第13話 <四月十日>



 大学病院だと、医師や看護師以外も夜勤をしなくてはならない人間は多くいる。


 その一つが薬剤師だ。入院中の患者の容体が変化した時、医師が入力したその薬をすぐに用意しなくてはならない。薬剤師は医師が入力した薬を見て、きちんと量が適切か、飲み合わせは大丈夫か確認をする。医師だって人間なのだから、入力を間違えることもある。患者に投与する前に、薬剤師と共に投与してもよいものかきちんとチェックしているのだ。


 またM病院は夜間診療も行っているため、夜間に受診した人のための窓口もある。外来用の薬の受け取りは、外来受付のすぐ隣に位置している。夜になるとほとんど電気も消え、薄暗くなった外来棟の中で、薬局だけが明かりをつけていた。


 夜の処方はそう多くもないため、窓口にはこう書かれている。


『御用の方はインターホンを鳴らしてください』


 薬が欲しい患者はそのインターホンを鳴らして薬剤師を呼び、薬を受け取って帰る……というわけだ。ちなみに薬は、医師が入力するとすぐに薬剤師が準備に取り掛かっているので、ほとんど待ち時間はなく渡せるようになっている。


 薬剤部で働く服部健一郎さんは、その日夜勤だった。ここで働き出してもう十年以上になるベテランで、忙しい毎日に追われている。その日も夜に入ってくる医師からの指示を見て薬を用意していた。


 夜の十一時もすぎ、もう少しで日付が変わる頃。少し仕事が落ち着いたタイミングがあり、服部さんは椅子に腰かけて一人、休憩を取っていた。M病院では、夜間外来のための薬剤室には通常二人勤めることになっている。なので服部さんの他にもう一人同僚がいたが、丁度トイレに休憩に行っているときだったので、服部さん一人が待機していた。


 するとその時、薬の指示が送られてきたのですぐに取り掛かった。子供への処方だった。子供は特に、その体重で薬の量を考慮しなくてはならないので特に気を張る。服部さんはすぐに取り掛かり、しっかり準備を行った。


 薬の準備が終わり少し経った頃、インターホンの音が鳴り響いた。


 ピンポーン……


「この患者だな」


 服部さんは、袋に詰め終わった薬を手に取って窓口へ向かう。外へ出てカウンターを見たとき、自然とその足が止まった。てっきり、子供を抱きかかえた母親か父親がいるのかと思っていたが、立っていたのは一人の女性だけだった。電気も必要最低限しかついていない薄暗い病院内で、彼女は俯いてひっそりと佇んでいる。


 いや、別におかしいことじゃない。両親と一緒に受診して、子供は父親が先に車へ連れて行ったのだろう。服部さんが足を止めてしまったのは、その女性の風貌がやけに印象的だったからだ。


 真っ黒な髪はひどく痛んでおり、無造作に顔の前に垂れていた。首が落ちそうなほど俯き、顔がほとんど見えない。そしてこの薄暗い中でも目を引くような青いワンピースを着ていた。体はかなり華奢で、今にもぼきっと音を立てて折れそうだと思った。


「はい、お薬ですか?」


 服部さんはすぐに笑顔で対応する。やや変わった人だなと思ったが、仕事上いろいろな人と接するので慣れている部分もある。


「処方箋をお願いします」


 服部さんがそう話しかけたのだが、女が一向に動かないので不思議に思った。彼女は俯いたまま、頭を小さく揺らしているだけで、処方箋を出すそぶりがない。


「……あの?」


 顔を覗き込むようにして尋ねると、女の口元が見えた。真っ赤なリップが、唇からはみ出して塗られていた。


「……イスルギミサトを探しているのですが……」


 その唇が動いて出てきた言葉はそれだった。掠れたような、痰が絡んだような力ない声で、服部さんは首を傾げる。


「なんです? 何を探しているんですか?」


「イスルギミサトです」


「え? 人ですか?」


 きょとんとしてしまったが、もしかして子供が迷子にでもなったのか、と思った。だがすぐに、目の前の女から感じる得体のしれない不快感がそれを否定する。どう見ても、子供がいなくなって焦っている様子には見えない。そもそも、夜間診療に来てるほど体調が悪い子供が迷子になるなんて、ありえるんだろうか。


