一人なのだと知った。
「生きていたら当たり前に選べると思ってた選択肢がどんどん無くなってることにわかってて、手を伸ばさなかった。酷い目に遭った分、いつか見返りが貰えるとか心の中で思ってたんだろうな。でも現実はそうじゃなかった」
志条の言葉はどこか、今の自分自身と重なるところがあるように思えた。無数にある選択肢にがんじがらめになって、まだ見つけてもいない進路を気にして動かないでいる。将来の夢や目標を一度立ててしまうと、それ以外の選択肢を全部消してしまうような気がして。
何にでもなれるせいで、何者にもなり切れない。
「育ててくれた親戚に苦労かけたくなくて、深く考えずに高校辞めて無職になって。さあどうすんだって時にこの仕事に出会った」
「それが防衛隊……?」
「ああ。防衛隊っていつも人手不足でさ。十八歳になったら誰でも応募できるし、どんなやつでも受け入れてる」
続けられるかどうかは別だけど、と志条は笑ってみせた。
「あたしはさ、防衛隊がもっと早くできていたら今よりたくさんの人を救えたって思ってるよ。もしかしたらあたしの両親も助かったのかもって」
「……」
防衛隊発足のニュースを見て灯里が真っ先に思ったことだった。「もっと早く出来ていればお父さんは死なずに済んだのに」。
「それでさ、あの日助けてもらった身として、今度はあたしが誰かを助けなきゃって思った。
「しなかったんですか……後悔とか」
「全くしなかったわけじゃないさ。せめて高校はちゃんと卒業するべきだったかな? なんて」
そういって笑う志条さんの声が刺す陽の光のように眩しかった。
「……私も、志条さんみたいになれますかね」
「なれるよ」
真っ直ぐな言葉を返され、灯里は息を呑んだ。一筋の光に貫かれたような思いだった。
「うん、なれる。あたしにも出来たんだから」
憧れと理解は真反対だとよく言う。今、灯里が志条の生き様にどこか憧憬を抱いているのは、志条のことを何も理解していないことの証明だ。
「なんか……本物って感じですね」
「何、なんの話?」
「いや、本当に防衛隊の人だったんだなあって」
「疑ってたのかよ……二択を外さないとか言ってただろ」
「それとこれとは別ですよ、ふふ」
それでも、彼女のことを理解したいと灯里は真っ直ぐに思ってしまった。
きっと思春期の思い違いに過ぎないだろう。今までそういう勘違いをしないように避けて生きてきた。
でも、それでも構わないと思えた。
「……あの、志条さん」
灯里は恐る恐る、思っていたことを無線機に向けて言葉にしようとした。
「志条さんを助けた人って、もしかして──」
──いつのまにか俯いていた頭をふと上げると、それがいた。
「え? ああ、確か……」
「……いえ、あの、すみません、志条さん」
「?」
「目の前に
十メートル以上の距離が空いていたが、灯里は迷いなく目の前と表現した。それの間合いに入りかけているからだ。
「見つかったのか!?」
「いや、卵ではないと思います。……なんか二本足で立ってるし」
「……待て、まさか」
それは間違いなく、二本の脚で直立していた。人ではない。どちらかといえばヘビやトカゲに近い。木の幹のような太い脚と、臀部から伸びる第三の足。それが尾の類であること理解するのは少し遅れてからであった。
「孵化した……? いや、違う。何かがおかしい」
志条さんの緊迫した声。興奮が混じったそれとは反対に、灯里は全身の体温が一気に下がっていくのを感じていた。
「まずい、すぐにその場を離れろ!」
志条が必死に何かを叫んでいるが、灯里の耳には届かない。全神経が目の前のそれを理解しようと動いている。だから聞き慣れた声など届くはずもない。
わかっていても、動けない。ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返す以上のことができない。
それもまた息をしていた。きゅるきゅると奇怪な音が鳴る。肩らしき部分は動かない。剥き出しの目も黒くてぬめりのある皮膚も、その全てが真っ直ぐにこちらを向いて動かないように思えた。
目の前に怪獣が立っている。
そしてそれは灯里の知るあの卵から生まれたものではない。間違いない。二択ですらない。
だって、知っているから。こいつのことだけは。
「……リジネラ?」
目の前の怪獣は敵か? それとも味方か?
それも考えるまでもないことだった。
市街地に現れた怪獣が人を襲わなかった事例など、過去に一度もないのだから。
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