第1話 分岐点

 深く沈む意識の底で、微かな声が聞こえた。


「──」


 それは呼び声だった。遠くで誰かが自分のことを呼んでいる。


(誰……?)


「──、り──」


 辿々しい声だが、確かに呼んでいる。時折苦しそうなうめき声が混ざりながら、その声は明確にこちらに向けて発されていた。


(私に、助けを求めてるの……?)


 思い切り手を伸ばしたところで届きそうにないが、それでも少女は力強く手を差し伸べた。


 感じたのは、手のひらにじんわりと暖かいものが重なる不思議な感触。やがてそれは消え、少女はゆっくりと浮上する。


「──さん。久神くがみ灯里あかりさん」

「え、あ、はい」

「ちゃんと話聞いてました? 久神さん」


 少女──久神灯里がふと目を開けると、そこは知ってるような知らないような、とにかく物と人が散乱した場所だ。数瞬遅れて自分が高校の職員室に立たされていることを思い出す。


「ええと、課題提出でしたっけ」

「半分正解ですね」

「や、やったー……?」

「テストなら五十点しか取れてないですよ」


 すみません、とわけもわからないまま平謝りしようとする灯里に担任の国語教師が見せたのは、A4サイズの紙切れ一枚だった。


「進路希望調査票。提出期限は先週末でしたね」

「あ」

「久神さんが忘れ物とは珍しい。無くしたのならこれ持って帰って、明日中には出してください」


 プリントには第一から第四希望までずらりと空欄があり、進学なら大学名と学科、就職なら会社名を詳しく記すよう書いてある。


 ただ忘れていたわけではない。足元のスクールバッグに丁寧に折り畳んで同じのが入っている。


「まだ二年生ですから、この内容が受験や就活に直接関わるわけじゃありません。軽い気持ちでいいので、思ってることを好きに書いて提出するだけですよ。なんなら今ここで──」

「いや、ちゃんと持って帰って考えます。じゃあ失礼しました」

「……そう。忘れたはもう通用しませんからね」

「はーい」


 プリントをバッグの中に収めてから灯里は職員室を出た。


(なんだったんだろう、さっきの)


 生徒玄関でローファーを取り出すより早くポケットに忍ばせていたスマートフォンを起動した。規則上、校内でスマートフォンの使用は厳禁。だが登下校中なら問題ないというのが蜂名はちな第三高校の決まりだ。もっとも律儀に決まりを守る生徒は数えるほどもいないと思われた。


「夢……呼び声……あとは、手? 駄目だオカルトかスピリチュアルしか出てこない」


 灯里は検索を諦めてポケットにスマホを戻した。

 ルールは守るべきだが、時にルールより優先しないといけないものもある。単に縛るものではなく、周りを囲む安全柵のようなもので、時には乗り越えても良いというのが母の教えだった。

 ただ、灯里はそれを反面教師としてそれなりに真面目に生きていた。そういう性格は父譲りだろうか。しかし警察官として職務に殉じた父と違い、灯里は自分がどこで身の固めていくのかまだわからないままだった。


 自分の進路を決めきることができないでいた。体力はともかく学力はそれなりにあるのだから、身の丈に合った大学に進学すれば安牌。母親や先生など周りの大人はそう言うし、正論だ。同じ大学に行かないかと誘う友達も数える程度にいる。


 それでも、鞄の中の進路希望は二枚とも全くの白紙だった。


 室内履きからローファーに切り替え、またスマートフォンを弄っていると、メッセージが届いていることに気がついた。


『灯里お誕生日おめでとーーー!!!』


 噂をすれば、母からのメッセージだった。

 なぜか奇数に統一された伸ばし棒とエクスクラメーションマークの横には、何かが爆発する絵文字が同じように三つ並んでいる。


(なんの爆発だろう)


 反射的に「ありがとう」と送り、ああ多分クラッカーの絵文字か何かを出そうとして間違えたんだなと勝手に納得する。


「……そっか、誕生日か。今日」


 誕生日に職員室呼び出されて説教なんてださいな。灯里はふうと白い息をこぼした。


 返事を送ってから、母からのメッセージが十五時過ぎに送られてきたことに気がついた。休憩時間にしてはやけに遅い。

 経験上、こういう日は帰宅時間もかなり遅くなる。


『買い物済ませとくから仕事終わったら直帰していいよ。お疲れ様』


 そう付け足してから灯里は近所のスーパーに進路を変えた。


 十二月の月初めはまだ夕方だというのにずいぶんと薄暗かった。スーパーに入る頃には太陽はとっぷりと沈み、出る頃には月や星が出ていた。


(ちょっと遅くなっちゃったかな)


 メッセージに既読はまだ付いていない。

 ははあ、これはまた読みが当たったな。

 灯里は一人でにやつくと、ついでに洗濯物と風呂掃除でも済ませてもっと驚かせてやろう、という妙な孝行心まで湧いてきた。驚く顔とその後の笑顔を想像するだけでやる気が湧いてくる。

 灯里は生来、そういう善意の人だった。


 その時、ふと妙な物音が聞こえた。


「……?」


 見ると、そこはビルに挟まれた空虚な裏路地であった。取り壊し工事の途中で三角コーンが敷かれているその向こうだ。


 灯里が母娘で暮らす蜂名はちな市は、東京郊外ながら首都の威信を保つべく駅周りの都市開発に夢中であった。壊しては新しいものを作り、作っては壊され・・・を繰り返す蜂名において、こうしたちょっとした通り道は日常的に見かけるものだった。


 通り抜けられれば早く帰れそうだ。これくらいの横着は許してくれるだろう。灯里は夜食程度の罪悪感で歩む方向を変えた。


 思えば、そこが最初に線路が切り替わった瞬間だったのだ。

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