「どなたですか、その人は? 迷子? 一体いつどこではぐれたんですか?」


「イスルギミサトがこの病院にいるはずです。探してるんです。何か情報を下さい」


「え? ……あの、ですからどのような関係で、はぐれた経緯などを」


「そこに、いますか」


 女はすっと人差し指を出し、服部さんの後ろを指さした。その指は爪が伸びきっており、指と爪の間に汚れが入り込んだ不潔感のある指先だった。


「あ……薬剤師を探している?」


「イスルギミサトがいますか。いたら出してください。ここに。出してください」


 淡々と繰り返す機会のような音声に、嫌な気持ちが増す。


 今日、勤務している同僚の名前はまるで違うし、なにより同僚にイスルギミサトなんて名前の人はいなかった。もしいたとしても、こんなに怪しい人に答えを教えるわけにはいかないと思う。家族というわけではなさそうだし、どう見ても常人ではない。


 一体どうすればいいのかわからず、服部さんは対応に困った。そうだ、一度警備員に来てもらおうか。


「えっと、少しその場でお待ち頂けますか」


「知ってるんですか? イスルギミサトを」


「今すぐにはわからないです。探してみないと」


 服部さんは相手を逆上させないようにそう話を合わせ、一旦中へ入って警備室に電話をしようと動き出した。するとそこへ、人の足音が聞こえてきた。薄暗い廊下の奥から、子供を抱えた父親と、その隣には母親らしき女性が歩いてきている。今度こそ、薬を取りに来た患者だろう。


 しまった、と思い、服部さんはちらりと横目で女を見る。あまり他の患者に、しかも子供に近づかせたくないと思った。なので彼は、先ほど作った薬を手に持ってカウンターを飛び出し、その親子に自ら近づいて行った。


「お薬ですか?」


「あ、はい! 処方箋です」


「はい、確かに。ええっと、少しだけ説明を……」


 服部さんはちらちらと後ろを見ながら、急いで親子の対応をする。幸い、あの女は動くことなくカウンターの前に立っているだけだ。攻撃的なことをするような人じゃないのかもしれない。


 早口に説明を終え、無事に薬を渡し終える。ほっとして再びカウンターの方を振り返った時、彼の動きが止まった。


「あれ……」


 いつの間にか、女がいなくなっている。


 慌てて辺りを見回すが、女の姿はどこにもない。おかしい、これだけ人気のない場所で歩くと、足音が聞こえるはずなのに。


 困る服部さんを見て、帰ろうとしていた親子が不思議そうに見てきた。


「あの、どうしました?」


「ついさっきまであそこに立っていた女性、どこに行ったか見てましたか?」


 服部さんがそう尋ねると、両親は顔を見合わせた。


「……誰かいたっけ?」


「え……気づかなかったけど……」


 その言葉を聞いて、そんな馬鹿な、と彼は思った。


 自分は説明をしながら何度か振り返って確認しているし、あの青いワンピースは目立つから気付かないわけがない。嫌でも目に入ってくる風貌ではないか。だが、両親が嘘を言っている戸も思えなかった。


 血の気が引いていく。


 混乱する頭を必死に落ち着かせていると、ずっと黙って父親に抱かれていた子供が服部さんを見た。年齢は五、六歳ぐらいの女の子だ。熱が高いらしく顔が真っ赤になっているが、比較的はっきりした声を出す。


「……青い服を着た、おばさん」


「あ! そ、そう、その人だよ! そこにいたよね?」


 服部さんが慌ててカウンターの方を指さすと、女の子は小さく首を振った。


「ずっとおじさんのすぐ後ろにいたよ」


 


 結局、あの後青いワンピースの女は戻ってこなかった。


 服部さんは、トイレ休憩から戻ってきた同僚に真っ青な顔で今あったことを話すと、同僚は単純にも『初めて怪談話を聞いた!』と笑った。だが、服部さんの尋常ではない怖がり方に、すぐに真剣な面持ちになった。


 同僚もイスルギミサトという名前は知らないと言い、ただの不審者として上司に報告した方がいいのではないかと助言した。だが服部さんは、女が消えてしまったことを上手く話せる自信がない、あれはどう見ても生きてる人間じゃなかったと言って、報告をためらった。


 結局、彼は今回の件を上司には報告しなかったのだが、後日高熱にうなされることになる。熱はなかなか下がらず苦しんだが、単に病院という勤務地のため、風邪を貰ってきたのだろう、と本人は思っている。

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